(前回からのつづき)
一ノ門跡あたりからあらためて天守を見上げてから降りて行きます。
こちらは一ノ門跡、二ノ丸跡を後にしたあたりだったと思います。
藤ノ丸跡にある城山郷土館ではお城だけでなく宇和島の街の歴史に関する資料を見ることができます。司馬遼太郎さんは宇和島を愛したびたび訪れたようで、大村益次郎を描いた「花押」をはじめ、「伊達の黒船」、「花屋町の襲撃」、「街道を行く」といった著作に宇和島が登場するそうです。
上の写真はその「花押」の一節。曰く、「『蘭学は宇和島』という評判が、すでに先代藩主の伊達宗紀のときから世にひびいていた。宇和島と言えば明治以降の交通地理では僻地で、その小さな城下町のまわり山々が屏風のようにかこみ、伊予松山からも土佐高知からもよほどの難路を踏みこえねばたどりつきにくく、しかも唯一の開口部は海でしかない。こういう土地に深耕度の高い学問文化が栄えたというのが、江戸期というこの分治制度のおもしろさであろう。」なのだとか。
先にご紹介したこちらの水道施設もインフラヲタ的には少々気になるところ。
「宇和島伊達400年祭」は昨年(2015年)3月から11月にかけて行われていたようですが、詳細は不明です。当日はそれらしい雰囲気は感じませんでした。
せっかく宇和島まで来たのだから闘牛も見ておきたかったのですが、先述のとおり生憎この期間はお休みでした。
こちらの「桑折氏武家長屋門」は宇和島藩の家老だった桑折(こおり)家の屋敷に残されていたところ、同家より昭和27年に譲渡を受けてこちらに移築されたものだそうです。
その長屋門の向かって左手の三之丸跡にあった「海鮮割烹 一心」さんでランチ。宇和島らしく鯛めしをいただきました。東京で食べる鯛めしと違って感じたのは雰囲気のせいでしょうか。
ついでに鮎の塩焼きもいただきました。記憶がおぼろげですが、期待通り四万十川で獲れたものだったと思います。名残惜しかったですがこれで宇和島を発って松山に向かいます。
(つづく)
一ノ門跡あたりからあらためて天守を見上げてから降りて行きます。
こちらは一ノ門跡、二ノ丸跡を後にしたあたりだったと思います。
藤ノ丸跡にある城山郷土館ではお城だけでなく宇和島の街の歴史に関する資料を見ることができます。司馬遼太郎さんは宇和島を愛したびたび訪れたようで、大村益次郎を描いた「花押」をはじめ、「伊達の黒船」、「花屋町の襲撃」、「街道を行く」といった著作に宇和島が登場するそうです。
上の写真はその「花押」の一節。曰く、「『蘭学は宇和島』という評判が、すでに先代藩主の伊達宗紀のときから世にひびいていた。宇和島と言えば明治以降の交通地理では僻地で、その小さな城下町のまわり山々が屏風のようにかこみ、伊予松山からも土佐高知からもよほどの難路を踏みこえねばたどりつきにくく、しかも唯一の開口部は海でしかない。こういう土地に深耕度の高い学問文化が栄えたというのが、江戸期というこの分治制度のおもしろさであろう。」なのだとか。
先にご紹介したこちらの水道施設もインフラヲタ的には少々気になるところ。
「宇和島伊達400年祭」は昨年(2015年)3月から11月にかけて行われていたようですが、詳細は不明です。当日はそれらしい雰囲気は感じませんでした。
せっかく宇和島まで来たのだから闘牛も見ておきたかったのですが、先述のとおり生憎この期間はお休みでした。
こちらの「桑折氏武家長屋門」は宇和島藩の家老だった桑折(こおり)家の屋敷に残されていたところ、同家より昭和27年に譲渡を受けてこちらに移築されたものだそうです。
その長屋門の向かって左手の三之丸跡にあった「海鮮割烹 一心」さんでランチ。宇和島らしく鯛めしをいただきました。東京で食べる鯛めしと違って感じたのは雰囲気のせいでしょうか。
ついでに鮎の塩焼きもいただきました。記憶がおぼろげですが、期待通り四万十川で獲れたものだったと思います。名残惜しかったですがこれで宇和島を発って松山に向かいます。
(つづく)