中野京子の「花つむひとの部屋」

本と映画と音楽と。絵画の中の歴史と。

メンデルスゾーン協会コンサート

2006年04月29日 | 紹介
 昨夕は赤坂OAG ホールにて、日本メンデルスゾーン協会第10回定例コンサートを聴いた。読売日本交響楽団メンバー(井上雅美さんたち8人)の弦楽アンサンブルのすばらしい演奏に、仕事疲れの身体も頭もやわらかくほぐれてゆくのを実感。

 演目はまず生誕250年ということで、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で明るく。それからメンデルスゾーン「弦楽4重奏曲変ホ長調」と「弦楽8重奏曲変ホ長調」。

 合い間に星野宏美・立教大助教授のレクチャーが楽しかった。曰く、

 「モーツァルトもメンデルスゾーンも、絵に描いたような早熟の天才であった。ともに4歳年上のやはり天才級の姉がいて大きな影響を受けた。だが35歳、38歳とあまりに早世だった」
 
「アイネ・クライネ~」 出版が1827年と大幅に遅れたため、おそらくメンデルスゾーンはこの作品を知らなかったであろう」

 「弦楽4重奏変ホ長調に関してメンデルスゾーン自身が、「音楽にはある種のミステリが必要だ」と意味深な言葉を残している」

 「弦楽8重奏曲変ホ長調第3楽章は、広大な自宅の森のような庭で聞いた自然の音の描写であるとともに、ゲーテ「ファウスト」からの<ヴァルキルギスの夜>を音楽化したいという試みでもあった」etc,etc....

 ユーモアをまじえた彼女のこうした解説は、その後の音楽鑑賞のたいへん良い指針となり、コンサートの楽しさを倍加させてくれた。

 わたしにはとりわけ弦楽4重奏曲の複雑さと陰影が魅力的だった。とても弱冠16歳の手になるとは思えない(あの「真夏の夜の夢」序曲も17歳の作品だ!)。

 それにしてもメンデルスゾーンを考えるとき、彼が呼ばれるとおりの「幸せな音楽家」だったかどうかに疑問を持ってしまう。

 当時の作曲家たちのほとんどが貧しさに喘ぎ、家庭崩壊に悩み、著作権や職場の確保のために戦い続けたのに比べれば、確かに彼は金のスプーンをくわえて生まれてきたと言えよう。祖父は有名な哲学者モーゼスだったし、父親はメンデルスゾーン銀行の頭取だから、彼にはうなるほどのお金と名声が一生ついてきた。

 おまけにハンサムで多才。上流市民階級の子弟が受ける教育を全て受けた彼は、数ヶ国語をあやつり、名文家で、チェスの名手、ピアニストとしても指揮者としても一流、水泳もコーチより早く泳げたし、絵はセミプロ級の腕前だった。なろうと思えば祖父のような学者にもなれただろうし、父の跡をついで銀行家としても成功しただろう。

 愛情に包まれて育ったので、性格的にも円満だった。彼を心から愛し慕う、おおぜいの友人たちに常に囲まれていた。またフランクフルト一の美女と言われた女性と恋愛結婚し、4人の子どもに恵まれ、平穏な家庭を築いた。
 
 これらのうちのひとつでも持てればもう幸せと呼べる、と言いたくなる人もいるだろう。しかし彼は、19世紀ドイツに住むユダヤ人だった。排斥運動が悪化する中、ユダヤ人殺戮事件が起きていた時代のユダヤ人だった。彼自身、少年時代には道を歩いていて唾を吐きかけられたことがある。

 個人の責任とは別の、人種という、どうにもならない点をあげつらわれて排斥された人間を、いったい幸せと呼べるだろうか?

 メンデルスゾーン作品の、ロマンティックな優雅さの裏にある深い苦悩と静かな諦念はそんなところからきていると思わざるをえない。


♪彼とアンデルセン、そしてスウェーデンのソプラノ歌手リンドをめぐる3角関係の物語「メンデルスゾーンとアンデルセン」をお読みください ⇒ http://www.bk1.co.jp/product/2661441













 













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