古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『特攻隊』で言っておきたいこと ……  その1

2014年12月25日 03時01分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 敗戦後、山陰の山奥に住んでいた子どもの頃、村に「あの人は特攻隊がえりだ」という人がいました。ちょっとおかしくなったというか、ふぬけになったというか、近寄りがたい雰囲気をまとっていました。特攻隊として出撃したけれど、飛行機が故障して帰ってきたといううわさでした。知人のお兄さんは「特攻隊だった。敗戦後郷里に還って学校の先生になったけど自殺してしまった」と聞いたこともあります。
「命の盛り」の心身とも健康で頑強な青年が、自分を鉄砲玉にして敵艦に突っ込んでいく。こんな理不尽なことを、あの戦争で日本は、なぜしたのか。
 昭和16年12月8日、日本が真珠湾攻撃をしてアメリカに戦争を仕掛けたとき、魚雷で敵軍艦を沈めようと親潜水艦から特殊潜航艇が出撃しました。「鉄砲玉のように体当たりする(死ぬ)のは駄目だ」と連合艦隊司令長官=山本五十六はこの作戦に反対したといいます。そのことが気持ちに引っ掛かっていて、一度山本五十六について本を読もうと思っていました。思い立ってから長い時間が過ぎましたが、このたび図書館の大型活字本で、阿川弘之の『山本五十六』を読みました。
 文庫本ですと上下二巻(850ページ)、大型活字本では5巻です。その中で、特殊潜航艇について書いてある部分をコピーします。

 (ハワイの真珠湾攻撃の様子を描写したあとに)

 尚南雲中将の機動艦隊のほかにハワイ作戦に参加したものとしては、7日夜までにオアフ島周辺の隠密配備についた先遣部隊の潜水艦群があり、そのうち「伊号第十六」以下五隻の潜水艦から放たれた五杯の特殊潜航艇は、敵味方双方の国で大きな反響を呼びおこした。戦死した九名の乗組員は二階級特進の栄誉を与えられ、翌年の三月六日にその氏名が海軍省から発表された。
 この豆潜水艦のことに関しては、戦中、岩田豊雄の「海軍」と題する文学作品があり、戦後、ジャイロ・コンパスの故障で艇をオアフ島の岸に乗り上げ、最初の捕虜となった酒巻和男の戦記があるが、山本は初め、収容が不可能だというので、ハワイでのこれの使用を容認しなかった。それを、乗員たちのたっての希望で、艇の航続距離を増す工夫をし、収容のめどを立てた上で出すことになったが、結局五隻とも親潜水艦に帰って来ず、戦果もほとんど挙げ得なかった。
 特殊潜航艇は甲標的とも格納筒とも呼ばれ、山本は内輪の者には「坊や」とも称していたが、全艇未帰還の報を聞くと、彼は痛心の様子で、
「航空部隊だけでこれだけ成果があると分かっていたら、あれはやっぱり、出すんじゃなかったなア」
 と言っていたそうである。

 阿川弘之の『山本五十六』は偉人や勇者の伝記でなく、できるだけありのままの人間・五十六を伝えようと書かれたものです。昭和四〇年に出版されたときは、「元帥(山本)の遺族から抗議が出て、訴訟問題にまで発展した。」(村松剛のあとがきより)特殊潜航艇は2人乗りのバッテリーで動くもので、9名が戦死、1名は捕虜になりました。(9名は『九軍神』に祀り上げられた)
 海軍の軍人だった阿川弘之は抑えの効いた文でこの特殊潜航艇にふれていますが、ぼくは心に引っ掛かっていることがあります。もし山本五十六が昭和18年4月に、米軍に暗号を解読されて戦死してなかったら、彼は飛行機による特攻隊を許さなかったのではないか。
 そんな個人の声で流れを止めることは多分できなかったでしょう。でも国家の正式な戦争の作戦として「飛行機による特攻」を容認したことを、その罪を、考えてみたいのです。
『特攻と日本人の戦争』 …… 許されざる作戦の実相と遺訓 …… 西川吉光 著 (2009年10月出版・芙蓉書房出版)という本を図書館で見つけました。おそらくぼくには、そんな機会はめったにないので、この際しっかり読んでみます。
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