2012年12月21日(金) 奥山を訪ねてーー御巣鷹の尾根
今回の、奥山を巡るドライブ旅行については、
奥山を訪ねてー食の話題 (2012/12/14)
奥山を訪ねてー三峰神社へ(2012/12/18)
と、記事を載せて来たが、今回は、日航機の墜落事故があった、群馬・埼玉・長野の県境近くに位置する、御巣鷹の尾根への慰霊登山について触れたい。
今から27年前の、1985年(昭和60年)8月12日(月)夕刻に起こった、日航ジャンボ機の墜落事故は、現時点でも、世界の航空機史上、最悪の事故と言われ、524名の乗員乗客のうち、520名もの人命が失われ、生存者はたったの4名と言う、凄まじい事故である。
東京羽田空港を発った、大阪伊丹空港行きの、JAL123便が、途中で故障し、引き返したものの制御不能に陥り、かなりの時間、ダッチロールの迷走の末に、群馬県の御巣鷹の尾根に墜落した。
事故原因は、事故の数年前に、米ボーイング社で修理した圧力隔壁の不備から、機体の後部での破損が広がり、途中で垂直尾翼が海上に落下するなどして、操縦が不可能になった、などと推定されているようだが、真相ははっきりしていないようだ。
例年、事故のあった命日の頃になると、遺族や関係者による、慰霊の登山が行われていて、ニュースでも報道されている。
今回の旅行の最初の日に、その、御巣鷹の尾根に登ることとなった。
登山を思い立ったのは、実は、同行者の中に、事故当時、JALの現役パイロットだった者がおり、彼の要望もあり、登ることとなったものである。
彼は、国際路線や、国内各地に飛んでいたのだが、場合によっては、スケジュールの関係で、あの日航機の操縦をしていた可能性もあったという。
JAL関係者による慰霊の登山は、何度も行われているが、彼は、たまたま、それに参加する機会が無く、今回になったようだ。
この事故は、自分に関しても、必ずしも、無縁とは言えない。なぜなら、当時、職場が、関西に転勤となり、単身赴任していたのだが、たまたま、伊丹空港へは、歩いて10分位の近くにある単身者寮に世話になっていた。
そんなことから、仕事上や、家族が住んでいる、東京との往来で、飛行機を利用する事もあり、あの便に乗っている可能性もあったのである。
登山道の入り口近くの駐車場に車を預けて、登山がはじまった。表示によれば、入口から目的地までの高低差は、180m位のようで、歩く距離は、800m程になると言う。当初の登山道は、2.2kmもあったものが、遺族の皆さんの高齢化もあり、林道を使うなどして、現在のように短縮されたようだ。
登山道案内図 行程(拡大)
登山は、5人でスタート。 山道の傾斜は、それ程きつくはないのだが、でも、途中で、2人が、ギブアップしてしまい、最後は、3人だけで登ることとなった。自分は、腰痛のため、普段も思うようには歩けないのだが、我が心を鼓舞しながら、マイペースで、ゆっくりと登った。
途中、クマ除けだろうか、鐘と金槌が置いてあるので、力を入れて鐘を打ち鳴らしたら、カーン、カーンという澄んだ音色が、谷合いに響いた。
漸くにして、目的地の尾根が近くなってきたが、この辺りが墜落現場だろうか、数字とアルファベットが書かれた、白い立て札が、あたりに現れた。遺体を収容した場所を示していると思われる。
山中なので方角ははっきりしないが、下方の沢の近くから、頂上にかけて、無数の立て札である。 山腹のこの斜面に、機体が突っ込んで墜落炎上し、機体と遺体が飛散したのだろうか。
遺体収容場所
少し急な斜面を登りきったところが、やや平らな尾根になっている。正確には、高天原山(たかまがはらやま)の尾根のようだが、一般には、「御巣鷹の尾根」と呼ばれており、そこに、「招魂の碑」が建っている。
元パイロットである仲間は、ちゃんと、線香の束も用意して来ていて、3人で交代しながら、碑の前で、焼香し、手を合わせて、亡くなった人たちの慰霊を行った。
昇魂之碑
招魂之碑の近くに、メッセージカードが沢山飾られていたが、自分たちが登ったその日に書かれたものがあった。先刻、登って来る途中で、反対の山道を、1人降りて来る人に会ったが、あの人が書いたものだろうか。
誠に非礼を承知で、引用させて頂くと、カードには、
“もう二度と事故がないように祈ります。安らかにお眠りください。”
とあったが、何らかの事情のあるこの人は、この日、登って参拝されたのであろう。
翌日は、同じ上野村内にある、「慰霊の園」も訪れた。 現代的な、モダンな慰霊碑が建っている。 祈りを象徴する、二つの鋭角のモニュメントが、限りなく天空に向かっていて、彼方の、御巣鷹の尾根に続いているのであろう。
事故発生から現在まで、上野村では 当時の黒沢村長はじめとして、村を挙げて、支援を行って来ているようだ。 村にとっては、全く想定外の降って湧いた出来事なのだが、これまでも、これからも、その御苦労は、並大抵のものではないだろう。
慰霊の園のモニュメント
締めくくりとして、以下に、2、3の所感を述べることとしたい。
○この事故は、肉親を失うなどした、事故の当事者にしてみれば、決して忘れる事が出来ないものだろうが、自分も含めた、一般人からすれば、次第に記憶も薄れていくのは、止むを得ないことだ。どんな大事故、大事件でも、時間的に、風化していくことは、避けられないようだ。
JAL機の大事故は、勿論、まだまだ記憶にはあるのだが、今回、友人たちと、事故現場に行かなかったなら、改めて、思い出す事も無かったかも知れない。
今回の登山で、事故の恐ろしさを再認識させられたが、足腰が思うに任せない我が身が登ったことで、高齢の遺族の皆さんの登山の大変さに、思いを馳せた次第である。
自分としては、単なる興味本位ではないものの、事故現場に登り、慰霊碑に参拝しただけなのだが、貴重な体験であったのは間違いない。 何かしら、大事なことを済ませたような感慨を味わったのは、何故だろうか。
○事故後しばらくは、航空機事故の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたことで、国内外で、航空機利用の乗客数が激減した。でも時間が経つにつれて、次第に忘れられて、乗客数も回復している。
今や、日本でも、格安航空LCC路線の登場で、運賃も大幅に安くなっているのだが、果たして安全性は大丈夫なのだろうか。
LCCでは、就航させる航空機数を極力減らし、回転率を上げる事が必要なことから、運行スケジュールに余裕が無く、一寸したトラブルや遅れがあると、次々と、後続の便に影響し、定時発着が難しくなるようだ。
先日も、TV番組で報道されていたが、時間通りに発着しているか否かの、定時運行率でみると、通常の便に比べて、格安航空の場合は、かなり低いようだ。
このような運行上のやり繰りや無理が、整備不良になり、いずれ、大きな事故に繋がってしまうようなことが、絶対にないように、と願うばかりである。
○通常、大きな事故や災害が起きると、天災か人災か、が話題となる。直近の東日本大震災では、地震や津波による被害や、原発事故の被害は、どこまでが天災で、どこからが人災かは、議論のある所だが、ここでは触れることは控えたい。
では、この、JAL機事故はどうか。
気象条件の急変等の、天災的な要因は見当たらないが、然らば、機体の整備修理や操縦法等で、どのような、人災的な問題があったのだろうか。そもそも、予め、事故を防ぐ手立てはあったのだろうか。
事故後の原因究明や調査分析により、航空機の整備や、機体の設計上で、どのような問題が見つかり、次に向けての、どのような新たな知見が得られたのだろうか。
事故原因については、責任問題や補償が絡むこともあり、簡単には言えないことから、事故調査報告書も、歯切れが悪いのだが、人事を尽くした上での、不可抗力的な要因で事故が起こった、ということではあるまい。
○一方、事故後の対応については、どんな反省と教訓が得られたのだろうか。
事故機の墜落位置を、もっと短時間に把握して、機体を発見出来なかったのだろうか。人命救出活動は時間との勝負になる。
深い山中での救出活動には、幾多の困難が伴うが、それを解決する手段の一つである通信はどうだったであろうか。
以前、これに関わっていた一人として、気になる所であるが、事故当時は、無線を使った電話システムは、まだ開発途上にあり、通信手段は、十分ではなかったのだ。
現在は、衛星を使った特設公衆電話や、衛星電話等もあり、昨年の大震災では、多いに活用された所だ。
ナショナルフラッグキャリアとしての日本航空が、数年前に経営不振に陥った事態は、この大惨事とは無縁ではないと思われるが、再建策が効を奏して、なんとか立ち直れたのは、嬉しい限りである。