つれづれの記

日々の生活での印象

奥山を訪ねてー秩父盆地

2012年12月29日 23時31分56秒 | 日記

2012年12月29日(土) 奥山を訪ねてー秩父盆地

 

 

 先月初めの、仲間とのドライブ旅行については、当ブログに

     ・奥山を訪ねてー食の話題(2012/12/14)

     ・奥山を訪ねてー三峰神社へ(2012/12/18)

     ・奥山を訪ねてー御巣鷹の尾根(2012/12/21)

と載せて来たが、今回の、秩父地方に関する記事で、締めくくりとしたい。

 

 

○ 秩父夜祭り

 秩父と言えば、秩父神社の例祭である、「秩父夜祭り」が有名で、日本三大曳山祭りの一つと言われている。 今年も、先日の、12/2~3に行われたようだ。 大分以前だが、仕事の関連で秩父を訪れた時に、祭りの夜、色んな店が並ぶ広場に案内された記憶がある。

 秩父音頭に

     ♪秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて   秩父夜祭 アレサ待つばかり♪

とあり、養蚕や麦蒔きの農作業を終えて、夜祭りを心待ちにしている気持ちが込められている。

 

 今回は、秩父神社の近くにある、「秩父祭り会館」に立ち寄り、日中ながら、夜の祭りの雰囲気を、少しく味わわせて貰った。

 入口を入った所に、実物大の山車である、屋台と笠鉾(かさほこ)が展示されており、本番用ではないようだが、見事なものだ。以下の画像は、会館のHPから借用している。(「秩父まつり会館」秩父夜祭り 秩父まつり会館 屋台・笠鉾

   

         屋台                笠鉾 

 本番では、笠鉾が2台、屋台が4台、繰り出されると言う。笠鉾は、天頂から四方に吊り下げられる、賑やかで派手な飾り付けが見事である。又、周りに提灯が飾られた屋台には、人が乗って、中で、祭り囃子を演奏しながら、曳っぱられて行くようだ。

このような工作物に関心の深い仲間の一人が、自分で撮ってA4版に拡大してプリントした、笠鉾などの、見事なカラー写真を、送り届けてくれた。

 

 展示されている2種の山車の前で、祭り囃子の実演が始まった。下の写真にあるように、きりりと締めた鉢巻が似合う、祭りの装いで

     太鼓 小太鼓×m 横笛×n 鉦 呼子

などの楽器を使って、演奏してくれた。

下の写真は、自作のものが不良だったため、同行の知人が写したものを使わせて貰っている。

 祭り囃子の演奏風景

 昼食前の、約1時間に亘り、賑やかで力強いリズミカルな演奏を、数曲、楽しませてもらった。

曲の途中で、太鼓 小太鼓 横笛 などで、演奏を続けたままで、切れ目なしで奏者が交代する、離れ業も見せて貰った。

 小太鼓や横笛などは、中学生位の子供達も立派にこなしているのは、伝統文化の継承と言う意味でも素晴らしいことだ。当日は日曜だったが、実演は、仕事や学校が休みの、日祝日に行われているようだ。

 

  演奏を聞かせて貰って、幾つか、気になったことがある、

     ・演奏は、予めどんな約束の下で行われていて、全体の進行役はどうなっているのか

     ・拍数は、予め決めてあるのだろうか、アドリブや、その時の雰囲気で変えることはあるのだろうか

     ・全体が暗譜で、身体で覚えている感じだが、楽譜はあるのだろうか、どん楽譜なのだろうか

 これらについて、演奏終了後、リーダー格の人に聞いたところでは、大枠だけ決めて置いて、後は、その時々の雰囲気で、流して行くという。実際に、通りを曳行する時は、状況に合わせてやることが大事ということだろう。聞いていると、時々、大太鼓が強くなったり、呼子が入るなどがあり、これらが、曲が変化する切っ掛けとなっているようだ。

 その人の話では、若い人たちも動員しながら、伝統文化を維持・継承していく、地域としての御苦労も多いようで、それらに対する敬意を込めて、御礼を述べさせてもらった次第である。

今月初めの本番の夜祭りでは、皆さんそれぞれのパートで、大いに活躍されたことだろう。

 

 

○ 長瀞(ながとろ)

 

 秩父地方は、最終的には東京湾に流れ注ぐ、荒川の上流になる。この荒川は、自分が住んでいる足立区も流れていて、良く通る国道4号線には、千住新橋が架かっている。橋の真ん中あたりで、東京スカイツリーが良く見える。

例年夏には、この橋の袂の河川敷で、花火大会が催されるなど、馴染の深い河川だ。

 

 秩父地域での荒川と言えば、何と言っても、長瀞の川下りだろうか。大分以前に、桜の頃だったと思われるが、地域の町内会メンバーで、ここに来たことがある。

 この川下り、別名、荒川ライン下り、長瀞ライン下り、ともPRされている。本場ドイツのライン下りは未経験だが、日本では、「ローレライ」の歌で知られる、有名なローレライ岩があるという。

           

 今回は、当日は、流れが穏やかで、難所と言われる所でも、少し水しぶきを浴びた程度だったが、時折、女性連の、黄色い声も聞かれた。ところどころに、急な流れの瀬があったり、静かな瀞などがある川を、手漕ぎの舟で下るダイナミックな動きには、何故か、心騒ぐものがある。

面白い景観は比較的少なかったが、よく見ると、猫のような獣に見える岩や、秩父赤壁という切り立った崖 などもあった。 両岸の紅葉は、やや時期が早いようで、今いちだったが、土地の人達によれば、月半ばが見頃とのことであった。

晩秋からは、川の水量が少なくなり、浅瀬が多くなるので、冬期の1~3月は、舟下りは休止になるとか。

 これまで経験した川下りでは、他には、鬼怒川の川下りや、最上川の舟下りなどが印象に残っている。

 

 下船した後、暫し、船着き場近くの、岩畳の上を散策した。岩畳(いわだたみ)とは面白いネーミングだ。

この長瀞周辺は、専門的には、堆積してできた「結晶片岩」という変成岩が、河岸段丘を形成しているようで、層状になった、見事な、岩また岩である。荒川の急流による浸蝕作用と相俟って、景勝の地になっている様だ。 

 秩父音頭にも

    ♪花の長瀞 あの岩畳  誰を待つやら アレサおぼろ月♪

と歌われている。岩場に登って、持ってきた、揚げ饅頭を、仲間と頬張った。

 

 

○ 秩父地方 

 

 今回の旅行では、群馬から秩父に掛けてドライブしたが、これまで、殆ど通った事の無い奥山のルートである。

 秩父は、言うまでも無く埼玉県の一部で、物理的には、県都や首都圏からは、そんなに掛け離れた地域ではないが、周りを山に囲まれた盆地になっている。 埼玉県の他の地域が、都心のベットタウンとなっているのとは、やや異なる世界で、埼玉県の天気予報でも、秩父地方は、区別されていて、特異な風土と文化があると言える。

 

 改めて秩父地方の地形を眺めると、秩父山地に端を発する荒川が、盆地内の山間を縫って、北を迂回しながら、関東平野に出て、流れ下っている。 

 現在は、この荒川の流れに沿って、国道140号線が走っている。国道140号線は、埼玉県の熊谷市から山梨県の甲府盆地の富士川町まで続く国道で、秩父地方にとっては、最も重要な道路だろう。今回は、三峰神社への往復などで、国道140号線を、よく通ったが、よくぞ建設したと言いたい程の、曲折の多い、谷合いの山道だ。殆どの区間が、巾が狭く、中央のセンターラインは無い。

対向車はそんなには多くなかったものの、偶に出会う車には要注意で、世話になったドライバー氏は、曲がり角毎に、相当、神経を使っている。

 

 この国道、埼玉では、別称、彩甲斐街道と言われるが、「最下位」でなく、「再会」の意味を込めている、ネーミングの様だ。

  彩甲斐街道の表示

 今回、初めて知ったのだが、国道140号線は、彩の国(埼玉)と甲斐の国の間で、国道には指定されたものの、45年もの長い間、実際には車が通れない、名ばかりの国道だったようだ。1998年になって、雁坂峠の下に、雁坂トンネルが開通して、漸く、国道の体を成したようだ。 再会とは、そんな期待と嬉しさを込めたものだろうか。

山梨側では、この峠道は、雁坂みち と呼ばれたようで、いずれにしても、大変な難路だったのではないだろうか。

 

 このルート140号と秩父市で交差している国道299号線も、秩父地方にとっては重要な道路と思われ、埼玉県入間市から、飯能市を経由して伸びてきており、長野県茅野市まで、山道が続いている。 今回一泊した上野村もその沿線に在り、群馬―長野県境には、前稿で触れた、十石峠がある。

 東武鉄道が、この299号線のほぼ真下にある、長~い正丸トンネルを介して、飯能から秩父まで伸びている。 ある地図を見ていて、アレ、鉄道の線路が書いていない! と思ったら、トンネルばかりで、地図上には、線路は殆ど書かれていなかった!

 

 

 「ちちぶ」という地名の由来については、以下の様に、

   ・知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の支配する国からという説、

   ・秩父山中の鍾乳石の形である乳(チチ)に由来する説

などなど、があるようだ。

 一方、秩父 と書いて、チチブ と読むのは、やや難解だ。中学生には読めるだろうか。秩は、通常は、チツ と読み、熟語では 秩序(チツジョ)がある。

  秩父は、普通は、チツフ と読むだろう。これが、言いにくいので、チチフとなったり、濁って、チツブ ともなり、それらが、言いやすいように、音便で変化して、チチブ になったのだろうか。

 

 盆地内に在る武甲山は、秩父地方の主産業の一つである、セメントや漆喰の原料となる、良質の石灰石が産出することで有名で、現在も採掘されている。でも、この採掘で、山容が次第に変化しているのが気になるところだ。山麓には、芝桜が見事な羊山公園があり、一度は訪れたいと思っている。

 

 秩父の奥地にある、甲武信岳(こぶしだけ)(2475m)は、甲斐、武蔵、信濃三国の境にあり、以下の河川

    笛吹川(富士川となって駿河湾へ)、

    荒川(東京湾へ)

    千曲川(信濃川となって日本海へ)

の源流があり、分水嶺となる地理的には重要な山の様だ。山腹のどこの斜面に降る雨かで、その水滴の流れていく先が、片や、太平洋へ、片や、日本海へと大きく変わるところが、面白い。

 

 

 最後の日は、建設が進められている圏央道を利用して、狭山日高ICから、関越道に出て帰って来たのだが、圏央道は、反対方向は八王子まで開通しているようで、横浜方面にいく仲間の車は、そちらに向かった。

 時代と共に交通網は整備されてきて、ますます便利になり、立派に舗装された道路や、長いトンネルを、車や電車で、あっという間に通過できる現代は、恵まれているともいえよう。でも、交通の便が良くなると、瞬く間に地域の状況が変わったり、途中の地域は、通過点になってしまったりする面もある。

 逆説的に言えば、山に囲まれて交通が不便なことが、地域の産業や文化が発展する要因の一つの様にも思えるのだ。

 秩父音頭に

     ♪鳥も渡るか あの山越えて  雲のさわ立つ アレサ奥秩父♪

と謳われているように、鳥になれない人間にとって、山越えは大変なだけに、却って、生活や文化を大切に守って来た、のかも知れない。

 

 中々行けない、奥山を訪ねる今回のドライブ旅行で、それぞれの地域に対する愛着も、一層深まったようだ。

この旅行の企画と実行で、大いに世話になった仲間達に、改めて感謝したい。

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奥山を訪ねてー御巣鷹の尾根

2012年12月21日 18時04分12秒 | 日記

2012年12月21日(金) 奥山を訪ねてーー御巣鷹の尾根 

 

  今回の、奥山を巡るドライブ旅行については、

        奥山を訪ねてー食の話題 (2012/12/14)

        奥山を訪ねてー三峰神社へ(2012/12/18)

 

と、記事を載せて来たが、今回は、日航機の墜落事故があった、群馬・埼玉・長野の県境近くに位置する、御巣鷹の尾根への慰霊登山について触れたい。

 

 今から27年前の、1985年(昭和60年)8月12日(月)夕刻に起こった、日航ジャンボ機の墜落事故は、現時点でも、世界の航空機史上、最悪の事故と言われ、524名の乗員乗客のうち、520名もの人命が失われ、生存者はたったの4名と言う、凄まじい事故である。

東京羽田空港を発った、大阪伊丹空港行きの、JAL123便が、途中で故障し、引き返したものの制御不能に陥り、かなりの時間、ダッチロールの迷走の末に、群馬県の御巣鷹の尾根に墜落した。

 事故原因は、事故の数年前に、米ボーイング社で修理した圧力隔壁の不備から、機体の後部での破損が広がり、途中で垂直尾翼が海上に落下するなどして、操縦が不可能になった、などと推定されているようだが、真相ははっきりしていないようだ。

日本航空123便墜落事故 - Wikipedia

 例年、事故のあった命日の頃になると、遺族や関係者による、慰霊の登山が行われていて、ニュースでも報道されている。

 

 

  今回の旅行の最初の日に、その、御巣鷹の尾根に登ることとなった。

  登山を思い立ったのは、実は、同行者の中に、事故当時、JALの現役パイロットだった者がおり、彼の要望もあり、登ることとなったものである。

彼は、国際路線や、国内各地に飛んでいたのだが、場合によっては、スケジュールの関係で、あの日航機の操縦をしていた可能性もあったという。

JAL関係者による慰霊の登山は、何度も行われているが、彼は、たまたま、それに参加する機会が無く、今回になったようだ。

 

 この事故は、自分に関しても、必ずしも、無縁とは言えない。なぜなら、当時、職場が、関西に転勤となり、単身赴任していたのだが、たまたま、伊丹空港へは、歩いて10分位の近くにある単身者寮に世話になっていた。

そんなことから、仕事上や、家族が住んでいる、東京との往来で、飛行機を利用する事もあり、あの便に乗っている可能性もあったのである。

 

 

 登山道の入り口近くの駐車場に車を預けて、登山がはじまった。表示によれば、入口から目的地までの高低差は、180m位のようで、歩く距離は、800m程になると言う。当初の登山道は、2.2kmもあったものが、遺族の皆さんの高齢化もあり、林道を使うなどして、現在のように短縮されたようだ。 

       

      登山道案内図                      行程(拡大) 

 登山は、5人でスタート。 山道の傾斜は、それ程きつくはないのだが、でも、途中で、2人が、ギブアップしてしまい、最後は、3人だけで登ることとなった。自分は、腰痛のため、普段も思うようには歩けないのだが、我が心を鼓舞しながら、マイペースで、ゆっくりと登った。

途中、クマ除けだろうか、鐘と金槌が置いてあるので、力を入れて鐘を打ち鳴らしたら、カーン、カーンという澄んだ音色が、谷合いに響いた。

 

 漸くにして、目的地の尾根が近くなってきたが、この辺りが墜落現場だろうか、数字とアルファベットが書かれた、白い立て札が、あたりに現れた。遺体を収容した場所を示していると思われる。

山中なので方角ははっきりしないが、下方の沢の近くから、頂上にかけて、無数の立て札である。 山腹のこの斜面に、機体が突っ込んで墜落炎上し、機体と遺体が飛散したのだろうか。 

 遺体収容場所 

  少し急な斜面を登りきったところが、やや平らな尾根になっている。正確には、高天原山(たかまがはらやま)の尾根のようだが、一般には、「御巣鷹の尾根」と呼ばれており、そこに、「招魂の碑」が建っている。

元パイロットである仲間は、ちゃんと、線香の束も用意して来ていて、3人で交代しながら、碑の前で、焼香し、手を合わせて、亡くなった人たちの慰霊を行った。

   昇魂之碑

 招魂之碑の近くに、メッセージカードが沢山飾られていたが、自分たちが登ったその日に書かれたものがあった。先刻、登って来る途中で、反対の山道を、1人降りて来る人に会ったが、あの人が書いたものだろうか。 

誠に非礼を承知で、引用させて頂くと、カードには、

   “もう二度と事故がないように祈ります。安らかにお眠りください。”

とあったが、何らかの事情のあるこの人は、この日、登って参拝されたのであろう。  

 

 翌日は、同じ上野村内にある、「慰霊の園」も訪れた。 現代的な、モダンな慰霊碑が建っている。 祈りを象徴する、二つの鋭角のモニュメントが、限りなく天空に向かっていて、彼方の、御巣鷹の尾根に続いているのであろう。 

事故発生から現在まで、上野村では 当時の黒沢村長はじめとして、村を挙げて、支援を行って来ているようだ。 村にとっては、全く想定外の降って湧いた出来事なのだが、これまでも、これからも、その御苦労は、並大抵のものではないだろう。 

  慰霊の園のモニュメント

 

締めくくりとして、以下に、2、3の所感を述べることとしたい。 

○この事故は、肉親を失うなどした、事故の当事者にしてみれば、決して忘れる事が出来ないものだろうが、自分も含めた、一般人からすれば、次第に記憶も薄れていくのは、止むを得ないことだ。どんな大事故、大事件でも、時間的に、風化していくことは、避けられないようだ。

 JAL機の大事故は、勿論、まだまだ記憶にはあるのだが、今回、友人たちと、事故現場に行かなかったなら、改めて、思い出す事も無かったかも知れない。

今回の登山で、事故の恐ろしさを再認識させられたが、足腰が思うに任せない我が身が登ったことで、高齢の遺族の皆さんの登山の大変さに、思いを馳せた次第である。

 自分としては、単なる興味本位ではないものの、事故現場に登り、慰霊碑に参拝しただけなのだが、貴重な体験であったのは間違いない。 何かしら、大事なことを済ませたような感慨を味わったのは、何故だろうか。

 

○事故後しばらくは、航空機事故の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたことで、国内外で、航空機利用の乗客数が激減した。でも時間が経つにつれて、次第に忘れられて、乗客数も回復している。

 今や、日本でも、格安航空LCC路線の登場で、運賃も大幅に安くなっているのだが、果たして安全性は大丈夫なのだろうか。

LCCでは、就航させる航空機数を極力減らし、回転率を上げる事が必要なことから、運行スケジュールに余裕が無く、一寸したトラブルや遅れがあると、次々と、後続の便に影響し、定時発着が難しくなるようだ。

 先日も、TV番組で報道されていたが、時間通りに発着しているか否かの、定時運行率でみると、通常の便に比べて、格安航空の場合は、かなり低いようだ。

このような運行上のやり繰りや無理が、整備不良になり、いずれ、大きな事故に繋がってしまうようなことが、絶対にないように、と願うばかりである。

 

○通常、大きな事故や災害が起きると、天災か人災か、が話題となる。直近の東日本大震災では、地震や津波による被害や、原発事故の被害は、どこまでが天災で、どこからが人災かは、議論のある所だが、ここでは触れることは控えたい。

 では、この、JAL機事故はどうか。

 気象条件の急変等の、天災的な要因は見当たらないが、然らば、機体の整備修理や操縦法等で、どのような、人災的な問題があったのだろうか。そもそも、予め、事故を防ぐ手立てはあったのだろうか。

事故後の原因究明や調査分析により、航空機の整備や、機体の設計上で、どのような問題が見つかり、次に向けての、どのような新たな知見が得られたのだろうか。

 事故原因については、責任問題や補償が絡むこともあり、簡単には言えないことから、事故調査報告書も、歯切れが悪いのだが、人事を尽くした上での、不可抗力的な要因で事故が起こった、ということではあるまい。

 

○一方、事故後の対応については、どんな反省と教訓が得られたのだろうか。

 事故機の墜落位置を、もっと短時間に把握して、機体を発見出来なかったのだろうか。人命救出活動は時間との勝負になる。

深い山中での救出活動には、幾多の困難が伴うが、それを解決する手段の一つである通信はどうだったであろうか。 

以前、これに関わっていた一人として、気になる所であるが、事故当時は、無線を使った電話システムは、まだ開発途上にあり、通信手段は、十分ではなかったのだ。

 現在は、衛星を使った特設公衆電話や、衛星電話等もあり、昨年の大震災では、多いに活用された所だ。

 

 

 ナショナルフラッグキャリアとしての日本航空が、数年前に経営不振に陥った事態は、この大惨事とは無縁ではないと思われるが、再建策が効を奏して、なんとか立ち直れたのは、嬉しい限りである。

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奥山を訪ねてー三峰神社へ

2012年12月18日 14時08分52秒 | 日記

2012年12月18日(火) 奥山を訪ねてー三峰神社へ

 

 

 今回のドライブ旅行については、先日、

       奥山を訪ねてー食の話題 (2012/12/14)

 

の記事を載せたが、今回は、三峰神社に関するトピックスである。

 

 10数年前に、園芸好きの仲間と、秩父の奥山に鎮座する、三峰神社を訪れたことがあるが、その時は電車を使い、今は無いロープウエイにも乗った。今回はドライブ旅行だったが、駐車場との関係から、緩やかながら、やや長い参道を歩いて往復した。参道入口にある紅葉が、一段と鮮やかであった。

    参道入り口の紅葉

 

○鬱蒼と茂る杉並木の間の参道には、石灯籠などが立ち並んでいて、他と、あまり違わない風景だが、通常は、神社への寄進者の金額と名前は、

     金 ○万円  坂東 太郎

などと、石碑や木板等に書かれるのだが、ここでは、少し違っていて、

     奉納 杉苗木 2万本  ○○○講

などと、立派な石碑に書かれているのがユニークで面白い。

  橧苗木の奉納の記念碑

 

 実際には、金銭を寄進し、神社ではそれで、苗木を買ったり、他に必要なものを調達するのだろうが、「苗木」という表現が、奥山に相応しいようだ。 間伐なども行い、大木の間に、若い苗木を植林することも、行われているのだろうか。

似たような、出羽の羽黒山神社や、高尾山薬王院などでは、どのようにしているのか、知りたいものだ。

 

○日本武尊が、東征の折に創建したと伝えられる三峰神社の拝殿では、型どおりの参拝をした。ここの、鮮やかに彩られた彫刻なども見事で、身を清める、手水舎の立派さには驚かされた。

社寺仏閣に関心のある向きには、この神社には、興味深い建造物が多いのだろう。

     

         拝殿(ネット画像)               ずらり並ぶ 摂・末社(ネット画像)

  境内に、全国各地の、著名な神社の、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)と言う、中小の祠がある。伊勢神宮や、八坂神社、諏訪神社など、全部で、23社もあるようだ。

以前に来た時も気になったのだが、このような出先機関の設置は、神社同士の友好の印であるとともに、信者にとっては、わざわざ遠路出かけなくとも、ここで御参りすれば、行ったと同じ御利益がある、というシステムなのだろうか。

 

○帰路、途中にある建物の入り口に、厄年の一覧表が出ている。 神社にとっては、厄払いの行事は、重要なビジネスで、どこでも見掛けるこの一覧表だが、ふと、疑問が湧いた。 

   厄年 一覧表

 厄年は数え年で数えるので、この表では、61歳まで出ているのだが、なんでこの歳までしか無いのだろうか? 既に、古希を過ぎている自分の年齢なのだが、どこにも出てこないのはどうしてだろうか、という、素朴な疑問である。

 

 厄年の年齢は、陰数(偶数)と陽数(奇数)の組み合わせから来ている、などとも言われ、科学的な根拠はなさそうだが、特に、大厄として、男性は42歳(しに 死)、女性は33歳(さんざん 散々)等と言われる。

経験的に、人生の大きな節目に、厄年を対応させたと言えようか。人生誰しも、誕生からだんだん成長し、大人になり、仕事に就き、結婚し、子宝にも恵まれるなど、生理的には勿論、社会的にも大きな変化や節目がある訳だ。60歳頃になれば、かなり、安定するといえるだろうか。

 

 60年で還暦となり、それ以降は、また、甲子(きのえね)から、年廻りが繰り返されるのだが、厄年について、再度、数え直す、とは聞いたことがない。

往時は、60歳まで生きられれば、長寿も良い所だったので、それ以降は、おまけ、と見做し、厄年は考えず、専ら、古希、喜寿などの、長寿祝いを編みだした、のかも知れない。

 

 この現代の長寿時代、還暦以降も、仕事を変わったり、子供が結婚し孫に恵まれたり、年金を受給したりする一方、元気ながらも、身の不具合が、あちこちと目立ってくる。そして、大病を患ったり、連れ合いに先立たれたりするなどして、最後には、我が身が、この世におさらばとなる。人生の節目は、こちらの方が、むしろ、多いだろうか。

 

 還暦までの、前厄・本厄・後厄の、それぞれの厄年は、言ってみれば、人生の大事な役目を果たすために備える、「前向きの」用心と言えるだろうか。

そして還暦後は、我が身に来る災いに対する、「本当の」用心であろうか。つまり、いつ災難が起きても可笑しくない状況と言え、大げさだが、毎年が厄年である、と思って過ごす事になるだろうか。

 でも、余り深刻になる必要はなく、おまけの人生を貰っている、と思いながら、その時その時を大切に生きる、と言う位で良いのかもしれない。

 

 

○三峰という呼称の由来は、往時、景光天皇が、上総の国(千葉)から、以下の、3つの山が良く遠望できるという話から、これらを、総称して、三峰と名付けた、と言われる。

    雲取山  2017m

    白岩山  1921m(白石岳 2036mとも)

    霧藻ケ峰 1523m(妙法ケ岳 1329mとも)

   ビジターセンター内のパネル

 一般には、神社のある山も、三峰山と言われているようだ。駐車場の係をしていた土地の人は、今は廃止された、寺の山号として、三峰山が使われていた、とも教えてくれた。(全国には、三峰山と称する山は、数多くある)

 

 

 現代では、山間を縫うようにして、道路もそれなりに整備され、観光バスや車の往来も盛んだ。往時の昔は、このような、奥秩父の深い山奥に社寺を建造し、維持するのは勿論だが、参拝するのも、かなり難儀なことであっただろう、と想像される。しかし、それだからこそ、一層、信仰心も深くなる、というものだろうか。

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奥山を訪ねて ー 食の話題

2012年12月14日 22時50分31秒 | 日記

2012年12月14日(金) 奥山を訪ねてー食の話題

 

 

 先月初めの事だが、高校時代の仲間と、車2台で、群馬・埼玉の奥山をめぐる、気楽なドライブ旅行に出かけた。 随所で、赤や黄色の紅葉を愛でながら、群馬の御巣鷹山に登ったり、秩父の三峰神社に参拝したり、長瀞の舟下りを楽しんだ。

大分記憶も薄れたのだが、未だに印象に残る幾つかの事柄を、順不同で取り上げて見たい。 先ずは、食の話題からである。

 

その1 ヤマクラゲ 

 秩父長瀞の舟下りが終わって舟を降りた所から、左右に土産物屋が立ち並ぶ通りがあり、そこで、偶然に、ヤマクラゲを見つけ、3束仕入れた。

      干物 ヤマクラゲ 

 以前、飛騨高山の朝市の露店や、伊豆十国峠の土産物屋で、手に入れたこともあり、時たま、近くのスーパーで売っている事もある。

その名の通り、クラゲの様な歯ごたえのある、干物の食材である。

 

 この干物、ぬるま湯に入れて戻すのだが、独特の匂いがして、初めはかなり気になるが、この匂いが命でもある。 余り戻し過ぎると匂いが失くなって、味気なくなるので、加減が大事で、水を取り替えながら、精々、3時間程だろうか。

太くなって、しんなりと戻ったところで、水から出して絞り、適当な長さに切る。

 

 このような山の食材と、海の食材とを組み合わせて、いつも、炒め煮にしているのだが、山の幸・海の幸を一緒にするので、自己流に、「山海煮」と呼んでいる。

先日、最初に1束目を食べた時は、乾燥ヒジキと一緒にして、山海煮を作ってみた。今回は、干しエビとセットにしてみたが、たまたま、手許にあった、レンコンも、薄く切って加えることとした。

 

 軽く油をしいた鍋で炒めた後、少し水を加え、蓋をして、やや、柔らかくなるまで煮るが、クラゲの様な歯触りが、失くならない煮加減が重要。 

最後に、干しエビと辛味の輪切り唐辛子を加え、砂糖、みりん、だし汁、酒、醤油で味を調えれば、山海煮の完成である。 食卓の、箸休めの一つとして、暫くの間、重宝する。

  ヤマクラゲとエビとレンコンの山海煮

 

 このヤマクラゲ、国内の山畑で採れると思っていたが、店の人の話では、皆、中国産といい、確かにその様に表記されている。

ネットで調べたら、ステムレタス(レタス?)という植物で、中国の伝統野菜の一種のようで、太い株の根元から幾つにも割いて、乾燥させるようだ。 国内でも、自作している人もいる。

  畑のステムレタス(ネット画像より)

 

 店の人に、冷凍庫に入れておけば、かなり持つと教えられたが、まだ残っているもう一束で、また違った山海煮を作ってみたいと思っている。

山海煮の、山側の代表は、ヤマクラゲだが、他には、切干し大根(割干し大根)もよく登場し、この所珍しくなったが、ユリの花や、田舎のヒョウ(スベリヒユ)などの干物もある。

海側としては、乾燥ヒジキ、干しエビ の他には、刻んだ根昆布、食べる小魚 なども面白い。

 

 

その2 そばの話

 今回の2泊3日の旅行で、昼食を、3回楽しんだ訳だが、結果的に、3回とも、日本そばになった。1日目と3日目は、しっかりした日本そばで、中々美味しかったが、2日目の蕎麦屋が問題だった。

店の入り口の立看板に、写真の様に

  ひきたて、打ちたて、ゆでたて 

  三拍子そろったそば の看板 

と出ていて、期待も膨らんだ。

所が、注文して、暫くして出て来たそば、大分前に、ゆでた もののようで、そばに全く腰が無くて、美味しくなく、皆は、悪評たらたらだった。 看板に偽りあり? である。

 

 通常、街中の蕎麦屋で食べる そば は、ひきたて は殆ど御目にかかれず、打ちたて さえも、中々食べられない。せめて、ゆでたて を頂くのが、ささやかな楽しみ といった所だろう。 なのにこの店は、込み合う時間帯のため、効率を重視して、ゆでおきしたのだろうが、やや、伸びたものを出してきたようで、頂けなかった。

 

似たようなキャッチフレーズに、コーヒーでは、

    炒りたて 挽きたて 淹れたて

が、美味しいコーヒーの三要件と言われる。

自宅では、毎朝、サイフォンコーヒーで、挽きたて、淹れたて を楽しんでいるが、炒りたて までは手が届かない。

 

 

その3 大豆たんぱく食品 

 もう一つの食の話題は、大豆たんぱくを使った食材だ。道中のある土産物屋で、

     肉らしい豆な嫁 

という名の土産物を発見。ネーミングが面白くて買ったのだが、嫁に対して、“憎らしい”と思う姑の気持ちを懸けているようだ。大豆たんぱく食品で、大豆の粉を固めたものと思われるが、水で戻してから、唐揚げにすると美味しい、とある。 

 

 先日、スーパーで、唐揚げ粉と、鶏の腿肉を買って来た。そして、昨夜、この大豆たんぱくの唐揚げと、本物の鶏肉の唐揚げとを、作ってみた。

大豆の方は、書いてある通り、ぬるま湯で30分ほど戻し、かなり膨らんだ所で、水を切って、唐揚げ粉をつけて、時間を短めに揚げた。鶏肉の方も唐揚げ粉を付けて、こちらは、じっくり5分ほど揚げた。

 出来上がりの、2種類の唐揚げを食べて見た。 本物の鶏肉の方は、やはり肉で、ジューシーな美味しさがあるが、大豆の方は、肉には叶わないものの、十分な歯ごたえもあり、ほのかな、大豆の香りがして、結構いけそうである。 子供の弁当のおかずや、肉を控えたい向きの、ヘルシー食品としても使えそうだ。

 

唐揚げの競演 どっちが どっち? (左 大豆たんぱく 右 鶏肉)

 

 つい最近、近くの安売り屋の店先に、この品物と全く同じものが出ているのを発見し、やや驚いたが、どこか、嬉しくもなった。 でも、これを見て、自分の様に

         “変わったユニークな名前の商品だネ”

などと、買う気になる人が、どれ程いるものやらーーー。

 

 

その4 十石みそ

 最後は、味噌の話題だ。 群馬県上野村の村営国民宿舎に一泊したが、このあたりは、十石みそ が有名だとかで、そこでの夕食での話である。

 夕食のデザートに、みそ大福 が出て来た。 みそ入りの菓子は、どこにでもあり、珍しくは無いのだが、この大福、一口食べてみて驚いた。大福の中に、白いものが入っているではないか。聞いたらクリームという。このクリームと、みそあんとが相俟って、和洋折衷の、絶妙な味がする。土地の皆さんが、色々工夫して作り上げた、自慢の菓子という。

    みそ大福 

 翌朝、帰り際に、宿の売店で、みそ大福を土産物にしたいと聞いたら、日持ちがしないので、保冷剤が必要と言われた。 残念ながら、もう1泊する行程なので、土産に持ち帰るのは諦めた。

代わりに、十石みそ を買って来たが、こちらは、中々、おいしい麦味噌であり、先日、食べ終わったところだ。 

 みそのブランド名は、このあたり、米が採れない土地柄で、以前は隣県から、馬で、1日10石の米を運んだことから、街道筋に十石峠の名があり、みその名もそれに因んだという。 先人達は、米麹でなく、麦麹を使ったみそを、工夫して作り上げたと言う。 

    十石みそ(麦みそ)

 

 

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地球温暖化防止会議  COP18

2012年12月13日 12時30分47秒 | 日記

2012年12月13日(木)  地球温暖化防止会議 COP18

 

 

  国連の、地球温暖化防止条約に関する、18回目の締約国会議(COP18)が、中東カタール国の首都ドーハで開催され、先日の8日で、一連の会議の幕を閉じたようだ。

この関連のニュースは、国内的には選挙等が重なって、殆ど報道もされなかったのだが、昨年12月に、南アのダーバンで開催された、前回のCOP17から、殆ど、見るべき進展はなかったようだ。

 

  会議風景(COP18 合意文書採択し閉幕 NHKニュース )

 

地球温暖化については、当ブログでも、

     環境保護活動とCOP16  (2011/1/11)

     気候変動会議 COP17  (2011/12/5)

     地球温暖化は止められるか  (2011/12/16)

として、やや、期待を込めて取り上げている。

 

 今回は、土壇場で期間を1日延長して、辛うじて「ドーハ合意」を採択したという。

この合意の主な内容は、以下のようである。

 

◎京都議定書を、2013年から2020年末までの8年間、第2約束期間として延長する。 削減義務を負わない国については、議定書に定められている、クリーン開発メカニズム(CDM)での転売等を禁止。

 

  [京都議定書]  

・1993年、京都で開催された、COP3で採択 

・批准されて発効したのは2005年。今年までが第1約束期間となっていて、この12月で期限切れとなる。

・先進国だけに温室効果ガスの削減を義務づけている。

  (早々に離脱した米、中など主要排出国は入っていない)  

・当初は、総排出量の25%程度だったものが、現在は、欧州だけのわずか15%が、規制対象と言う、馬鹿げた、異常な不公平状態にあ る。

・日本は、今後は議定書義から離脱し、自主規制で進める。

 

前回のCOP17の時の、上記のブログ記事に引用した、下の図は、極めて判りやすく、今回でも、基本的には変わっていないので、再度、使わせてもらう。     

   

◎全ての国が参加する新たな枠組みの、2020年からの開始に向けた、当面の作業計画

 前回のダーバン会議では、2012年に特別作業部会を発足させ、2015年のCOP21で採択するとなっていて、これは、2020年からスタートさせるぎりぎりのロードマップだろう。今回は、特別作業部会の発足については不明だが、以下を、再確認したようだ。

    ・2013年に締約国から新ルールの意見を募り本格交渉

    ・2014年に交渉文書の素案を作成する

    ・2015年5月までに交渉文書を纏める

    ・2015年末のCOP21で、この新たな枠組み合意案を採択する

   

◎途上国への資金支援

    ・来年のCOP19で、先進国が、これまでの支援額を上回るよう努力する。

     世界的な不景気の中での、資金支援の増額は極めて困難な状況。日本の資金支援は、先進国全体の40%とも言われる中で、 

      外交力が十分には発揮されなかったようだ。

     中国は、自国が、いずれ規制対象となるのを出来るだけ遅らせるべく、途上国の意見を代弁して活発に動いたようだ。

 

 地球環境の悪化による、各地での異常気象は待ったなしの状況なのに、地球上では、相変わらずの、自国中心で妥協が無く、論争ばかりの、決められない国連活動が繰り返されている。

 日本としては目下、大震災による原発事故で、殆どの原発が稼働停止状態のため、COを排出する、火力発電の比重が増している。一方、温室効果ガス削減の国際公約(25%)の縛りもあり、極めて苦しい状況にある。

 こんな中、我が国の、技術力、資金力を生かした強かな交渉で、国際的なイニシアチブを取って進めて欲しい、と願うばかりだ。

 次回のCOP19は、ポーランドで開催予定のようだ。

 

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