中野京子の「花つむひとの部屋」

本と映画と音楽と。絵画の中の歴史と。

絵 馬 (short short story)

2006年04月06日 | 雑記
 明子は苔むした神社の石段を一足一足踏みしめながら、注意深く上っていった。
 今日で186日目。
 初めてここを訪れたときは満開の桜だった。薄桃色に霞むその美しさに陶然とし、すぐまたそんな自分を厳しく戒めたものだ。神に祈る身でよそに注意をそらされてはならないと・・・
 明子の願いはまだ叶えられていない。透明な朝の冷気が枯葉をふるわせる季節になったというのに。
 狭い境内に入るとそこは別世界だった。名もない神社で訪れるものも稀だったが、静謐な空間は母のようにやさしく温かく包みこんでくれる。いつものようにまず賽銭箱へ小銭を投げ入れると、明子はほっそりした白い指先を会わせて目を閉じた。
 それから横手の神主の住まいへ声をかける、
 「絵馬をいただきたいのですが・・・」
 もう顔なじみの、山羊ヒゲを生やした貧相な神主が、うやうやしい手つきで小絵馬を手渡してくれる。明子は財布から500円を取り出してそっと置いた。毎日の絵馬代で、明子の自由になるお金のあらかたが消えてしまう。だがこんな切ない日々の暮らしに何が欲しいというのだろう。どうかすると口紅さえつけ忘れるこのごろなのだ。
 神主はちらりと明子の目をのぞき、急いでその憐れみのまなざしを脇へそらした。そんな反応にはもう慣れている。自分がこの上なく不幸に見えるとしても、事実不幸なのだからしかたがない。明子は頬にあいまいな微笑を浮かべて境内の片隅に腰を下ろした。
 絵馬をじっと見つめていると、この半年間の嵐のような出来事が次から次へと思い出され、胸がつぶれる思いがする。明子はフェルトペンに力をこめ、ゆっくり丁寧な文字で願い事を書き込んだ、
 --秀一さんがやさしくなって、もとの明るい幸せな家庭にもどりますように。明子 --
 来る日も来る日もこの同じ言葉を書き続けてきたのだった。にもかかわらず明子は2たび3たび読み返してみる。どうぞこの願いが聞き届けられますように。どうぞどうぞ聞き届けられますように・・・
 やさしかったころの秀一が目に浮かぶ。会社から疲れて帰る彼のために腕によりをかけて夕食を作り、風呂の用意をして待った睦まじい日々。休日にいっしょに見に行ったロマンス映画。マージャンで夜中に帰ってきた彼を、
 「秀一さん、お帰りなさい」
 と玄関まで出迎えれば、
 「寝ててもよかったんだよ」
 とにっこり笑ったえくぼの可愛らしかったこと。
 いったい何がどうなったというのだろう、その秀一がしゃあしゃあと別の女をうちに引き入れるなんて!
 髪を茶に染め、爪を長く伸ばした品のない女、青く隈どった猫のような目で、うぶな秀一の見も心も奪った憎い女。
 明子は思わず口を手で覆った。あの女のことを思い出すだけで吐き気がしてくる。
 地獄だった。襖をへだてた隣室から、当てつけるように聞こえてきた夜ごとの女の嬌声。こんなつらい思いをさせられるくらいならわたしは出てゆきます、と明子がいくら泣き叫んでも、
 「そんな世間体の悪いことはさせない」
 と、秀一は相手にもしてくれなかった。
 布団の中で嗚咽をこらえながら耐えに耐えたあと、何が何でも戦って勝たねばならないとついに決意したあの夜--
 絵馬にポツリと涙が落ちた。
 たしかに明子は戦って、そして勝った。悪魔のような女は、1ヶ月後、憎々しい捨て台詞を残して秀一と明子の家庭から去ったのだ、こんどは別の男のもとへ。
 秀一はあとを追いはしなかった。が、それを機に別人のように変わってしまった。毎晩、酒を飲んでの朝帰り、休日もうちにいることはないし、明子が話しかけてもろくに返事もしない。あの女がいたとき以上の生き地獄だ。
 明子の願掛けが始まった。雨の日も風の日も通い続けて、書いた絵馬は186枚。鈴なりに並んだこの神社の絵馬は、どれもこれも悲痛な一つの祈りを唱えていた。秀一さんがやさしくなって、もとの明るい幸せな家庭に戻りますように、と。いったいいつになったらそれは叶うのだろう。200枚になったら?それとも300枚?
 ふと肌寒さを感じて明子は立ち上がった。いつまでもこうしていたら風邪をひいてしまう。万一寝込むようなことにでもなって、これ以上秀一にうとまれたら生きてゆけない。絵馬をもう一度読み返し、心を込めて奉納した。そして先ほどからこちらを見ていた神主に軽く頭を下げると、肩を落として家路につくのだった。

 「お気の毒になあ・・・」
 明子の寂しい後ろ姿を見送りながら、神主は思わずこうつぶやいた。するといつの間にかかたわらにきて、同じく明子を見守っていた神主の妻が、これに応えて冷淡に言い放った、
 「何が気の毒なものですか。1ヶ月でお嫁さんをたたき出したヒステリー婆さんじゃないの。いつまでも自分が息子の女房気取りなんだから」



































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