つれづれの記

日々の生活での印象

日本スペイン交流400周年  8

2013年07月25日 16時55分29秒 | 日記

2013年7月25日(木) 日本スペイン交流400周年  8 

 

  江戸初期に、スペインとローマに慶長遣欧使節が派遣されて、今年が、丁度400年の記念の年に当たると言うことで、当ブログでは、下記記事

      日本スペイン交流400周年  1 (2013/6/26)

以降、2、3、4、5 と続けて投稿して来た。

 これらの中で、慶長遣欧使節に関連する話題、スペインの大まかな歴史、スペインの現状についての概況と文化的側面、多言語国家と国際公用語、ユニークな世界遺産巡り、について取り上げている。

続く6、7では、スペイン旅行の思い出に関する話題を纏めている。

 

 本稿では、最後に、身近にあるスペインを取り上げて、スペインシリーズを終わることとしたい。 

 

 

●スペイン語 

 日本語になっている外国語は多いが、スペイン語から日本語になった、日常的に使う言葉は、そんなに多くはない。ネットで調べた所では、

 名前                      原意

 道具   カッパ             マント

 食品   パン              パン

              ナタ・デ・ココ        ココナッツクリーム 

 地理   カルデラ             大鍋

        リアス             入り江

気象用語 エル・ニーニョ現象  子供

             ラ・ニーニャ現象      女の子

 

位だ。でも、最近の日本では、自動車や、サッカーチームのネーミングに、スペイン語由来が多く、企業名等もあるようで、例示すると以下のようになる。(日本語になっているスペイン語, スペイン語が語源の言葉 

名前                     原意

車の名前 (日産)セフィーロ   そよ風

        (マツダ)デミオ     私の      

サッカーチーム名

        セレッソ(大阪)     桜

            アビスパ(福岡)     蜂

           (大宮)アルディージャ  リス

            ジュビロ(磐田)      歓喜

 

 企業名  ガスト          好み       

               デル・モンテ      山

        パロマ         鳩

 

  一方、言葉が似ているポルトガル語をみてみると、スペイン語に比べて、日常的に使っていたり、やや古い日本語になっている例が多く、歴史的な経過の違いだろうか。  (「日本語になったポルトガル語」

名前                   原意

食品 ビスケット           ビスケット

    コンペイトウ          砂糖菓子  

      カステラ              城

      バッテラ            小船

       テンプラ           調理 (スペイン語では、精進揚げ)

道具 ブランコ          左右の動き

     ジョウロ         水差し

     ボタン          ボタン

     カルタ         トランプ

     ジュバン       胴衣

     シャボン      石鹸

     カッパ       袖なし外套

他  バテレン      神父

   キリシタン     キリスト信者

   オンブ       肩

        

又、世界地図を眺めると、スペイン語由来の、国名や地名が多いことがわかる。

  名前                 意味

  国名 エクアドル        赤道

     エル・サルバドル     救世主

     コスタ・リカ          豊かな海岸 

  地名 ロス・アンゼルス     天使

     サン・フランシスコ     聖フランシスコ

     ラス・ベガス         肥沃な平原

     プエルト・リコ        豊かな港

     ブエノス・アイレス    綺麗な空気

     カサ・ブランカ       白い家

     ラ・パス           平和

     サンチアゴ        聖ヤコブ     

など、枚挙に暇がない。嘗て、世界を制したスペイン帝国の名残であろう。

 

  筆者は、世界での話者が多いことから、一時、スペイン語を齧ったことがある。 岩波新書の「スペイン語入門」だったと思うが、1~10迄の数の数え方

       ウノ、ドス、トレス、クアトロ、シンコ、シエス、シエテ、オチョ、ヌエベ、ディエス

を覚えたり、

      太陽 sol  月 luna

等も覚えた。

  学生時代に、伊勢湾台風後の名古屋の近くで、短期間だが生活を共にしたフィリピン人男性の名は、ドミンゴと言ったが、変な名前ダナ、と思っていたが、これは、「日曜日」の意味だった、と知ったのもその時である。

でも、結局、長続きはせず、スペイン語の独習は、物にはならなかった。  

 

●ピレネーの向こう

  フランスとスペインの国境にあるピレネー山脈だが、文化の先進地域であったフランス側では、ピレネーの向こうはアフリカ(ナポレオン)などと、半ば、野蛮な地域だ、と言われていたようだ。現在は、ピレネー地域は、スイスアルプスの様な雰囲気がある観光地としても、人気があるようだが、多くは、フランス側が賑やかな様だ。

 

  ピレネーと言えば思い浮かぶのが、

      ♪ピレネエーのオー 山の男はアー 

で始まる歌である。 学生時代に口ずさんだ歌だが、これまでは、スペイン民謡か 位に思っていたが、調べてみたら、

      ピレネーの山の男  西條八十作詞 古賀政男作曲 岡本敦郎歌

という、れっきとした歌謡曲で、昭和30年当初、コロンビアからレコードが発売されて、大いに歌われた曲のようである。ほぼ同年齢のワイフKだが、この歌を知らないと言うのは、やや意外である。

  少し長くなるが、以下に、歌詞を引用する。(ピレネーの山の男: 二木紘三のうた物語

 

1 ピレネーの 山の男は
  いつも一人 雲の中で
  霧に濡れ 星を眺めて
  もの言わず 伐(き)るはもみの樹
  ハイホー ハイホー
  千年の 古い苔の樹

2 ピレネーの 山の男よ
  いつも一人 何を想う
  雨降れば 小屋の小鳥に
  ひげ撫でて 昔を語る
  ハイホー ハイホー
  思い出の 愛の駒鳥

3 ピレネーの 山の男よ
  春は行き 夏が来るよ
  角笛は 風に流れて
  旅馬車は 今日も急ぐよ
  ハイホー ハイホー
  故郷(ふるさと)の おまえの町へ

 

  ゆっくりしたテンポの、のびやかな歌で、郷愁を誘う雰囲気がある。作詞者、作曲者とも、現地を訪れたことはあるのかどうかは知らないが、やや誇張されて、樹齢千年にもなって苔むした、もみの木を伐るという、樵の歌だ。アルプスのように、角笛の音が響いてくるという。

忘れられない、「白い花の咲く頃」などと同じく、終戦前後、日本を代表する叙情歌歌手と言われた、岡本敦郎が歌っているのもいい。




●憧れのスペインーー終わりに

  これまで、ピレネーの山の向こうにあるイベリア半島には、マドリードとトレドにしか行っていないのだが、スペイン南部に広がるアンダルシア地方(Andalucia)は、一度は行ってみたい土地柄だ。

アンダルシアという語感が好きである。 元々は、ゲルマン系のヴァンダル族が語源のようで、イスラムのネーミングである、アル・アンダルスから、アンダルシアとなったという。南スペイン一帯は、現在は、アンダルシア州(州都セビリア)になっている。

  暖かい南欧だが、緑あふれる肥沃な土地ではない乾燥気味の地域で、下図の、カサレスの様な、白い壁の家の風景もあるようだ。この風景には、郷愁を誘う懐かしいような、憧れに近い印象があるのは、何故だろうか。(ネット画像より)

   白い村 カサレス 

  セビリアや、コルドバや、マラガや、そして、グラナダもある。カソリックとイスラム文化が混合された地域でもあろうか。イスラム文化の中心であった、グラナダのアルハンブラ宮殿には、どんな空気が流れているのだろうか。 

 

 JR山の手線の西日暮里駅前に、「アルハムブラ」と言う名の、スペイン料理店がある。御用とお急ぎの方は、南スペインに行く代わりに、ここに行けばいいようだ。

この所は、暫く行っていないが、これまで、何度か足を運んでいる。本場の、パエリア等のスペイン料理に加え、フラメンコのステージも披露してくれる。

  今回のシリーズの記事を通して、スペインに関して、多少知識や関心が深まっている現在、暫くぶりで、金婚記念の一環として、夫婦で行ってみようと思っている。

 

  ガウディイ没後100年となる、2026年には、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会が完成すると言う。あと13年後である。

年齢的に、旅行が不可能な年月ではないので、それを目標に、元気で長生きせにゃーー。  

 

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日本スペイン交流400周年   7

2013年07月23日 12時07分43秒 | 日記

2013年7月23日(火) 日本スペイン交流400周年  7

 

 

 江戸初期に、スペインとローマに慶長遣欧使節が派遣されて、今年が、丁度400年の記念の年に当たると言うことで、当ブログでは、下記記事

     日本スペイン交流400周年  1 (2013/6/26)

以降、2、3、4、5 と続けて投稿して来た。

 これらの中で、慶長遣欧使節に関連する話題、スペインの大まかな歴史、スペインの現状についての概況と文化的側面、多言語国家と国際公用語、ユニークな世界遺産巡り、について取り上げている。

 続く前稿の6では、スペイン旅行の思い出に関する前半の話題を取り上げたが、本稿では、後半の話題を取り上げることとしたい。

 

 

●古都トレドの見物

 初めてスペインに行った際、スペインについては、大まかな知識しか持っておらず、物の本には、古都のトレドは必見とあるので、兎も角、行ってみることとした。

 

 ここで、見物に出かける前に、最近仕入れた情報だが、トレドの状況を整理しておく。

以前の記事で触れているが、現在のスペインの中心は、カスティーリャ地方と言われ、スペイン語やスペイン人は、カスティーリャ地方が標準と言われている。 カスティーリャ地方は、順次、カスティーリャー・ラ・マンチャ州、カスティーリャ・イ・レオン州、マドリード州の、3つの自治州に再編されたようだが、この地域の特別州の様な存在が、現在の首都のあるマドリード州であろうか。 マドリードは、人口は約300万人を越えるスペイン一の大都市である。

 一方、トレドは、現在、カスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都だが、人口は、何と約6万人と小規模だ。

 又、カスティーリャ・イ・レオン州の州都、バヤドリッドは、人口30万人を超える中核都市である。 

 

 カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合して、スペイン王国の融合が進み、スペインの首都(宮廷)がマドリードに移されたのは、1651年と言われ、それ以前の長い間、トレドはスペインの政治の中心だった様だ。

 トレドは、1986年に、旧市街全体が、トレド歴史地区として、世界文化遺産に登録されており、日本の奈良市と姉妹都市の関係にあるようだ。(日本の世界文化遺産登録は、1993年の法隆寺、姫路城が第1号、古都奈良は1998年)

 

 

 さて、トレド見物だが、マドリードのホテルに頼んで、トレド見物のバスを申し込んで貰ったが、ホテルに立ち寄ってピックアップしてくれるものだったので気楽であった。

トレドは、マドリードの近郊の60km程の距離にあり、バスで、大した時間は掛からなかった。(今は、新幹線も走っているようだ。)

 バスのガイドは、スペイン語と英語で案内してくれたが、日本人は自分一人とあって、Mr.Tokyoなどと声をかけてくれた。今は日本語のツアーもあるようだ。

 

 タホ川に囲まれたトレドの遠望は、下図のように素晴らしく、今でも、目に焼き付いている。(ネット画像より)

下図で、中央付近に見える尖塔は、トレドのシンボルの大聖堂(カテドラル)で、その右側の高台に在る建物は、古代の王城、アルカサル(Alcazar)だ。

街の三方を囲むように巡っている川は、タホ川で、自然の要塞を成している。

  トレド遠望 

 当時、何処をどの様に案内されたかは、殆ど記憶が無く、残念ながら、自分で写した写真等も見当たらない。

ネット情報によれば、最近のトレド観光の主な巡回地は、下図左のようで、当時も、多分、これらの、①~⑩を廻ったと思われる。

 

 先の写真のトレド遠望で、右手の高台に見える立派な建物は、何だろうかと、ネットで調べていく内に、下図右のような、異なるトレド観光案内図が見つかった。

 この右図は、左の図よりやや詳しく、写真にある建物は、以前の国王の居城だったアルカサル(王城)と確認できたのだが、この建物は、現在は軍の博物館となっているようだ。

又、図には、後述する、グレコの絵のあるサンタクルス美術館も表示されている。 

  

  トレド旧市街の狭隘さには驚かされた。イタリアのフィレンツエの旧市街の窮屈さも印象に残っているが、トレドも相当なものだ。

旧市街にある大聖堂(カテドラル)に入って、高い内部を見上げた印象は残っている。

 大聖堂の目の前に、トレド市の市庁舎があることを最近知ったのだが、よくぞ、住民サービスが出来るものだ、と思う。あの狭苦しい旧市街で人間が生活を営んでいる訳で、上下水道や電気、電話等もちゃんと整備されているのだろうと、狭く傾斜した石畳の道を歩きながら、驚きを持って思ったことであった。 

 川に面していない後背地には、トレドの新市街が広がっているようだが、行政上は、新旧の市街地をどのように連携させているのだろうか。

 

 

●スペインでのグレコの絵 

 2回目にスペインを訪れたのは、某コンピュータ企業主催のツアーだったが、この時も、トレドを訪れ、旧市街の似たような場所を廻っているが、詳細は省略して、スペインを代表する画家の一人と言われるグレコについて取り上げたい。

グレコは、1600年代初期に活躍した画家で、スペイン人ではなく、元々は、ギリシャ人の様だが、晩年は、トレドに住んだようだ。

これまで、マドリードのプラド美術館や、トレドのサン・トメ教会やグレコの家で見た、グレコの絵は、余り印象には残らなかった。

 

 2回目のトレド訪問の時に、先の地図にある、サンタクルス美術館を訪れたが、そこに所蔵されている、著名な「無原罪のお宿り」等の絵を観て、深い感動を味わい、強く印象に残ったのである。(実は、美術館の名前や、絵の名前は、今回分ったのだがーーー)

 大きな絵を、下から見上げるように観賞した記憶がある。通常の宗教画と比べて、描かれている人物が、 縦長になったり、うねるような感じにデフォルメされているが、それがかえって、躍動的で、生き生きとしていて、圧倒されるような迫力だ。 青を生かした色遣いには独特の雰囲気があり、光り輝くような表現も素晴らしい。

自分の場合、グレコと言えば、真っ先に思い浮かぶのは、青い色である。 

  グレコ 無原罪のお宿り

 この絵の「無原罪のお宿り」というタイトルは、当時は知らなかったものだ。今回、改めて調べて分ったのだが、カソリック信者でない者にとっては、何とも硬く、難解な言葉である。

 無原罪とは、原罪が無い という意味のようで、お宿り とは、子を懐妊したことだという。 神の子イエスを宿し、生んだ聖母マリアの存在を重視しているカソリックでは、この懐妊をどのように解釈したのだろうか。

 原罪という概念は、簡単に言い表せるようなものではないだろう。でも、部外者として敢えて言えば、人間の罪の原点とも言える、情欲の後に子を宿すことが、マリアの場合だけは、聖霊による懐妊であることから、罪から逃れている(原罪が無い)という解釈となるのだろうか。言わば、例外扱いとするということで、数学的な不連続点を作るようなものだろうか。

 極めて重要なテーマとあって、グレコの、この絵の他にも、同じようなタイトルの付いた絵が、多数あるようだ。(無原罪の御宿り - Wikipedia)  

 最近分かったのだが、昨2012年秋~今2013年春に、この絵を含めて、世界のグレコの作品を一堂に集めた展示会(グレコ展)が、大阪と東京で開催されたようだが、残念ながら、全く知らなかった。(「エル・グレコ展」東京展、国立国際美術館にて開催中!

 

●フラメンコの文化

 2回目のスペイン訪問では、団体ということもあり、マドリードで、一夜、フラメンコを堪能した。本場の、ギターのリズムと情熱的な独特のステップが素晴らしい。勿論、パエリヤ等のスペイン料理も併せて楽しんだ。

 元々アジアに住んでいた流浪の民ジプシー(今は、ジプシーではなく、ロマと言うようだが)が、ヨーロッパに移動し、流れ流れて、ピレネー山脈を越えて、スペイン南部のアンダルシアに辿りつき、その地で盛んになったものがフラメンコと言われ、歴史は、比較的新しいようだ。

 アフリカを経由して海を越えてイベリア半島に入って来たイスラムも加わって、独特の文化を生んでいるようだ。(小松原庸子スペイン舞踊団 > フラメンコに関する情報

 フラメンコには、歌と、踊りと、ギターの、3つの分野があると言う。それぞれに、奥は深いようだ。フラメンコと言えば、ついつい、リズムやステップに目が行ってしまうのだが、先ず大事なのは歌だと言う。この歌、余り聞き覚えてはいないのだが、激しい踊りの中で、人生の喜びや悲哀を歌っているものも多いようだ。

 アンダルシアのセビリヤを舞台にした、フランスの作曲家ビゼーの名曲、歌劇「カルメン」で、赤いバラの花をくわえて、カルメンが踊るのはフラメンコだろう。

 

 帰国時、マドリードのバラハス空港で、記念に、かなり大きなフラメンコ人形を買い求めた。この人形、やや埃を被ってはいるものの、現在も、自宅で健在である。

  やや埃を被っている フラメンコ人形

 

 

 

 

 

 

 

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日本スペイン交流400周年  6

2013年07月20日 17時59分29秒 | 日記

2013年7月20日(土) 日本スペイン交流400周年  6 

 

 江戸初期に、スペインとローマに慶長遣欧使節が派遣されて、今年が、丁度400年の記念の年に当たると言うことで、当ブログでは、下記記事

      日本スペイン交流400周年  1 (2013/6/26)

以降、2、3、4、5 と続けて投稿して来た。

 これらの中で、慶長遣欧使節に関連する話題、スペインの大まかな歴史、スペインの現状についての概況と文化的側面、多言語国家と国際公用語、ユニークな世界遺産巡り、について取り上げている。

 これまで、スペインには、2度訪れているが、本稿では、スペイン旅行の思い出に関する話題の、前半部分を纏めてみた。

 

 

 現役時代、スイスのジュネーブでの2週間~3週間程の国際会議や、ロンドン、ミュンヘンでの短い会議等に、何度か出席しているが、その会議の前後に、見聞を広めるためと称して、ヨーロッパ各地に足を伸ばすのが通例で、結構、各地を廻っている。

日本から直行便が出ている、ロンドン、パリ、フランクフルト、ローマ、アムステルダム等の空港を往路、復路として選びながら、これと、行きたい所を上手く組み合わせることで、料金が変わらない通しの航空券の範囲内で、ヨーロッパ各地を廻われたのである。

 

 スペイン行きの一回目は、手許には正確な記録はないが、ある時、思い立って、国際会議終了後、一人で、初めてスペインを訪れてみようと言うことになった。だが、スペインは、当時では、上述の通しのルートが取れず、付加料金(数万円?)を払ってチケットを作って貰うこととなった。

もう一回は、某企業主催の見学ツアーに参加し、欧米各地を廻る一環として、スペインに行っている。

 

 現在の情報も参考にしながら、おぼろげな記憶を手繰り寄せて、今でも印象に残っている旅の思い出について、いくつか記してみたい。

 

 

●初めてのマドリードのタクシー

 スペイン行きの飛行機には、ジュネーブ空港から乗ったのだが、当時のイベリア航空のルーズさには、いささか往生した。予定の便が出る時間になっても、何の変更の案内も表示も無いのである。乗客の皆さんが慌てていないところをみると、慣れっこになっているのだろうか。これがスペイン流か、と、こちらも、ゆっくり構えることとした。

 予定の時間よりかなり遅れて、飛行機は出発したのだが、スペインのマドリードのバラハス空港に着いて、入国し、現地通貨に交換して、外に出た。タクシー乗り場を探したが、見つからず、手荷物を抱えて暫くうろうろした。どうやら、出口を間違えてしまったようなのだ。

すると、タクシー風の運転手が近寄って来て、何だか声を出した。飛行機内で、予め読んでいたスペインのガイドブックには、{白タクが多いので要注意}とあったので、いよいよ来たな、とやや緊張した。

 タクシー乗り場は? と聞いたら、件のおっさん、何やら喋ったのだが、現地語で、俺の車に乗れ、と言ったのかも知れない。

でも、それを聞き流しながら、タクシー乗り場や他のタクシーを探したのだが、やはり見つからない。なすすべも無く、やや不安ではあったが、ままよ、と、そのおっさんに乗せてもらうことに腹を決め、市内のホテル名を告げたら、勿論、直ぐ了解。

 

 この運転手、英語は十分に通じ、実直そうな人柄だったことから、途中、次第に打ち解け、ホテルに着くまでの間、色々と話が弾んだ。 そして何と、ホテルにチェックイン後に、その足で、マドリード市内をサッと廻って貰う約束をしたのである。 

 ホテルに着いて、ホテルの人に、待たせてあるタクシー(?)で直ぐに出かける、と言ったら、びっくりされた。チェックインをして部屋を確認後、程なく、玄関前で待っていてくれた、あの車に乗って、午後から夕方にかけての、マドリード市内見物が始まったのである。

 何処をどのように廻ってくれたかは、定かな記憶は無いのだが、“ここでしか食べられない物を食わせてくれる所に行きたい”、とリクエストしたら、屋台風の店が並ぶ混み合った場所に案内された。 そこで、料理を食べながら、話を交わし、初めてのスペインでの時間を過ごしたのである。(以下の画像は、現在のネット情報より入手)

 

 イカを輪切りにして揚げた、てんぷら風のものが皿に盛って出て来たが、カラマレ と教えてくれた。わざわざ、calamares とメモを作ってもらったと記憶している。帰国後に調べてわかったのだが、カラマレ とは、スペイン語で、イカを指す様だ。

    カラマレ

 又、米と魚介類を炒め煮したような料理は、こちらは、パエリア と教えてくれた。 下の写真の様な、大きな平鍋から、小分けして貰った様に思う。パエリア とは、底の浅い鍋の意のようだ。

パエリアには欠かせない、楕円形をした、黒いムール貝の姿形と風味は捨てがたい。

       

            パエリア(左全体                  右小分け)

  パエリア料理や、カラマレ等の他、美味しいタコ料理もある。このように、魚介類をふんだんに使い、米も使う、スペインの食文化には、日本と共通するものがあり、単純に、気に入ってしまった。 

  料理の代金は、当然、こちらで持ったが、大した金額ではなかった。連れて行った貰った場所は、運転手自身もよく行く、一般庶民の溜り場のような所だったのだろうか。

 

  その後、王宮等の市内を廻ってくれたが、途中で、滞在中に行く予定の、プラド美術館の場所なども教えて貰って、都合2時間程で、マドリード市内を、そそくさと廻って貰ったのである。

請求されたタクシーの代金は、戻った時に、ホテルの人も、気にしていたと見えて、聞かれたことだが、かなり良心的なものだったようだ。 

 

  日本に帰国後、パエリア等のスペイン料理は、すっかりファンになって、何度も食べている。

日本の飲み屋等で、イカのリング揚げのカラマレが出てくると、筆者は、誇らしげに案内してくれた、実直で親切な、あの白タクの運転手の事を思い出すのである。

 

 

● プラド美術館

 マドリードには、パリのルーブル美術館や、ニューヨークのメトロポリタン美術館などと並び称される、世界有数の プラド美術館 があると言うことで、ひと時、じっくり、見物した。

ベラスケスの絵、グレコの絵、やその他の絵等、沢山あったのだが、残念ながら、余り印象には残っていない。

 

・興味をそそられたものの一つが、超有名なゴヤの絵で、裸のマヤと、着衣のマヤである。

 通常の人間なら誰しも、裸婦像を見ると、実物は勿論、写真や絵であっても、不思議な興奮を覚えるものだ。その様な心の動きだろうか、この絵を見た時、他の絵とは異なる、新鮮な驚きがあった。(画像は、ネット画像より) 

              

                  裸のマヤ                                                 着衣のマヤ   

 スペイン生まれの画家ゴヤは、ベラスケスと共に、代表的な宮廷画家でもあったようで、「カルロス4世とその家族」など、多くの肖像画なども残しているようだ。

 中世の絵では、宗教画以外では、裸は皆無に近いのだが、1800年代初期のゴヤの時代は、裸の絵は、社会的に許されていたのか、いなかったのかははっきりしないが、まだまだ、現代ほどではなかっただろう。

 ネット情報では、最初に描かれたのが裸の絵の方で、時間をおいて、着衣の絵を書いたようだ。裸のマヤは、洋画で局部の陰毛を描いた最初の絵と言われている。(裸のマハ - Wikipedia

 ゴヤは、裸のマヤを発表後、宗教上の異端審問所等に呼ばれて、色々、追及されたりしたようだ。 絵を依頼したのは誰か、描かれている婦人は誰か、等色んな説や憶測があるようだが、宗教的なものではない事は確かなようだ。 

同じ構図で二通りの絵を描いた作者は、一体、何を表現しようとしたのだろうか。 

 

 中世の絵を見慣れていると、この裸婦像は、やや大げさな言い方になるが、自然にありのままを描くことへの欲求や、宗教的・道徳的制約に対する抵抗の現れのようで、人間解放の戦いの大きな流れがあるように感じたことである。 

 

・1500年代中頃に描かれたという、ティツィアーニ(イタリア人画家)の「ダナエ」は、ギリシャ神話が題材の裸婦像だ。

 現地で、下図左のこの絵を見た時、画中右側にいる人物が気になり、厭らしい男に見えて、描かなければいいのに、などと思った。最近調べた所では、実は、この人物は男ではなく、どうやら、老侍女という。それも、右図のように、最初はエロスが描かれた平和な絵だったが、後になって、この侍女に変えられ、足元の布も無くなって迫力を増したものが、プラド美術館にある絵だと言う。 

当時は、神話のダナエは、堕落の象徴で、女性美や道徳を汚す存在とされたと言う。(ダナエ (ティツィアーノの絵画) - Wikipedia

人間解放という点から見て、ティツィアーニは、そのような時代の雰囲気に迫りたかったように思える。

  

           ダナエ(侍女)                    ダナエ(エロス) 

・ボッシュ(ボス)(フランドル(現オランダ)画家)の「快楽の園」という大きな絵は、1400年代末頃に描かれたと言われるが、現物を見た時、異様な雰囲気を感じた。

屏風絵風になっていて、左が天国(エデンの園)、中央が現世(快楽の園)、右が地獄、を対比している絵のようだ。平穏な天国はいいのだが、現世や地獄には、気持ち悪く目をそらしたくなるような、でも、気になって見たくなるような、不思議な魅力もある。 よく見ると、空想の世界に、不思議な生き物や、見たことも無い道具などが描かれている。(ネット画像より借用) 

 

 

 博物館内の土産物店で、複製画を売っていたので、印象に残った、ゴヤ、ティツィアーニ、ボッシュの絵を数枚手に入れた。複製画は、折ったり潰したりしないように、帰国するまで、持ち帰るのに結構苦労した。これらの、その後の経過は以下の通り。  

 

・ゴヤの2種の複製画は、人気が高く、そのままで、知人にお土産に上げる羽目になった。

・ボッシュの複製画は、額縁に入れたら結構大きなものとなり、家の中で、もてあまし気味だった。ある時、職場に持ち出して暫く飾って置い  たのだが、転勤時に、そのまま、寄贈している。

・ティツィアーニの複製画は、額に入れて、今も、自宅のピアノの上に飾ってある。

    ピアノの上の「ダナエ」

  いずれも、複製画本体は、大して高価なものではなく、額縁の方が、余程高くついている。

 

 

 続く、スペイン旅行のトレド見物等の後半部分については、長くなるので、次稿に廻すこととしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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風呂場ギャラリー  梅雨明け

2013年07月15日 23時40分11秒 | 日記

2013年7月15日(月)  風呂場ギャラリー  梅雨明け

 

 今年は、早々の梅雨入りと梅雨明けで慌ただしく、その後、猛暑続きと来ており、季節感が不安定だ。そんな中、先日、ワイフKが、我が家の屋上庭園の草花を、風呂場ギャラリーに取り込んでくれた。

   

 上から下へ順に見てみよう。一番上は、オミナエシ(女郎花)。すっきりした形の黄色の集合花は、秋の七草の代表的なものだが、もう秋の気配が一一、とも思う。

 その下の、白い縁取りのある花は初雪草(ユーフォルビア)で、前回に続き、出番となった。

   

             オミナエシ                         初雪草

 

 赤紫色の小さい花が棒状に密集しているのは、ミソハギ(禊萩)。屋上の水槽で、元気にしている水草で、我が家で育ってかなりになる。田舎の川辺でよく見た野の花で、ボンバナと呼んでいた。

 細々とした蕾が沢山付いているのは、ハゼラン(爆蘭)。蕾が割れて、小さな可愛いいピンク色の花を付ける。午後3時頃に咲くということから、俗称でサンジソウとも言うが、本来のサンジソウは、全く違う別の草花だ。

 今回の変わり種は、シランの実。 シラン(紫蘭)は、初夏に、大きな葉の間から、紫色の鮮やかな花をつけるが、花期は疾うに終わっている。 今年は珍しく、実が着いていたようだが、実の形は、アヤメ科などに似ている。 

         

             ミソハギ                        ハゼラン               シランの実

 

  これから真夏に向かって、屋上庭園の暑さは更に厳しくなるが、フヨウや、モミジアオイや、水草のホテイアオイなどの、出番になる。

 又、秋の七草のフジバカマ、肝心の成長点が害虫にやられて心配なのだが、無事に花をつけてくれるだろうか

  

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日本スペイン交流400周年  5

2013年07月11日 22時45分37秒 | 日記

2013年7月11日(木) 日本スペイン交流400周年  5 

 

 

 江戸初期に、スペインとローマに慶長遣欧使節が派遣されて、今年が、丁度400年の記念の年に当たると言うことで、当ブログでは、下記記事 

  日本スペイン交流400周年  1 (2013/6/26)

以降、2、3、4と続けて投稿して来た。

 これらの中で、慶長遣欧使節に関連する話題、スペインの大まかな歴史、スペインの現状についての概況と文化的側面、多言語国家と国際公用語、等について取り上げてきている。

 スペインシリーズの続編となる本稿では、ユニークな世界遺産での、スペイン巡りをして見た。

 

 

 先日、富士山が、世界文化遺産として、日本として17番目に登録されたことで、日本国内のムードは盛り上がっているところだ。

スペインは、現時点で、44件もの世界遺産をもつ、フランスに次いで、世界第2位の遺産大国だ。国内には、トレド コルドバ グラナダ等の、歴史的な古都が多く、日本の奈良、京都の仏閣と同様の教会の建物や、ローマ時代の古い遺跡等も多く登録されている。

 前々回で触れたが、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会は、建設途上だが、既に遺産として登録されている(行ってみたい所の一つである)。

 

 本稿では、上記の様な通常の遺産ではなく、ややユニークな世界遺産の幾つかについて、現地に行った気分になって、触れることとしたい。

 

 

◎サンチアゴ・デ・コンポステーラ

 スペイン北西部のガリシア州に、キリスト教の聖地 サンチアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)があり、その地に向けて、広大な南欧一帯から通じている巡礼路がある。

 この、サンチアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマ(バチカン)と並ぶ、キリスト教の世界3三大巡礼地と言われ、キリスト教の大司教座が置かれている。スペイン北部に、このような聖地があることは、これまで、殆ど知らなかったと言ってよい。

 ここが聖地と言われる由縁は、この地に、キリスト12使徒の一人である、聖ヤコブが、降り立ったと言い伝えられていて、そのために、9世紀頃に建設されたという大聖堂には、聖ヤコブの遺骸が残されているという。

長年に亘って、イベリア半島の南部がイスラム教勢力に征服・支配されたが、この大聖堂は、これに抗する、キリスト教勢力の反攻(レ・コンキスタ)の拠点として、シンボル的な存在でもあったようだ。

   サンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂  

 サンチアゴ・デ・コンポステーラの関連では、世界遺産登録は、以下のように、3度に分けて行われている。

1回目で、大聖堂を含んだ「サンチアゴ・デ・コンポステーラの旧市街」が、文化遺産として、1986年に登録されている。そして2回目が、「サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産 1993年登録)である。この登録は、フランスとの共同ではなく、スペイン単独のようだが、構成資産である巡礼路には、何処まで含まれるのだろうか。

 そして同様の主旨で、3回目は、フランス国内の巡礼路について、スペインとは別件(理由は不明だが)で、1998年に登録されている。(フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 - Wikipedia

 

 少しく、言葉から調べてみた。まず、サンチアゴ(Santiago)とは、キリスト12使徒の一人である、聖ヤコブに因んだ人名・地名のようで、そうとは知らなかったが、Santo Jacob⇒Satiago となるのかな? 

 世界各地に、こう呼ばれる地名は多いようだ。

   例: サンチアゴ(・デ・チリ)     チリの首都(これは、よく知っている)

      サンチアゴ・デ・キューバ   キューバの都市

      サンチアゴ・デル・エステロ  アルゼンチンの州都 

 次の、デ・コンポステーラ(de Compostela)だが、通常は、

      コンポステーラ の

の意で、一般的には、上記例のように、コンポステーラが地名となるのだが、ここでのコンポステーラは、一般的に、「星降る野」、「墓場」、「いい土地」(諸説あり)と言った意味で、独立した地名ではなく、サンチアゴ・デ・コンポステーラで、一つの地名のようだ。

この、サンチアゴ・デ・コンポステーラは、ガリシア州の、州都でもある。

    

 

 長い歴史の中で、下図のように、フランス、ドイツ、イタリヤ、スペイン等の南欧各地から、網の目のように、この聖地に通じる、巡礼路が出来ているようだ。 

 フランスで、4つの道(図の青色)に集約され、更に2本になって、2つの峠経由でピレネー山脈を越えてスペインに入る。スペイン国内で、最後に太い一本の道(図中の赤色 フランスの道と呼ばれる)に纏まって、サンチアゴ・デ・コンポステーラが終点となる。スペイン国内からの何本かの小さな巡礼路も、途中で、これに合流している。

        巡礼路

  この聖地での、周年的な行事については未調査だが、今も、毎年、10万人もの信者が、巡礼に訪れるという賑わい振りの様だ。それも、スペイン国内からの巡礼者は多くなく、大半は、フランス等から、国境のピレネー山脈を越えて巡礼者が集まるようだ。 

          

 ネットを見ると、なんと、この巡礼路を歩く、日本からのツアーを募集している旅行社もあるようだ。

 比較的最近のことだが、この巡礼行の様子を、TVで見たことがある。田舎の町を発った一行が、トラックに乗ったり歩いたりしながら、何日もかけて聖地を目指すようだ。結構楽しそうな雰囲気で、こういう人達が今もいるのだ、と印象に残った次弟。

 巡礼路周辺には、色んな遺跡などもあるようだが、特に最後となるスペイン国内の巡礼路沿いには、多くの教会等の施設があり、巡礼者に対して、色々な支援が行われるようだ。無料の宿泊所が整備されていたり、食事も用意されるという。これらは巡礼を支える人々の、無償の奉仕で成り立っているようで、通行証の様なものも発行されると言う。

 徒歩によるスペイン横断は、イベリア半島内だけでも、数百kmの道程という、大変なもので、先ず、健康が第一だ。その上で、長い巡礼を続けることは、人々にとって信仰と向き合う貴重な時間となるのだろうか。

 

 似たような例では、世界的には、イスラムの聖地メッカへの巡礼が思い浮かぶ。同様に、規模は小さいが、日本で言えば、お伊勢詣り、が相当するだろうか。あるいは、江戸時代に盛んだった、富士講による富士登山もこれに匹敵するかもしれない。又、お遍路さんの四国八十八か所の霊場巡り等も、似ているだろうか。(巡礼 - Wikipedia) 

 

 日本では、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年に、神社や古道が、世界文化遺産に登録されている。

 スペインや日本の例のように、巡礼路や参詣道が、世界遺産として登録されるのは珍しいようだ。和歌山県とスペインガリシア州は、永続的な友好関係を確立するため、両古道の姉妹道提携を1998年に締結しているという。(サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 - Wikipedia) 

 

 

◎ 人類の祖先が残した遺産

 スペインには、有史以前の、人類の祖先が残した世界遺産も多い。著名なのは、スペイン北部のカンタブリア州にある、世界文化遺産アルタミラ洞窟の壁画で、登録は1985年で、その後、拡張・改称されている。(アルタミラ洞窟 - Wikipedia

18000年~10000年程前、先人の住んだ洞窟内に、野牛、イノシシ、ウマなどの、動物の絵が、生き生きと描かれていると言われ、130年も前に発見されたという。 

    

            アルタミラ洞窟の壁画 (野牛?)                     洞窟内の見物風景 

 更に、地中海に面する地域には、世界文化遺産「イベリア半島の地中海沿岸の岩絵」がある。紀元前8000~3500年ごろに、岸壁に描かれた絵のようだ。カタロニア州、バレンシア州などの、6つの州にまたがる、広大な地域にある岩絵は、700地点以上と言われる。登録されたのは、1998年である。(イベリア半島の地中海沿岸の岩絵 - Wikipedia) 

   岩絵がある地域の広がり

 この地域の岩絵と、世界遺産に登録されている、他の案件の岩絵と比較すると、描かれている図像の小さいことが特徴で、狩猟採集社会から農耕社会への過渡的な時期に描かれた貴重な証言である、とされているようだ。

 その中にある下図は、バレンシア州の、アラーニャ洞窟にある岩絵のようで、左は鹿の様な動物が描かれた絵だ。 右は、女性が蜂蜜を集めている様子が描かれていて、この地域は今も養蜂業が盛んと言う。(NHK世界遺産 | 世界遺産ライブラリー  [イベリア半島地中海沿岸の岩絵])(スペイン・アラーニャ洞窟の岩絵|ミツバチと共に90年♪ 鈴木養蜂場 はちみつ家のブログ

   

       動物(鹿のよう)            蜂蜜 集め  

 これらと同様の先史時代の岩絵が、北欧(ノルウエー、スエーデン)や、南欧(ポルトガル、イタリア)や、サハラ(リビア)等でも、発見されているようだ。 

 又、カスティーリャ・イ・レオン州の世界文化遺産「アタプエルカの考古遺跡」(2000年登録)の洞窟からは、数十万年程前の、人類の祖先の人骨が沢山掘り出されていると言う。

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