格好良い人だったんですね。
意志の強そうな優しい口元が表現できました。
2015年の今日6月5日に私は、「感動するちから」というタイトルで、
アバのボーカルアグネッタのことを書いています。
アグネッタは、私達に「感動する力」をもたらしてくれていると書いています。
「感動するちから」を私達の中から呼び覚ますようなことになります。
人が感動するのは、何かの拍子に弾けることだと考えています。
広辞苑では、「深く物に感じて心を動かすこと」と出ています。
心を動かすのは、本人です。
アグネッタは、「感動するちから」を呼び起こしてくれている。
物とは、優れた芸術作品であったり、職人技だったり絶景だったりします。
深く感じるのは、自分の中の何かに当るのではなく、
まっさらな心(和紙)に墨汁が一しずく落ちるようなことではないでしょうか。
ひねくれ者でも、感動の前では脱帽です。
まさかが起こる。自分の中に起こる。
私達に、公平に分け与えてくれている神様からの贈り物です。
幸せは、努力して得るものです。
感動は、横着もので、一瞬にして得られます。
どんな状況下でも得られます。
努力しなくても得られます。
そうでしょうか。
野球では、3割バッターは優秀な部類とされます。
7割は、失敗です。
失敗を恐れずに一生懸命やりなさいとコーチは教えてくれます。
騎手武豊さんが言われるように、
「失敗を恐れて、無難にこなして結果が出ても心底喜べません。」
これしかないと、やった結果が7割に入ろうと、もはや関係ない。
自分にしか解らないことです。
運がなかった。とあきらめるしかありません。
上手く行かない時があるから、深く感動するとも考えられます。
感動が多いほど、深いほど幸せではないだろうか。
一年前に、鮮烈に感じた「感動するちから」をくれることについてもう一度考えてみました。
感動を与えることは、戦略的にこしらえてもなかなか出来るものではない。
作詞家の阿久悠さんのように、練りに練った五感に訴えるような詩が書けるわけでもない。
陽に当りたいと、木々が一生懸命伸びた結果が、
折り重なる山の緑になるようなことかもしれない。
「感動するちから」を与えることは、万人にはできないこと。
さすれば、「感動するちから」を持つ側にまわれば良い。
深く感じるには、上手くいかないことを積み重ねるしかないのかもしれない。
やはりこれと言った閃きが出ませんでした。
またの機会に何度でも考えていきたいと思います。
わからない 正直な答え またも積む
2016年6月5日
2015年6月5日投稿記事「感動するちから」を参照ください。