過日,政府の教育再生実行会議が教育委員会制度の見直しを議論しているなかで,教育長に責任を一元化する案をまとめたという報道がなされました。教育委員のよる合議制を柱にする現行制度では,責任が不明確だという判断がはたらいているのです。それは最近ではたとえば,大阪市や大津市で発生した,いじめ・体罰による自殺事案への対応のまずさが反映していると思われます。
報道で知る範囲ではありますが,すこし気掛かりな点があります。それについて書いておこうと思います。これはまた,小さな証言録でもあります。
一般的に考えて,教育委員会の形骸化(月に1,2回程度の形式的な会議では意味ある検討は無理!),教育委員会事務局長を努める教育長の資質・指導力の問題(子らの真の幸せを思う深さが肝心!)などを思うと,改革すべき点は大いにあると思います。したがって,メスを入れることには賛成です。しかし,大事な点が抜け落ちているようなのです。なんといっても,教育委員の適性の問題。実行会議がまとめようとしている一元化案では,わたしの味わった苦い経験を踏まえると疑問が消えません。
首長が任命するお気に入り教育長を教育の基本方針なり教育内容なりについての最終責任者にしよういう考え方には不安が付きまといます。他の教育委員が方向性を示し,執行状況を点検する役割に限られるのも気になります。こんなかたちで責任の重さに軽重をかける論議に発想の貧弱さを感じます。
ここからはわたしの経験です。およそ10年余り前の話になります。その頃わたしは教育行政に携わっていました。そのとき,まちを二分する激しい選挙戦を経て首長が代わりました。結果,行政のあり方がこれまでと180度転換。結果,大きな混乱が生じたのです。新首長が議会に新教育長を想定して同意を求めた人は,生粋の政党人,それまでまちとはまったくつながりがなく,しかもまちの教育を実験台として位置づける偏狭さが垣間見えた人物でした。
わたしは議会から意見を求められました。それについては「未知な可能性があるかもしれないが,地元への愛着がないわけで,このまちの子どもの育みに熱意をもって語れるかどうか不安である。もしそれほどの気持ちがあるなら,このまちに住んで地元に溶け込もうとされるはず。わたしたちのまちを実験台にして混乱させてほしくない」と応えました。結局,この人事案は否決されました。
代わりの教育長候補として名が挙がり,結果としてこのポストに就いた人は,先の候補者とは正反対。主体性・指導性が欠け,首長の意のままに動くロボットのような方でした。なにしろ単に首長の恩師に過ぎなかったのですから。資質としては稚拙で未熟過ぎです。それによって教育行政は首長の意のままに流れる事態を招きました。首長にはそれで十分満足だったわけです。
しかし,教育行政内部においては上司・部下の信頼関係が完全に崩れていきました。考え方や姿勢に付いていける部下は一人としてなかったのです。この方もまた,まちにはまったく縁もなく,愛着もない人。これ以上の無用な混乱を避けるために議会が止む無く妥協した結末でした。当時としては,子どもへの影響のことを考えると仕方のない面もありました。
もう一つ付記しておきたい点があります。それは,従来,制度として新しい市町村教育長の正式就任にあたっては県教育委員会の最終承認を必要としていたことです。しかし,ちょうどその頃に地方分権の流れに沿って手続きが簡略化され,その必要がなくなりました。市町村の責任において選任してよいことになったため,さっそくこんな混乱が生じることになったのです。
(つづく)
(注)写真と本文とは関係ありません。