つれづれの記

日々の生活での印象

富士山を巡ってー田子の浦で一休み

2013年05月30日 23時17分35秒 | 日記

2013年5月30日(木) 富士山を巡ってー田子の浦で一休み 

 

 世界文化遺産への登録が、ほぼ確実となった富士山を巡って、当ブログでも、 

     富士山を巡ってーUTMF           (2013/5/10)

     富士山を巡ってー世界自然遺産として      (2013/5/15)

     富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その1 (2013/5/20)

     富士山を巡ってー忍野八海で寄り道       (2013/5/22)

     富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その2 (2013/5/29) 

を投稿してきた。

 ここで一休みして、歌等に詠まれた富士山と田子の浦について触れたい。

 

 

 富士山に関連する文学作品として、万葉集には、11首の短歌があると言われるが、大半は、相聞歌等のようで、山部赤人が、富士山の眺めに感動して詠んだという、

    田子の浦ゆ うちいでてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける

は別格だろうか。

 この歌の「ゆ」が、やや難解だが、これは、万葉当時は、経由を表す意で、田子の浦を通り過ぎて、の意味だと、学校で教わったものだ。

詠んだ人の、大らかで率直な感動が伝わってくる、文字通りの分りやすい歌であろう。

 

 万葉集では、この歌(短歌)の前に、やはり、山部赤人が作った、長歌と呼ぶものがあるようだ。こちらは、

    天地の(五)分れし時ゆ(七)神さびて(五)高く貴き(七)ーーー

で始まり、このような、リズムのある五七五七が4回も出て来て、最後に、五七七で終わる、かなり長いものだ。

 長歌の内容は、天地創造から始まって、最後に、この神聖な富士の山(布士、不尽)を後世に語り継いでいこう、という壮大なものである。

この長歌をうけた反歌として、前出の、有名な短歌が出てくるという訳だ。

 

 富士山に関連した、万葉以降の文学作品では、芭蕉の句などもあるようだが、これらについては省略したい。

  

 山部赤人のこの歌が、やや時代が下がって選ばれた小倉百人一首では

     田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ 

に変わっている。

特に、万葉当時の経由を表す「ゆ」が、所在を表す「に」になって 

      田子の浦ゆ ⇒田子の浦に 

としていて、意味も

     田子の浦を経由して⇒田子の浦に

に変わってしまうのだ。でもここでは、これらの改作の良し悪しに触れる積りは無い。

 

  ここでは、田子の浦の場所について、以下に、少しく触れたい。

  田子の浦の所在位置が、万葉の頃と、現在とでは異なっているようなのだ。いつ頃から地名が変わったのかは未調査だが、少なくとも、小倉百人一首よりは、後のことであろう。

 山部赤人の頃の田子の浦は、富士川の西海岸、現在の蒲原付近(仮に 地点A)であったという。

 この事から、歌の原意は、

 「(山林の)田子の浦をずっと歩いて、やっと見晴しの良い地点に出て見ると、遥かに雪が降り積もっている富士山が望まれた」

となるようだ。(column37

 その頃の田子の浦からは、富士は見えなかったようで、上にある見晴しの良い地点は、現在のどの辺りだったかは不明だが、仮に、地点Xとしよう。

 

 百人一首の場合の、歌の意は、

 「田子の浦に出て見たら、----------------」

と、分りやすい歌になるのだが、当時は、そこからは富士は見えなかったのでは、となる。

 

 そして、現在の田子の浦は、富士川のかなり東側の、富士市にある海岸(仮に 地点B)で、富士山が良く見えるようだ。

このように、場所として、地点A、X、Bの3か所が登場するが、地点Aの旧田子の浦の蒲原辺りからは、富士は見えなかったようで、東海道五十三次の蒲原宿の絵は雪景色である。 

 又、前述の通り、美しい富士が見えた地点Xの位置は、不明であるが、この地点Xは、地点Bと同一である可能性もかなり大きいだろうか。むしろ、同一であると、話は、単純になるのだがーーー。 

 

 富嶽三十六景には、「東海道江尻田子の浦略図」と長ったらしい名で出ているが、江尻田子の浦の場所は、東海道五十三次の吉原宿(現 富士市)の辺りで、この絵は、沖合から富士を描いた、ユニークな構図と言われている。(東海道江尻田子の浦略図|葛飾北斎) 

 

これらの浮世絵が描かれたのは江戸時代だから、田子の浦の場所は、万葉の頃の地点Aではなく、現在と同じ地点Bになるだろうか。

 

 そして、現田子の浦(地点B)からの眺望はどうだろうか。ネット情報だが、現在の富士市の田子の浦港の中に

     「富士と港の見える公園」

があり、その公園の展望台からは富士山が見え、その前景に、近代的な港と富士市の市街があり、雄大な富士とのコントラストには、力強さが感じられるようだ。(田子の浦から見た富士山) 

 

 そして、上記の公園よりもっと海岸線に近い砂浜に、護岸堤防を活用した

     「ふじのくに田子の浦みなと公園」

の建設が進められていて、既に、一部が供用されているという。 そこからは、下図のように、松林を前景として、富士を展望できるとともに、遊び場などもあって、家族で楽しめる公園になるようだ。(ふじのくに田子の浦みなと公園①: やまぶどうの徒然日記

 

 

 又、山部赤人の歌碑は、富士市市内の数か所にあるという。万葉仮名で書かれた本格的な歌碑は、以前、港の奥に在ったものを、この新しい海辺の公園に、最近、移設したようだ。下図の、背の高い右4本の石碑が長歌、左1本が短歌で、ともに万葉仮名である。

そして、いちばん左にある、背の低い碑面が黒い碑に、現代仮名で、正面に長歌、側面に短歌が書かれているようだ。(画像はネットより)

ここでは、この公園の名誉のために、万葉の歌人が詠んだ地点Xは、この地点Bと同一である、としておきたい。

 

                短歌・長歌      短歌             長歌

                (現代仮名)   (万葉仮名)         (万葉仮名)

 

 A、X、B、どの地点にしても、この辺りは、これまで何度も、電車や車で通った筈なのだが、どんな富士の景観だったかは、確かな印象はない。

 今後、機会を作って、歌枕の田子の浦や周辺を訪れてみよう。万葉の歌人を偲び、富士の景観を楽しみながら、現代に生きる富士市の姿も見たいものである。

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富士山を巡ってー世界文化遺産へ登録へ  その2

2013年05月29日 10時35分21秒 | 日記

2013年5月29日(水) 富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その2 

 

 世界文化遺産への登録が、ほぼ確実となった富士山を巡って、当ブログでも、

 

      富士山を巡ってーUTMF                     (2013/5/10)

      富士山を巡ってー世界自然遺産として          (2013/5/15)

      富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その1 (2013/5/20)

      富士山を巡ってー忍野八海で寄り道           (2013/5/22)

 

を投稿してきた。

 富士山が、今回の世界文化遺産として登録される柱は、「信仰の対象」と、「芸術の源泉」とされており、信仰の対象としての富士山については、前前稿で

 

1 山岳信仰と富士講

2 自然の造形への思い

 

と、触れて来たところだ。本稿は、これに続くもので、芸術の源泉としての、景観に関する話題を中心に、取り上げて見たい。

  

3 景観美の芸術 

 

◎眺める対象としての富士の景観は、以前の稿で述べたが、世界的に見ても、決して見劣りのしない見事なもので、姿形が美しい国内の最高峰だけに、360度、どの方向から見ても素晴らしいと言えるだろう。

 数多い景観の中から、歴史上、色んな芸術作品にも取り上げられた、三保の松原からの富士の眺望を、芸術の源泉の根拠として、構成資産の一つとして申請した訳だが、審査したイコモスから、この、三保の松原は除外するようにと指摘されたようだ。

 除外するよう勧告された理由は、報道では 

     ・富士山本体からの距離が、45kmと離れ過ぎている事 

     ・海岸線近くに見える波消しブロックが、景観美を損ねている事

等のようだ。 

  日本人としては、精神的な象徴とも言える、富士の美しさを否定され、プライドを傷つけられたような衝撃もあるだろうか。 当てが外れた地元の静岡県は、大変なショックで、猛反発しているようだ。

 

  富士の文化遺産的価値を表す構成資産の一つとして、三保の松原が入っていることについて、改めて考えてみることとしたい。

 

 そもそも、景観美自体を、文化的遺産とするのは、余り例がないようで、従って、景観を構成する素材である、山、空、海、砂浜、松林なども、難しいのではと思われるのだ。

 やはり、その景観を基にして、形として残された、絵画や、文学作品等が、遺産と言えるのだろうか。中間的な、景観の写真やビデオなども、無理だろうか。

 

 仮にあの景観に、富士山が無かったとすれば、三保の松原は、各地で見られる、白砂青松の海岸となるのだろう。富士山があってこそ、名勝地になっていて、三保の松原からの卓絶した景観には、霊峰富士は欠かせない、と言えるだろう。

 一方、富士の前景として、バランス良く海と松原が見える風景は、国内でもそう多くは無く、三保の松原が、富士の景観を更に素晴らしいものにしている、ということも確かで、相互の相乗効果と言えるであろうか。

 

 国内で、富士の景観が美しいポイントを、幾つか上げるとすれば何処で、これらの中で、富士の眺望が、日本で一番素晴らしい場所は何処だろうか?

 往時は、浮世絵や伝聞等からみると、三保の松原からの景観が日本一だ、と相場は決まっていたようで、歴史的な遺産として見る限りでは、これで良いであろう。今現在は、何処が最も優れているか、はここでは問題ではない。

 

 改めて、イコモスの指摘を考えてみたい。 イコモスが指摘した点は、言われてみれば、至極、当たり前の事にも思える。

○先ず、距離が45kmも離れていることは、どう考えればいいのだろうか。

 浅間神社や富士五湖等の他の構成資産は、富士山頂から、精々20km程度であるとともに、こちらは、広大な裾野で、直接、繋がっている訳だ。

 一方、街道沿いに植えられている松並木のように、延々と続いているなら理解できるのだが、三保の松原は、飛び地のように、かなり離れて、ポツンとあると言うことで、やはり、資産としては無理と言うものだろうか。

○又、防波堤近くにある波消しブロックは、美観を損ねているのは事実だが、これが無いと、松原の海岸線が駄目になるので取り外せない、という苦しい状況にあるようだ。

 

 仮に、イコモスが指摘したような2つの問題が無かったならば、三保の松原は、富士山に関連する文化遺産の構成資産になり得たのだろうか。上述したように、景観美そのものにかなり近いだけに、難しかったのではないかと思われる。

イコモスとしては、そうは言いづらかったので、敢えて、具体的で、常識的な2つの問題点を指摘したようにも思えるのだ。

 私見だが、推薦書では、三保の松原にある、羽衣の松の伝説にも触れているようだが、それと、富士山の景観の価値とは、特に関係は無いのではないかと思う。

 

 

◎ここで、富士山を描いた版画や絵画を見ると、芸術の源泉としての、富士山の存在には極めて大きなものがあることが分かる。

 有名な、江戸期の浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽三十六景」は、その一つで、その中に、超有名な、凱風快晴/赤富士や、神奈川沖浪裏等、周辺の各地から見える、特徴的な富士の姿が描かれている。

 でも、この中には、残念ながら、何故か、三保の松原からの風景は無いようだ。北斎の版画は、欧州の絵画にも影響を与えたとも言われている。(浮世絵のアダチ版画 楽天市場店<北斎「富嶽三十六景」作品一覧>

遺産として見た場合、これらの原画の所在が重要だが、東京国立博物館や、県の博物館などに所蔵されているようだ。

     

 凱風快晴/赤富士    神奈川沖浪裏

 

 又、同じく江戸期の浮世絵師、歌川広重の「富士三十六景」にも、各地からの富士の姿が描かれていて、こちらには、三保の松原が出て来る。この絵には、空と、富士と、海と、松原等、が描かれている。(富士三十六景

この原画は、国立国会図書館などが所蔵しているようだ。

  富士三十六景 三保の松原 

 又、浮世絵版画の全国版である、同じ歌川広重の「六十余州名所図絵」だが、ここには、駿河を代表するものとして、三保の松原からの富士山が描かれている。作者が同じだけに、絵の構成は、上とほぼ同じと言えよう。 富士山が描かれているのは、この駿州の絵だけのようだ。

 

 更に、浮世絵の決定版とも言える。歌川広重の「東海道五十三次」の中で、富士が描かれているのは、7枚あるようだ。宿場の関係で、三保の松原は入っていないが、近くの、似たアングルの由比の絵は、以下のようだ。(東海道五十三次 (浮世絵) - Wikipedia

    東海道五十三次 由比 

 

 構成資産に関する三保の松原の説明には、三保の松原を手前に配した構図が、その後の「富士山画」の典型となった、とある。

この広重の絵にあるような、三保の松原からの眺望が基になって、富士山と、松林と、海と空などからなる、富士山画のパターンが出来たのであろう。古来、富士とともに、松は、神聖で目出度いものでもある。

 富士山画で思い浮かぶのは、以前、良く利用した銭湯の、壁面に大きく描かれた絵だが、確かに、富士山と共に、空と海と松原が描かれていた。

 

近代・現代での富士山の絵画は数多いが、日本画の巨匠 横山大観は、好んで富士を描いている。(画像はネットより) 

     

  記念切手 富士飛鶴(横山大観)            霊峰富士 (横山大観)

又、片岡球子の富士山の絵も、現代的で素晴らしい。(「山 富士山」日本画家 片岡球子 | Web Magazine 笑って!WARATTE No Smile No Life

  山 富士山(片岡球子) 

 富士山を題材にした、このような優れた絵画が多数あることは、我が国の文化の誇りである。

 

◎構成資産の中で、景観などに関連するのは、三保の松原以外では、本栖湖などの富士五湖や、白糸の滝位なのはやや淋しいところだ。

 今後の方向としては、景観そのものに近く、距離も離れている三保の松原を、単独で復活させるのは容易ではないだろう。

 発想を変えて、北斎や広重の絵にある、東海道沿いや富士山周辺の三十六景全体を、景観の集合として、資産とするような手立ては無いものだろうか。ネットには、富士山の浮世絵に描写されているスポットを示した、面白い地図があったので、引用させて頂く。(画家の視点から見る富士山

  

 或いは、博物館等に所蔵されている、優れた絵画群も、今後、構成資産の中に含めていくことは考えられないだろうか。 

 今回は、一旦本体を登録した後に、あせらずに、じっくり追加していく方法を工夫したいものだ。 

一方、例えば、各浅間神社の中にあると思われる、宗教的な絵図などは資産になっていないのだろうか。 

 

 

◎上京後、一時期、首都圏を離れたことはあるものの、その後の人生の大半の期間、身近にあった富士山である。

自宅から富士山が見える場所に住んだり、通勤電車のガラス扉越しに、富士山の姿を追ったりした。こちらは、毎日のことで、見えて当たり前で、取り立てての感慨は無いのだがーー。

 出張や旅行や山登りなどの、旅の途中で見た富士山も多く、これらの中で、特に思い出されるのは、

    ・西伊豆の戸田・御浜:海上に見える富士の遠望

    ・山中湖:湖面に映る逆さ富士

    ・新幹線車中:三島あたりの車窓で、裾野を広げた富士の展望

    ・御殿場にある研修施設:窓ガラス一杯に映る富士の借景

     ・三つ峠:緑に映える残雪の富士山

などだ。さらに、富士山の眺めで、強く印象に残っているのは、

    ・飛行機から:雲の上に出ている山頂

である。仕事で初めて外国に行き、帰国のJALから、富士山の頂上部分だけが、雲海の上に出ているのを見た時の印象は忘れられない。漸く無事に日本に帰って来たのだと言う興奮と嬉しさであり、真っ先に富士山が出迎えて呉れている、ように感じられたものだ。

前出の横山大観の作品に、同じようなアングルからの、雲の上に聳える富士の絵があるのが面白い。

 

  昨年、関西から上京して来た客人は、この年まで、富士山を見たことが無いと言って、わざわざ、伊豆の伊東に一泊し、翌日、東海道新幹線で帰ったのだが、努力もむなしく、天気に恵まれず、期待した富士山は見られなかったという。

  風光明媚な土地への賛辞として、「ナポリを見てから死ね」という言葉がある。日本でも同じ様な主旨で、「日光を見ずして結構というな」という言葉があるが、ナポリや日光だけでなく、富士山もそれに当たるだろうか。 

  富士山の近くにいる幸せを、改めて噛みしめることとしたい。

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富士山を巡ってー忍野八海で寄り道

2013年05月22日 13時17分57秒 | 日記

2013年5月22日(水) 富士山を巡ってー忍野八海 で寄り道

 

 

  世界文化遺産への登録が、ほぼ確実となった富士山を巡って、当ブログでも、

      富士山を巡ってーUTMF                   (2013/5/10)

      富士山を巡ってー世界自然遺産として           (2013/5/15)

      富士山を巡ってー世界文化遺産への登録へ その1  (2013/5/20) 

を投稿してきた。ここで、忍野八海で、少しく、寄り道をしたい。

 前稿で触れたように、山梨県忍野村の忍野八海は、富士の伏流水の湧水池として、八つの池それぞれが、世界文化遺産の構成資産に含まれているのだが、いささか、気になることがある。

 

○先ず、気になる1件は、忍野八海の案内図の事である。地域内の随所に出ている案内図は、下図の様なものだ。(ネット画像より)

     

                      忍野八海 案内図  

 これは、大変わかりやすい案内図なのだが、道路地図などと比べると、変なのである。要は、道路地図は、通常、北が上になるのだが、この看板は、北が下(南が上)になっているのだ。

 以前、山中湖の方面から、道路地図を見ながら、ここを訪れた時も、頭が混乱したのだが、今回、ネットで調べた限りでは、現在も同じように、北が下の案内図になっているようだ。

 原図を180度回転して、北を上にすると、下図左のようになる。何故、このような図にしないのだろうか? ネットには、北が上の図も、何とか見つかったがーー。(下図右)

    

                   原図を180度回転                           北が上の案内図     

 忍野八海の案内図が、南が上になっている理由には、富士山の位置との関係があるように思える。あの辺りから富士を見ると、方角的には、南西方向になるのだが、富士が真上に来るような図にしているのではないか?

 

 地図は、北が上とは決まった事ではないようだが、習慣的にその様にしている。 地下街などでは、90度回転して、北が横になった地図は、時に見掛けるのだが、南が上の地図は、殆ど目にしたことは無い。地球の南半球の人達は、南が上の地図を望んでいるとも聞く。

 

 最近では常識になっているが、カーナビで表示される道路地図は、北が上ではなく、進行方向が上になるように表示する場合が多い。両者には、一長一短がある訳だが、運転者から見ると、進行方向が上の方が、やはり、分りやすい。

 

 似たようなことだが、電車の出入り口のドアの上にある、各駅の表示図は、最近は、車両の左右で、以下の様に変えている。

          進行方向左側ドアの上にある表示図:図の右が進行方向

          進行方向右側ドアの上にある表示図:図の左が進行方向

この表示は、見る人に優しく大変分りやすいのだが、時々、進行方向に関係なく、同じ表示図の時があると、頭の中が、やや混乱してしまう。

 

 元々、上下や左右などは、人間が勝手に決めた習慣的な約束事だろうが、時々、それとは異なる状況に出会うと、混乱することとなるようだ。 富士山の偉大さが、その約束事を変え、富士山が上にくる案内図にさせている、のだろうか?

 

 

○2件目は、八つの池には入っていない、「中池」のことである。 この中池、場所も中心部の一等地にあり、水量も多く、湧水もきれいで魚も泳いでいて、素晴らしい池だ。以前、グループで忍野八海を訪れた時は、その見事さに、忍野八海は凄いや、と思ったことだ。   

 所が、今回分ったのだが、この中池は、地元の企業池本荘が、ボーリングして作った人工の井戸(池)と言われ、そこが管理しているようだ。 土産物を扱う売店や、食堂を利用しないと、池の真ん中にある島には行けない様になっていて、自分の記憶でもそうなっている。

 

ウィキペディアには、 

「中池」は池本荘により人工的に掘削された穴である。「水車小屋」の水は「湧池」内部より汲み上げられている。その為、「湧池」の湧水量は激減し、2003年に池の縁が一部崩落した。また、水が「濁池」の中より「中池」へ流出したため、「濁池」の状態が著しく変化している。 

忍野八海には、その名の通り「8ヶ所」に池があるのだが、周辺にはそれ以上の数の池が存在する。ただし「出口池」「御釜池」「底抜池」「銚子池」「湧池」「濁池」「鏡池」「菖蒲池」の8つ以外の池は「忍野八海」とは何ら関係の無い人工池である。特に池本荘の正面にある「中池」は、比較的規模が大きく目立つ上に忍野八海の中心に位置する事などから、多くの観光客はこれが忍野八海の1つと勘違いしてしまうが、「中池」は前述の通り人工物であり、忍野八海ではない。 同様に、「はんのき資料館」内部の大きな池も人工池であり、忍野八海には含まれない。 

と出ており、少なくとも好意的な記述ではない(忍野八海 - Wikipedia)

以前、信州の安曇野に行った時に、アルプスの伏流水が、滾々と湧き出る様子を見たことがあるが、中池は、それに近い。

 

 湧水量の多い湧池は、地域の飲料水や、農業用水にも利用されている、重要な水源でもあると言う。忍野八海の他の池は、往時はいざ知らず、現時点では、小さかったり、浅かったり、水が澱んでいたり、水面に雑草が生えていたりなど、この中池に比べると、かなり見劣りがするのである(逆に言えば、遺産らしいがーー)。

 でも、国の天然記念物に指定されている八つの池は、前述の案内図にはちゃんと出て来るのだが、中池は、全く出てこないのだ。(上述の、北が上の案内図には、人工池の名で出ている)

 

 この、中池周辺の施設や管理形態は、観光客を相手にした金儲けの、商業主義が幅を利かしているようにも見え、ここが出している以下の地図は、当然だが、憂さを晴らすかの様に、中池が、中心に大きく描かれている!(忍野八海池本) 

   

                         富士山と中池を中心にした案内図 

 図では、良く見ると、本来の忍野八海も、小さく表示されている。

 ほぼ南の方角に位置する富士山が、この図では、真上に描かれているが、この図を見るに及んで、先述の、忍野八海の案内図が、南が上になっている理由は富士山である、という確信に変わったのである。

 

 地元には、地下水を巡って、土地の所有権や、水の管理運営権など、歴史が絡む複雑な話から、争いや対立があるのかも知れないが、何ともすっきりしない話だ。

 池本グループに言わせれば、自分たちが頑張っているからこそ、忍野村にも観光客が来てくれるのだ、と胸を張ることだろう。まさにその通りで、中池が無かったら、寂れた遺跡となって、果たして観光客は来てくれるだろうか。ライブカメラも設置されていると言う、中池あたりからの富士山の風景は、忍野富士としても、素晴らしいものだ。

   

     中池からの忍野富士(ネット画像) 

 環境保護と観光との両立は、大きな課題だが、自然の姿を壊すことなく、地下水を生かしながら、八つの池を、もう少しきれいに、活性化出来ないものか、全体として、公と私とをバランスさせた運営の工夫は出来ないものだろうか、と思う。

 遺産として守りながらも、一方で、地域としての維持・振興を図ることも、極めて重要なことで、今回の世界遺産登録を機に、今後どのように展開されるのか、注目していきたい。

 

 

○もう1件は、遺跡に関することだ。元々、忍野八海は、富士山の火山活動に絡む自然の造形としては貴重なものだが、歴史的に、富士山信仰に関わる巡拝地でもあり、富士登拝を行う道者たちはこの水で穢れを祓った、などとあり、文化遺産としては何があるのか、茅葺屋根の民家も、それに当たるのか等、良く分からず、腑に落ちなかったのである。

 でも、少しく調べたところでは、各池には、霊場として、以下のように、水の守り神とされる、竜王が祀られていると言う。ただ、遺跡の所在は未確認だがーーー。

   1 出口池  難陀竜王

   2 御釜池  跋難竜王

   3 底抜池  釈迦羅竜王

   4 銚子池  和修吉竜王

   5 湧池   徳叉迦竜王

   6 濁池   阿那婆達多竜王

   7 鏡池   麻那斯竜王

   8 菖蒲池  優鉢羅竜王 

 また、それぞれに、歌が詠まれていて、歌も記した碑(一部、無くなって更新)も残っているようだ。以下の画像は、第6霊場の濁池の、新たに作られた表示碑だが、歌は

    「ひれならす 竜の都のありさまを くみてしれとや にごる池水」

と書かれているようだ。

 これらは、ソフト・ハード双方で、立派な文化遺産であろう。(忍野八海 - Wikipedia

   第6霊場 濁池の碑(ネット画像より)   

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富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その1

2013年05月20日 14時50分44秒 | 日記

2013年5月20日(月) 富士山を巡ってー世界文化遺産に登録へ その1

 

 

 この所、世界文化遺産への登録が、ほぼ確実となった富士山を巡っての話題が多いが、当ブログでも、

      富士山を巡ってーUTMF      (2013/5/10)

      富士山を巡ってー世界自然遺産として (2013/5/15)

を投稿してきた。今回は、本命の、世界文化遺産への登録について取り上げたい。 

 

 世界文化遺産として登録されるには、ユニバーサルな「顕著な普遍的価値」を持つことを証明する構成資産が必要で、富士山の場合は、「信仰の対象」であり、「芸術の源泉」になった名山という価値の根拠を示すこととなる。日本から申請された資産は、最終的に絞り込まれた下表の25件だが、イコモスの勧告では、25番の三保の松原は含まれなかったようだ。(世界文化遺産登録を目指す「富士山」の構成資産

     

 これらを、地図上に表示すると下図のようになる。(富士山を世界遺産に!! | 富士山エリアの総合ガイド - フジヤマNAVI 三保の松原は位置移動)  

     

 

 

 ネットには、これらの構成資産の各々について、文化遺産としての根拠などが解説されているが、ここでは、それらを参考に、3つのグループに分けて、簡単なコメントを述べたい。(静岡県/世界遺産推進課/構成資産の紹介などを参照) 

 

1 山岳信仰と富士講

 我が国では、自然信仰の一側面と言える山岳信仰は、富士山だけではなく、白山や立山や出羽三山など、日本各地にある、習俗・文化であろう。

 日本最高峰であり、その姿形から、霊峰として崇められた富士山本体は、最高の信仰対象(富士信仰)となり、修験者が登ったり、富士講が盛んになった江戸時代以降は、一般の善男善女が登るようになったと言えよう。富士講は、その後は大幅に少なくなったが、今も、関東を中心に行われているようだ。(富士講 - Wikipedia) 

現代は、身心の健康やレクリエーションとして登るのが一般的だろうが、でも、心の中には、富士山に対する、神聖な畏れの様なものもあるだろうか。

 

 日本の最大級の火山でもある富士山は、有史以降も、噴火を繰り返し、奈良時代末期から平安時代初期にかけての

     延暦の大噴火:周辺の湖が変化 

     貞観の大噴火:北西方面に大溶岩流、周辺の湖が変化、青木ヶ原樹海が形成。

などがあり、更に、江戸時代中期には

     宝永の大噴火:死者は無かったようだが、江戸まで火山灰が飛んできた。

があり、中腹に、現在の宝永火口と、宝永山が出来たようだ。(富士山の噴火史 - Wikipedia

この様な、火山活動や、それによる自然災害が、周辺住民に怖れられ、それを鎮めるものとして、富士信仰が深まって行ったのだろうか。

 

 周辺各地にある浅間神社の、浅間(せんげん)とは、火の神様の意と言い、富士山を神格化した御本体である、浅間大神を畏崇し、この神を鎮めるために、神社を作って祀ったのであろう。(浅間神社 - Wikipedia

富士山登拝の、山仕舞いとされてきた、「吉田の火祭り」(北口本宮富士浅間神社の祭り)も、勿論、火の神と無縁ではない。(吉田の火祭 - Wikipedia

現在も噴煙を上げている、浅間山(あさまやま)の呼称も、同じ意味だろうか。

 

 各登山道は、以下のように、各浅間神社が起点となっていて、そこから入山する。各登山道には、呼称など、幾つかの変遷があるようだ。

 

   大宮・村山口登山道  富士山本宮浅間大社が起点の登山道(謂わば、表参道)

                  途中に、山宮浅間神社、村山浅間神社もある。

                  現在の、富士宮口登山道

                        

                           富士を背景にした本宮浅間大社(ネット画像)           

   須山口登山道     須山浅間神社が起点の登山道  宝永噴火で一時壊滅したが復興

                 現在の、御殿場口登山道 

   須走口登山道     富士浅間神社(須走浅間神社)が起点の登山道

                 現在も同じ呼称

   吉田口登山道     北口本宮富士浅間神社が起点の登山道

                  富士講信者の登山本道とされ、最も多く利用された。

                  河口湖近くに、富士御室浅間神社、川口浅間神社もある。

                  現在も同じ呼称

 

 登頂後に、山頂でご来光を拝んだり、信仰遺跡群を廻ったり、御釜を覗きこみながらのお鉢巡りは、富士信仰の重要な活動であろう。 

以前の富士講などの登山では、起点の神社から、大変な距離を歩いて登った訳で、途中に、これら登山者を支える宿坊や、御師住宅などがあったようだ。 富士講の開祖とされる角行や、富士講に関する、人穴富士講遺跡も、構成資産に含まれている。(人穴富士講遺跡 - Wikipedia)  

 近年になって、何処の山でも、交通の便が良くなり、途中までは、歩くことなく登山出来るなどの、登山方法の変化で、嘗ての宿坊等は大幅に無くなってしまっている。富士山も例外ではなく、戦後、富士スバルラインが開通して、5合目までは車で行けるようになって以降は、状況が大きく変わってしまった。大半の施設が、現役を終えて、遺産・遺跡になってしまったようだ。  

     

2 自然の造形への思い

 富士山を取り巻く、自然の造形も、信仰活動にも深く関わっていて、今回の構成資産に含まれているものが多い。 

○富士五湖は、富士の景観がより美しく見えるなど、どの湖も素晴らしく、富士講が盛んな頃は、これらの湖や周辺は、宿坊や憩いの場となり、遠隔地から出て来た信者達が、旅の喜びとして、巡礼したものでもあろう。

  ここで、富士五湖の成り立ちを見てみたい。富士山の古い歴史の中で、前述の延暦の大噴火で流れ出た溶岩流により、一つだった「剗(せ)の海」から、本栖湖が分離し、その後の、貞観の大噴火の溶岩流で、剗の海の大半が埋まったが、精進湖、西湖が、僅かに残った、と考えられているようだ。      

  一方、延暦の大噴火で流れ出た溶岩流で、古い「宇津湖」が、山中湖と古忍野湖に分かれ、後者が干上がって、現在の、忍野八海になった、と言われている。

  富士五湖の成り立ち(富士五湖) 

○この忍野八海は、富士の伏流水が湧き出る湧水池だが、汚れを落とす霊場でもあったようで、現在でも、その澄んだ美しさは見事である。 

  忍野八海の1つ 湧池  

○白糸の滝も、富士の伏流水が湧き出たものだが、富士講の参拝者にとって、滝に打たれる、修行の場でもあったろうが、明美な滝は、旅の途中の喜びでもあったろうか。    

富士の山腹に降った雨が、麓に湧き出て来るまでには、数十年~長くは80年もかかる、と言われている。(富士山の湧水

 

○一方、火山活動での溶岩流が、色々な溶岩洞窟を作るが、その中で、巨木群を巻きこんで出来たと言われる溶岩樹型は、自然のなせる技としても、稀有のものだ。洞窟の壁面は、あたかも、身体の内側(胎内)にいるように感じられ、そこに、神秘神聖を感じて、浅間大神等を祀ったようだ。(河口湖フィールドセンター [船津胎内樹型])  

 船津胎内樹型内部(ネット画像 

 今回の構成資産には含まれていないが、各地にある、氷穴や風穴などの、火山活動に伴う溶岩洞窟も、自然の造形としては、珍しいものだろう。

これらの富士山周辺にある主な溶岩洞窟は、下図のようになるようだ。(家族でお出かけ「鳴沢氷穴,富岳風穴,西湖蝙蝠穴,船津胎内,吉田胎内,印野胎内,駒門風穴」

 

     

富士五湖に因む、近年の話題としては、

  西 湖:2010年、絶滅したと言われたクニマスが見つかった。

  本栖湖:湖面に映る、逆さ富士の姿は、五千/千円札のモデルになって久しい。

  河口湖:かなり前だが、大雨による水害で、水が引かなくて困ったことがあった。湖同士が、地下で、繋がっている等と聞いて驚き。

などが、思い浮かぶ。

 富士山の火山活動の歴史や富士五湖の成り立ち等を知った上で、これらを思う時、富士山周辺の自然の造形は、現代でも、計り知れない自然の奥深さを伝えてくれる、ように感じるのである。 

 

 三保の松原など、3番目の、景観美と芸術 については、冗長になるので、稿を改めて触れることとしたい。

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母の日のカーネーション

2013年05月17日 23時01分20秒 | 日記

2013年5月17日(金) 母の日のカーネーション 

 

 

 先日の12日は、恒例の母の日ということで、近くに住む息子が、カーネーションの花を持ってきてくれた。

ワイフKにとっては、プレゼントを忘れないでいてくれる気持ちは、やはり、嬉しいもののようだ。 以来、我が家では、久々に、風呂場ギャラリーが復活して、賑やかになっている。

      

 

最近は、カーネーションにも色んな種類があり、色も多様だ。

   

  

  

白く細かな花は、カスミソウで、目立たないながら、全体のつなぎ役、まとめ役になっているようだ。 

下の写真は、上から見たものだが、又、印象が違うのも面白い。

 

  

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