故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

感動するちから Part2

2016-06-05 08:38:27 | プロジェクトエンジニアー

格好良い人だったんですね。
意志の強そうな優しい口元が表現できました。


2015年の今日6月5日に私は、「感動するちから」というタイトルで、
アバのボーカルアグネッタのことを書いています。
アグネッタは、私達に「感動する力」をもたらしてくれていると書いています。
「感動するちから」を私達の中から呼び覚ますようなことになります。
人が感動するのは、何かの拍子に弾けることだと考えています。
広辞苑では、「深く物に感じて心を動かすこと」と出ています。
心を動かすのは、本人です。

アグネッタは、「感動するちから」を呼び起こしてくれている。
物とは、優れた芸術作品であったり、職人技だったり絶景だったりします。
深く感じるのは、自分の中の何かに当るのではなく、
まっさらな心(和紙)に墨汁が一しずく落ちるようなことではないでしょうか。

ひねくれ者でも、感動の前では脱帽です。
まさかが起こる。自分の中に起こる。
私達に、公平に分け与えてくれている神様からの贈り物です。

幸せは、努力して得るものです。
感動は、横着もので、一瞬にして得られます。
どんな状況下でも得られます。
努力しなくても得られます。

そうでしょうか。
野球では、3割バッターは優秀な部類とされます。
7割は、失敗です。
失敗を恐れずに一生懸命やりなさいとコーチは教えてくれます。
騎手武豊さんが言われるように、
「失敗を恐れて、無難にこなして結果が出ても心底喜べません。」
これしかないと、やった結果が7割に入ろうと、もはや関係ない。
自分にしか解らないことです。
運がなかった。とあきらめるしかありません。
上手く行かない時があるから、深く感動するとも考えられます。

感動が多いほど、深いほど幸せではないだろうか。
一年前に、鮮烈に感じた「感動するちから」をくれることについてもう一度考えてみました。
感動を与えることは、戦略的にこしらえてもなかなか出来るものではない。
作詞家の阿久悠さんのように、練りに練った五感に訴えるような詩が書けるわけでもない。
陽に当りたいと、木々が一生懸命伸びた結果が、
折り重なる山の緑になるようなことかもしれない。
「感動するちから」を与えることは、万人にはできないこと。
さすれば、「感動するちから」を持つ側にまわれば良い。
深く感じるには、上手くいかないことを積み重ねるしかないのかもしれない。

やはりこれと言った閃きが出ませんでした。
またの機会に何度でも考えていきたいと思います。

わからない 正直な答え またも積む

2016年6月5日

2015年6月5日投稿記事「感動するちから」を参照ください。

コメント
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