すてきなHPを開いていらっしゃる画家の岡野亮介氏が、たまたま「怖い絵」の評論をしてくださっているのを知りました。なんと嬉しい♪
これまでいろいろな新聞や雑誌に書評が載りましたが、どれも字数制限があるため短かすぎ、書き手としては物足りなく感じていました。その点、ブログは十分に論を展開してもらうことができ、感謝もひとしおです。
岡野氏から許可をいただき、以下に転載させていただきました。
「怖い絵」(中野 京子著 朝日出版社)という本を読んだ。小林秀雄の「批評」という文章について書いたり、最近絵の講評会もあったので、いわゆる制作者サイドから観る視点とは、また違った絵の鑑賞方法があることを、懐かしく思い起こして貰えた。日本画家である千住博氏に、「絵を描く悦び」(光文社新書)という著作があるが、そこに述べられた「背景は背景ではない」とか「余白をどう描くか」「全体を見ながら部分を描く」等という視点が、絵を描くときは勿論いつしか講評や鑑賞の時の、主眼となっていたのだろう。
ゴーギャンの「我々は何処から来たのか・我々とは何者なのか・我々は何処へ行くのか」という作品や、ピカソの「ゲルニカ」を挙げれば勿論皆無とは言えないが、印象派以降、貴族や歴史という題材から庶民に解放された絵画世界は、その殆どが日常の何気なさの中に美を見出し、やがては色や線など「純粋に絵画的要素」の追求に向かっていった。ただし恐怖の宿る絵を印象派以前のみと、私が認識しているとは誤解しないでください。この本にはドガやベーコン等、印象派あるいはそれ以降の作家たちの「怖い作品」も紹介されております。私のように「怖い絵」を「読む絵」と捉え直すと、どうしてもこの視点は押さえなければならない要になるのです。
かつて、歴史画が画家の真骨頂であった時代は遠く忘れ去られ、「今までなかった、それに気づくということ。その切り口を見つけ出すこと」と、千住氏が語るような個性の発露が、現代は重要視されています。そんな時代の変遷を踏まえれば、これは当然の帰結なのかもしれません。しかし絵を描く人と鑑賞者の間に在る、位相の違いは余儀ないものとしても、著者が示した「絵を読む」という視点は、現代の多くの人たちが絵を「見える範囲でしか見なかった」のでは、という盲点に改めて気付かせてくれた気もします。
くどくはなりますが、「直視的直感的」なるものが絵画の在り方で、私は間違いないと思ってきたし、それは今でも本当だろうと信じています。「作品が全てを語っている」ということもよく使われる言葉ですが、これも真実であろうと思います。しかし、小林秀雄の言う「ある対象を批判するとは、それを正しく評価することであり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定することであり・・・」という言葉に依れば、「正しく評価すること」は、作品に沿うことであり、直感だけでは成し得ないものです。
評論家の人達の存在意義は、こんなところにもあるのでしょう。歴史的西洋画の殆どが宗教とは切っても切り離せませんから、宗教を解らなければ、その絵を正確に評価する事は出来ないでしょう。絵画は教義の視覚的展開でもあった訳ですから、細部に及んだ図像学の知識が無ければ、その作品の云わんとしていることも正しくは理解できない筈です。私は人間が持つ「感性の共有性」で、絵画を感得する事は可能だと信じていますが、それだけで著者が示したような絵を“正確”に理解する事は、やはり不可能かもしれません。
この著作の冒頭には、ドガの「エトワール、または舞台の踊り子」が扱われています。「エトワールとは『スター』を意味するフランス語」だそうです。以下、多少のネタばらしはお許し願わなければなりませんが、優雅に踊るバレーダンサーは「スター」であったと同時に、「娼婦」の側面を持っていたことを、著者は歴史的に教えてくれます。更にドガの描いた視点から、画面に描かれたシルクハットの男が、描かれた踊り子のパトロンであったろうと推論されております。このような歴史的史実の指摘と、鋭い絵画描写の分析は、その後の作品にも同じ方法論で駆使されていきます。最後に「彼女を金で買った男が、背後から当然のように見ているということ。そしてそのような現実に深く感心を持たない画家が、全く批判精神のない、だが一幅の美しい絵に仕上げたということ。それがとても怖いのである」と、筆者の分析は画家の人間像にまでに及んでいきます。
私はドガの絵をこのように観た事はないので、この指摘は一つの驚きでした。若しここにロートレックを登場させると、著者の最後の画家論はどうなるかという興味も湧かないわけではありません。歌麿は水茶屋のスターたる看板娘を「美人画」として描きましたが、「青楼十二時」等に描かれた女性たちも、同じ美人画として描いています。「青楼」とは「吉原遊郭」のことですから、そこに描かれた美人は「娼婦」です。ゴッホも子持ちの娼婦シーンを描いています。小林秀雄はこれを駄作と論じましたが、ここにゴッホの全てを観る人さえいます。男性の目、女性の目、そして歴史の目は夫々ということでしょうか?
アルテミジア・ジェンティレスキの、「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」も紹介されています。旧約聖書外伝に出てくる「美しい寡婦ユーディト」が、侍女と共に敵地に乗り込み、アッシリアの将軍ホロフェルネスの首を刎ねる、という場面を描いたものです。そしてこれとほぼ同じ構図で描かれたカラヴァッジョの作品もあり、2作品が対比されていますが、そこには大変興味深い要素が含まれています。つまり「アルテミジア作品が圧倒的リアリズムを感じさせるのに対し、カラヴァッジョ作品がわざとらしい拵えごとでしかないだろう」という絵の分析はたぶん正確で、充分に納得させるものです。ここの登場人物は共に三人だけですが、各人物が有機的に絡み合っている作品は ―特に視線は― 例え名画といえども、なかなかお目にかかれないのです。アルテミジアの作品に表れた緊迫感が、カラヴァッジョの作品に見出せないことを指摘した中野さんの指摘は、全くその通りだと私も思います。そして作者のアルテミジアが女性画家であって、謎深い過去を手繰り寄せて作品に反映させていく手法と、その滑らかな文章運びには感心させられます。
私がこの書の中で最も興味を魅かれた作品は、ゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス」でした。それはこの徒然でも紹介しましたが、18歳の頃疑問を持った「美と醜」の問題に、このゴヤの作品が大きな閃きを与えてくれたからです。「主題はロ-マ神話の神サトゥルヌスが、自分の権力をやがて奪い取るであろうと予言された我が息子を、自ら食べてしまう絵である。既に首はなく、片腕もなく、いま正に血みどろになったもう一方の腕を喰らわんとしている様子が描かれている。言葉から想像すると残虐性と醜悪さしか感じないであろうが、しかし私はこの残酷な主題の絵を観た感動の中に『醜』なるものを感じなかった。その時に漠然とながらも「美」という概念が、単に美しいとか綺麗とか言われるものではなく、その対極にある『醜』までをも含んでいるような気がしたのである。勿論現実に我が子を食らえば猟奇的で醜さを超えたものであることは論を待たない。芸術化という視点が現実とどこまで関わりあうかの問題は非常に難しい」と(思いの儘の記2002/12/24・27)。
著者はゴヤの絵とルーベンスの同じ主題の作品を対比し、その描写の上手さを感嘆しながらも「舞台上で演じられる劇を見ているのに似て―略―いわば美的な恐怖を鑑賞できる」と評しておられます。厳しい言葉ですが、同感です。それに対しゴヤの作品は「『我が子を喰らうサトゥルヌス』のほんとうの怖さは、単に我が子を喰らっているからではない。そうではなくて、サトゥルヌス自身が感じている恐怖、それが錐もみ状に見る者の胸に突き刺さってくるから怖いのだ」と語り、「宿命に恐れ戦くサトゥルヌスは、自らを狂気に追い込まざるをえない。せめて狂気の裡でなら、子どもを喰らうことができるだろう」と続けています。やや飛躍してしまいますが、「半落ち」という映画の中で、アルツハイマーを煩った妻が、「自分が自己でいられるうちに殺して欲しい」と、願った思いにも通じたこの心理分析は、絵画や造形性の理解ではなくて、神を人間化させた故の結論のようにも想えます。
ルーベンスの描写は一歩間違えば品格(嫌な表現だが)に繋がっていく表現と感じます。しかし私はゴヤの描写にも、アルテミジア風の迫真的なリアルさは感じられません。だがそれだから著者が指摘したように、一層迫力のある描写として、観るものに訴え掛けてくるのかもしれません。
ダヴィッドには作品と人間性の関係、ジェリコーが作品を描くために死体の首を習作した描写への執念(浮世絵師の英泉にも同じ逸話があり興味深いものがあります)、ムンクの不安感、プロンツィーノの「愛の寓意」への図像学的解釈の紹介が平易にされています。近年話題を集めたラ・トゥールはこの著作の表紙になった作品です。中野さんの世界は、絵を観るということが絵を読むことに通じていくこと、同時にそこに含まれる謎の指摘は更なる知的興奮を呼び起こして、絵を観てそれを絵画言語に訳していくという、無限なる興味の連鎖反応を引き起こしてくれます。絵を余りに“造形的”に見ようとしていた眼を休めて、久々に本来絵の要素であったはずの絵巻物を読むような、絵の世界に導いてもらえました。
☆『怖い絵』、重版にあわせて帯が変わりました♪
☆☆帯の文面はーー「読み終わったとたん、われ知らずつい口に出た、絵ってすごいなあ。(菊畑茂久馬さん(画家)「西日本新聞」書評より)」
「名画の見方を借りた、知的でスリリングな文学体験。(結城昌子さん(「原寸美術館」著者)「共同通信」書評より)
☆マリーもお忘れなく!(ツヴァイク「マリー・アントワネット」(角川文庫、中野京子訳)