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つれづれの記

日々の生活での印象

原発の立地と周辺地域

2013年01月31日 14時29分12秒 | 日記

2013年1月31日(木) 原発の立地と周辺地域

 

 

  先日の1.17の阪神淡路大震災の記念日を機に、思いを新たにしたところだが、3.11の東日本大震災から、もうじき、2年になる。 被災地の復旧・復興が思うように進んでいない中で、最も、重たい原発事故に関するニュースが、この所、かなり小さくなっており、原発事故はどこへ行ったのだろうか? と、大いに、気になっているところだ。

このブログで、原発や原発事故について取り上げるのも久しぶりだが、最近の幾つかの話題について、2回に分けて触れることとしたい。

 

 

○原発の立地と活断層

 

  昨年の7月以降、国内で唯一、関西電力の大飯原発3、4号機の2機が再稼働したのだが、これに関連して、敷地内の断層が大きな話題となっている。原子炉が、現在稼働中だけに、ことは重大である。 

原発の施設の中で、とりわけ原子炉や重要施設は、安全上、活断層の上には建設しない、となっている、と言われるが、それが、現時点で改めて問題となっているのだ。

 

  大飯原発敷地内の原子炉と断層の状況は、下図のようになっているという(ネット画像より)。 中央の赤線で示されている、F-6破砕帯が活断層か否か、が問題の様だ。

3、4号炉に、冷却用海水を送る重要施設である、「非常用取水路」が、この断層の真上を通っているという。

 

  大飯原発が建設され、最初に1、2号機が竣工したのは、1979年という。その後、3,4号機が増設され、それぞれ、1991年、1993年に竣工していて、比較的、新しいものなのだ。

 

 先日の1月16日には、原子力規制委員会の、活断層に関する調査団の評価会合があり、活断層か否かで意見が対立して、結論を持ち越したという。

今後は、この2月中旬に、事業者である関電から報告書が出されるようだが、結論が出る時期は不透明という。

 

 原発建設後に、周辺で、大きな地震等があった(中越沖地震での柏崎刈羽原発など)、というのであれば、改めて問題にする事もあろうが、大飯原発では、そのような事実はなかったようなので、地盤の状況は、建設当時から変化していない、ということだろう。それなのに、今、問題になるのは何故か。

 

 ・理由の一つは、地盤の状況は変わっていないのだが、地質等の学術的な調査研究が進み、危険性の見方や想定が、当時と現在とでは変わって来ている、と言うことが考えられる。 又、福島第一原発の事故で、施設の安全性に対する考え方が、より厳しくなったともいえよう。 

 ・もう一つは、敷地内の地盤状況について、建設当時から、専門家や関係者の間に、意見の相違があったのだが、国や事業者側の主張に押し切られた、と言うことが考えられる。

 会社側の主張を支持した(反対しなかった)専門家は、汚い言い方をすれば、御用学者になる訳だ。このような経過が、原発事故を契機に蒸し返された、と言うことがあろう。

 これまで、政府や事業者のデータや主張に、積極的に、事実を隠ぺいしたり、誤魔化しがあった、とは思いたくはないが、多少、良い方向に解釈してきた、ということはあるだろうか。

 

 原発立地での、地盤の安全性に関する、この種の、根っことなる事案では、専門家の立場からすれば、100%大丈夫と言うことは、どんな場合でも言い切るのは困難で、あるレベルで、危険性(リスク)があることは当然のことで、それを承知の上で、許容されて来たということだろう。この場合、リスクの程度を定量化するのは、困難だろう。

 ましてや、現在の様な世上の注目の中で、改めて実地に調査したとしても、“活断層ではない”と言い切るのは、極めて難しいだろう。専門家でも、言質を取られたくはないだろうから、どうしても、フェールセーフになり、純粋に、学術的な見地だけから、安全性を肯定するのは不可能ではないか。

 本件を扱う会議の、まとめ役である、規制委員会の島崎委員長代理の立場には、同情を禁じ得ない。どのような結論になるのか、はよくは分からないが、国や事業者側と、住民や国民一般側とでは、かなりの隔たりがある訳で、間に立つ専門家集団の皆さんの苦悩が、思いやられるところだ。

 

 総論的に言えば、地震国である日本国内では、活断層が関係しない土地を探し、理想的な原発立地とするのは不可能に近い、と言うことだろうか。

原発銀座とも言われる福井県若狭湾での、各原発の立地位置と活断層を示したものが、ネットに多く出ており、その一つが下図だ。

 

  大飯原発と同様に、現在停止中だが、同じ若狭湾の敦賀原発も問題になっており、これに関しては、今月29日の有識者会合で、報告書案が纏まった、とのニュースがあった。こちらは、意見の対立が見られず、無難に、“活断層である可能性が高い”となっているという。他にも、下北半島の東通原発でも、活断層ではないか、との疑問が出ているようだ。

既設原発での活断層関連の安全性については、組織的に、再チェックする必要があろう。

 

 

 そもそも、「活断層」とは何だろうか? 類似の呼称で、火山には

     活火山、休火山、死火山

とあり、自分でも、一応、理解できているのだが、断層についても、同様の区別があり、活断層でない断層もあるのだろうか。

「破砕帯」という言葉は、活断層と同義語と思われる。また、「地滑り」という言葉もあり、これは、活断層よりも、安全性は高い、ようだ。

 

 原発立地の時に考慮すべき活断層だが、その定義に関して、従来は、

      13万~12万年前以降

に、地盤の動きが無い事、とされて来たようだ。

今回の地質調査のTV映像でも、9万5000年前に地盤が移動した跡、などと出て来ている。

 

 これが、規制委員会の1/29の会合では、これを

      40万年前以降

こ変更することが了承されたと言う。40万年前以降、地盤の動きが無い事、と言うことで、従来よりも、更に厳しい立地条件となる訳だ。

 この変更により、従来の定義では問題ではなかった、

     柏崎刈羽原発、泊原発

などが、新たに問題となる可能性があるようだ。 今後の、既設原発の再稼働や、新設に当たっては、この基準が適用される、という。

 

 所で、過去の地盤のズレは、どんな意味を持つのだろうか。一旦、ズレた所が、再びズレる、と考えるのは何故か、素人なりに推測して見た。

 地下のマグマの動きの経路等は、ほぼ決まっていて、このことから、地表近くの同じ様な場所で、恒常的に、地盤の歪は起こっている、と考えれば、地盤の中に歪のエネルギーが次第に貯まり、貯まったエネルギーが、大きな地盤のズレとなって、ある周期で放出される(地震)、と言えるだろうか。こう考えれば、同じ様な場所で、再び、大きなズレが起こる可能性が高い、と言えるのだろう。

しかし、一方で、新たな場所に、断層が出来る可能性は、最早、無いのだろうか。

 

 以前、当ブログの記事で 

     オンカロ建設の驚き (2012/7/15) 

として、フィンランドでの、放射性廃棄物の永久保存施設「オンカロ」について、触れたことがある。あの地域(ユーラロキ)は、過去10万年前以降、地盤が安定していると言われたことにも驚いたのだが、それに比べれば、今回の40万年前以降、というのは、大変な数字である。

 

 原発をどうするかは、我が国にとって大きな課題なのだが、将来のエネルギーの展望から言って、今後は、大飯原発以外の再稼働も、新設も行わないと言うのは、考えられないことで、少なくとも、現存する原発を、如何に安全に運転していくか、は重要な課題である。

前述のように、活断層の見方が一層厳しくなる中で、今後の原発の方向は、どうなるのだろうか。

 

 戦後になって、地震国日本でも、超高層ビルを実現したように、たとえ活断層があっても、安全性が確保できるような原子炉施設は作れないものだろうか。  

 

 

○原発事故の避難計画

 

 福島第一原発事故の教訓を踏まえ、万が一、原発で重大事故が発生した場合の周辺住民の避難が問題になっている。

これまでは、原発から、半径10km圏内が、避難対象となっていたが、福島第一原発事故の経験から、これでは、全く不十分で、それを、30kmまで、拡大することとなった。 

 

 これを受けて、各自治体では、この3月までに、自主的に、避難計画を作成することとなっているのだが、先日1/26のNHKニュースでは、原発の30km圏内に自治体がある、対象となる道府県は、19のようだが、避難計画の策定状況は 

     具体的に避難先を指定  6県

     市町村名まで指定     2道県

     まだ決めず         11府県

の様で、余り進んでいないようだ。避難対象者が多い地域では、福島の例から分かるように、住民を避難させる場所や交通手段、必要となる資材等を確保するのは並大抵のことではない。こんな中で、国内最大数の13基もの原発が建設されている福井県が、具体的に避難先を指定している、と言うのは、流石である。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130126/k10015080951000.html

 

 そして、具体的に避難先まで指定している島根県が、つい先日、島根原発の周辺での事故を想定して、実際の避難訓練を行った、と言うニュースがあったが、敬意を表したい。 

重大な原発事故は、想定したくはないのだが、万全の備えが、安全の基本だろう。

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共感ということ 2

2013年01月27日 10時42分42秒 | 日記

2013年1月27日 (日) 共感ということ 2

 

 

先日、本ブログに 

     共感ということ 1 (2013/1/23)

を投稿したが、今回は、その続編である。 

 

A 足湯サービスのボランティア活動

 先日の阪神淡路大震災記念日である1.17関連のTV番組として、足湯サービスのボランティア活動が、紹介されたのが、強く印象に残っている。

 この足湯サービスのボランティア活動は、阪神淡路大震災が切っ掛けで始まったようで、今回の東日本大震災では、各地の被災地で、仮設住宅の住民等を対象に、複数の団体により、組織的な活動が展開され、現在も、継続している団体もあるようだ。

プロジェクト詳細[ROADプロジェクト 足湯ボランティア]-東北1000プロジェクト

 

 風呂には入れなくとも、せめて足湯だけでも、ということで、ボランティアの皆さんが、身体を触れあいながら、心を込めて接してくれることで、サービスを受ける被災者の皆さんも、暖まってほっとするようだ。

 足湯しながら、話し相手になり、話を聞いてあげる事が、又、いいようで、話す側からすれば、聴いてもらったことで、気持ちが楽になり、安らぐという。

その中から、被災者の本音や悩みや、要望も出て来ることもあるようで、これを、「つぶやきカード」に記録し、ボランティア間で情報を共有し、必要なアクションにつなげていくと言う。

                

 

  足湯サービスを提供している、前記とは別の団体のサイトにある以下の言葉は、印象的である。(東日本大震災 支援リポート  大震災 足湯リポート) 

“それだけで被災者は被災当時のこと、亡くした大事なものの思い出、今の生活の辛さ、今後の不安などをポツリポツリ話し始めます。
「仮設住宅への移住は1人でさみしい」
「家族4人の衣類を洗うのに遠くのコインランドリーや知り合いの家で洗うしかない」
――(中略)―――――
こうした声にボランティアは一生懸命耳を傾けます。
私たちは、ただ、ただ、聞くことしかできません。
「うん、うん。」
と聞き続けます。
――(中略)―――                                                                            こうした声を聞き、寄り添い続けることがボランティア活動そのものだと思っています。”


と言うのが素晴らしい。聴いてあげることが、ボランティア活動そのものだ、という、謙虚な姿勢に、敬意を表したい。 

 

この活動には、まさに、足湯サービスを通して、被災者とボランティア間に醸し出される、共感がある、といえるだろう。 

 足湯そのものは、我が国の長年に亘る伝統として、通常でも、各地で行われている訳で、自分もこれまで何度か体験しており、以下のブログ記事でも触れている。

   足湯三昧   (2010/3/17)

  移動式で、足湯サービスを提供すること自体は、そんなには難しくなく出来るだろうが、加えて、優しく話を聞いてあげることは、そう簡単に出来ることではないだろう。

ボランティアの皆さんは、現地までの交通費や滞在費は勿論だが、足湯サービス隊に参加するのに必要な、3000円の参加費も払っている、と言う。 

  第三者として論評する積りはないが、このような活動が、今も続けられている、と言う事実は、日本にも、このような精神が存在しているという素晴らしさであり、希望でもある。

 

B 自己と他者との関係

 人間の、精神的、心理的な側面については、以前、授業等で習ったこともある、ギリシャ哲学や古代中国の孔子・孟子の時代から、論じられて来ており、現代では、心理学等の精神科学として体系づけられているが、人体の生理的な側面に関する自然科学(医学・薬学など)の様には、明快には出来ないようだ。

 人それぞれに自我があり、感情をもっていることから、心の動きは複雑であり、一筋縄ではいかない所が、人間社会の面白さでもあろう。逆の言い方をすれば、人と人との関わりに関する、感情の動きや行動パターンが、全て、科学として説明されてしまったら、人間社会は終わってしまう、とも言えようか。

 

 ここで、自己と他者との関係や対話について、素人の常識的なレベルで考えて見ると、以下の、イ、ロ、ハ、ニ のケースになるだろうか。

 

イ 人間、先ず、己の存在を自覚し、自我が確立していることが基本になるだろう。でも、このこと自体は、哲学的、心理学的な、かなり難解な概念で、ここで論ずることは、パスしたい。 

ロ 次に、社会生活を営む中で、誰でも、周囲に対して、己の欲求や意見や、気持ち等を、表出したり述べたりするが、これは、動物にも共通するもので、生存のための本能に、かなり近いと言えるものだろう。人間誰しも、己の存在を示し、PRしたいのだ。

このことは、己の精神状態をアウトプットする、最も分かりやすい行動であろう。 でも、これについても、ここでは、改めて触れることはしない。 

ハ そして、次に、他者のアウトプットである意見や話を聴き、表情等を観て取って、他者の気持ちを推し量ることがあろう。 動物には無い、かなり人間らしい心の動きであろう。このことは、聴く側からすれば、精神状態のインプットといえようか。このケースでの心の動きを論ずるのが、本稿の主題である。 

ニ 更には、他者のアウトプットを、自己にインプットすることにより、自分としてどのように判断し、行動するかがあり、ここから、対話は生まれてこよう。

でも、これに関しても、ここでは触れずに、以下は、主題の ハに戻ることとしたい。

 

○ここで、言葉を明確にしたい。

・聞くは、聞こえる、聞こえて来る、で生理的な耳の感覚と言え、英語では、hearだろうか。

 一方、聴くは、積極的に耳を傾ける、心を込めて聴くことだ。英語では、listenだろう。

 本稿では、勿論、後者である。

 

・又、見るは、見えるで、英語では、see だろうか。

 これに対し、観るは、心を込めて見る、注意して見る、で英語では、observe になるだろうか。

 これについても、本稿では、後者である。

 

○言うまでも無く、自己と他者は、個体としては異なり、己にも自我があるので、他者の気持ちや感情になりきることは出来ない訳だし、同じ立場に立てる訳はないのだが、どこまで近づけるかが、勝負である。 

人の話をじっと聴いたり、聴いてあげたり、落ち着いて、様子や表情を観察することは、大抵の人にとっては得意なものではなく、実行は生易しいことではないだろう。

 これらの場合、相手になり切ろうとする、相手の立場になって感じとろうとすることが重要と思われるが、これも、中々難しいことだ。

特に、多少なりとも、相手との関係が、自分の生活や利害に絡む場合は、十分に話を聴いたり、観察する前に、ついつい、自分の意見を指し挟んだり、価値判断を言いたくなるからだ。

相手の感情に関して、頭では理解できても、同じ様に、心で感じることは、難しい面もある。

 

C 共感の成立と、成立するための条件

○共感が成立しているとは、どのような精神状態を言うのだろうか。

 共感は、自分と相手との、双方向の心の通い合いと言え、共感する心の動きは、人間が人間たる由縁であることの、極めて重要な要素と考えられる。 

 共感には、共感度とでもいえるような、程度・深さがあると考えられる。 この共感度は、次項に述べるような、共感が成立するための幾つかの条件は、ケースバイケースで、異なることから、この違いから、共感度は異なって来ると考えられる。

 

○共感が成立するための条件とは、以下の様なものだろうか。

・何と言っても、相手の人格に対する尊敬の気持ちや、相手を大切に思う愛情が基本だろう。

・そして、まず、悩みなどを聴くことから始まるだろうが、この場合、先入観を持たずに、自分を無にし、真っ白にして聴くことが重要と考えられ、禅の無我の境地に近いものだろうか。

・話を聴きながら、深い共感を覚えるには、自分自身も、同じ様な状況を体験している事も、極めて重要だろう。体験なしで、共感することは凡人には難しいだろう。

体験と言っても、直接の体験だけでなく、読書、観劇、見聞、などの疑似体験も含まれるだろう。

・聴きながら、相槌は打ちながらも、自分の感情を抑制して、言いたい事を我慢する忍耐や寛容さも、作法として大事だろうか。

 

○共感する力、共感力は、個人差はあるものの、人間、誰しも持っているものであり、社会生活を営む上での美徳の一つと言えるであろう。最高の美徳と言えるかもしれない。

この力は、生まれつき備わった能力であろうか。それとも、トレーニングや、経験を積むことで、向上させることも出来るものだろうか。

 

 

 長文になるのを避けるために、本稿は、ここまでとし、次稿では、用語の再整理と、共感を、職業として、或いは、ボランティアとしてこなしている人達について取り上げたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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共感ということ 1

2013年01月23日 22時34分39秒 | 日記

2013年1月23日 (水) 共感ということ 1

 

 

 1月17日夜のNHKテレビ番組、クローズアップ現代で、木下恵介氏について、共感力の映画監督として、氏の作品や、仕事ぶりや生き様などが、脚本家の山田太一氏を交えて紹介された。

 番組では、数多くある作品の中から、

    ・二十四の瞳

    ・喜びも悲しみも幾年月

    ・陸軍

など、幾つかが紹介された。

 氏の作品には、田中絹代や高峰秀子が良く登場するが、彼女達を通して、“弱く、美しき者たち”である庶民の、慎ましい生き方を見つめ続けた、監督の眼差しがあると言い、それは、「同情」や「憐れみ」ではなく、「共感」「共感力」だ、との指摘には、かなり、新鮮な驚きを味わった。 共感? なる程! といった感じである。

 自分が、観たことがある映画は、上記の最初の2本位で、しかも、映画館ではなく、TVの名作映画劇場で、などだが、番組で言われたような、監督の視線が感じられる印象であったろうか。

 又、上記の映画「陸軍」の紹介では、行進しながら戦地に赴く息子を、人混みを分け、走りながら見送る母親の、シリアスな姿が映し出されたのだが、このような場面は、製作を依頼した軍からは、反戦の映画だ、と批判されたと言う。

今年度の欧州の映画祭で、氏の作品が、再評価されていると言うのも、この辺に理由があるようだ。

 

この番組が切っ掛けとなって、よく使っている「共感」と言う言葉や、その心の動きについて、改めて調べ、少しく考察してみることとした。 素人の悪い癖から、深みに嵌ってしまうことが無いように注意しながらーー。

 

 いつもの伝で、国語辞典を引いて見ると、手許にある、例の広辞苑第1版では、

    きょうかん 共感 sympathy   他人と感情をともにすること、または、その感情

とある。一方、ネットの、Wikipediaでは、

    共感 英 empathy     他者と喜怒哀楽の感情を共有すること、もしくは、その感情

とある。sympathy は良く出て来るので知っているが、empathy という言葉があることを知ったのは、初めてである。

動詞としては、共感する、共感をよぶ、共感を覚える、等と使われる。

 

 又、ネットの、はてなキーワードでは

    共感    他人の体験したこと感じていることを、自分自身も同じ様に感じたり理解しようとすること。同感

とある。

 

 そして、ネットの、日本語WordNet(類語)では、以下の様に、3通りの意味(意義素)に分けて示してある。(共感の同義語 - 類語辞典(シソーラス)

共感

意義素

類語

他の人と気持ち(特に悲しみまたは苦悩を分かち合うこと

共鳴り共鳴シンパシー ・ 同感

 

人々の間親近感または調和の関係

同調共鳴シンパシー同感意気投合以心伝心

意見を支持する意見忠実である、または意見に同意する傾向

弔意同情弔慰了解思遣り同調共鳴思い遣理解シンパシー思い遣り思遣理解力同感

意気投合領解同情心思いやり

 

 表で、3つに分けられている意義素のカテゴリーそれぞれを、仮に、①、②、③と呼ぶ事にする。 これを、大雑把に、感性と理性との関係でみると、上の①は感性の要素が大きく、②、③と下に行くほど、理性の要素が大きくなる、と言えようか。

上表では、それぞれに対応する、類語が示されているので、より理解しやすいようになっているのだが、自分の理解とやや異なる類語もあり、却って、混乱する面もある。 

 

 

 同じサイトにある、Weblio類語辞典には、

共感

意義

類語

思うこと考えていることを共有すること

意思疎通 ・ 共感 ・ シンパシーコミュニケーション


とあり、これは、②、③と、ほぼ同義と言えるが、コミュニケーションという言葉も登場していることで、仮に、④の意義素としよう。

 

 「共感力」というタイトルの付いた単行本もあるようだ。この本は、見てはいないが、社会生活や、職場での、人間関係の在り方などを説いたものの様で、②、③、④の範疇に相当する、HOW-TO物と言えるだろうか。機会があったら、読んでみたいものだ。

 

  単行本 共感力

 

 

 表には出ていない他の言葉として、

      可哀そう 気の毒 気遣い 気配り 情け深い 情けをかける

      憐れむ(み) 労わる(り) やさしい(さ) 

などもある。

 

 先の意義素の表に出て来る、「同情」、「同感」は、本来は、

      情(感)を同じくする

と言うことで、共感と同じと言え、広辞苑にも

      同情:他人の感情・苦悩をその身になって共に感じること

      同感:同じ様に感じること おなじ考え

と、出ている。

でも、最近の語感としては、TVでも言われたように、同情や憐れみ は、同じ対等な視線ではなく、上から見下しているような印象もあり、片方向的であろうか。

共感は、同じ高さの視線で、双方向的なものであろう。

又、同感は、現在は、感情よりも同じ考え の方に近く、共感とはやや異なるようだ。

 

 又、以前,漢文で習った言葉についても、広辞苑で調べて見ると

      憐憫(れんびん)の情: あわれむこと なさけをかけること

      惻隠(そくいん)の情: いたわしくおもうこと あわれみ

と出ている。これらの、同情や共感との異同については、これ以上の詮索は止めよう。

 

 次稿では、主として、最も根っこにあると考えられる①について、一部は、②について、取り上げることとしたい。

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今年の初雪

2013年01月17日 23時28分37秒 | 日記

2013年1月17日(木) 今年の初雪 

 

 今年は元日から、好天が続いたのだが、先日の14日の成人の日は、朝方は曇っていて、10時頃から、大きな雪が降り出し、瞬く間に、ルーフバルコニーは、雪化粧である。

   

この程度の雪だが、都内の交通網は大混乱したのは、言うまでも無い。 

 前日夜の天気予報では、都心での降雪の可能性は言われていたが、急速に発達した爆弾低気圧(bomb cyclone)となるとは、流石の気象予報士のプロたちも、想定外だったようだ。

 身辺での影響としては、当日夜に予定されていた地域の集まりが、雪で、急遽中止された位である。

 

 翌朝は嘘の様な好天で、ルーフバルコニーの雪も、鉢や棚の上に、デンと、落ち着いている。 草花達は、暫しの我慢だ。

  

 

 一方、リビングの外のベランダを見ると、向こうに見える近隣の建物の屋根も、真っ白である。先月から、ベランダで開花しているアロエの赤い花が、見事で、白い屋根の雪が、花達の絶好の背景となったようだ。  

   今年の雪とアロエ

 

昨年の1月末にも、東京に積雪があったが、同じ様な光景の写真を下に示す。

   昨年の雪とアロエ

 

 2つをよく見比べると、今年はアロエの花が、例年より1本多く、4本も咲いて、雪景色を彩ってくれているのが判る。

花が開花中は、小鳥たちがやって来て、花茎に捉まりながら、下からくちばしを入れて、上手に蜜を舐める。

 

 東京の生活者にしてみれば、偶の雪は大問題なのだが、北国の、常雪地帯に住む人達は、雪の中で、平然と生活を営んでいる訳だ。

彼らにしてみれば、この程度の雪で、大騒ぎしている光景を、TV等で見た時

      “気の毒なことだ、大変だろうな”

とは、思わないだろう。多少、言葉は汚いが

      “俺達の苦労が少しは分ったか? ざまあ見ろ!”

といった気分だろうか(元雪国育ちの、独り言)。

 

 この10日に、有楽町に出たら、駅近くの広場で、週末の連休に向けて、秋田からトラック5台?で運んで来たという雪で、都民をびっくりさせようと、かまくら や、稲荷神社等を、せっせと、製作中だったのが、思い出される。

連休最後の日の、本物の積雪で、イベント会場は、果たしてどうなったかな? 

   かまくら になる予定のドーム  

 

 冬は、寒く雪が降り、その中で、活動し生活するのが当たり前なのだ。水分補給を兼ねた久しぶりの雪は、自然の大きさと、四季の移り変わりの素晴らしさを教えてくれる、ハプニングではあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年の正月

2013年01月12日 23時48分07秒 | 日記

2013年1月12日(土) 今年の正月

 

 

 昨年暮れの12月に総選挙があり、政権が交代し、慌ただしい中に、2013年(平成25年)の新年を迎えたが、早くも10日以上も過ぎ、世の中は、大きく動き出している。

日本だけでなく、米、韓、朝、中など、近隣諸国のトップが交代することで、変化の多い一年になりそうだ。

 日本では、景気の低迷からの脱却、震災からの復興と原発事故の後処理、エネルギー問題などなどの、重い課題も多い中で、2020年のオリンピック開催都市の行方、富士山の世界文化遺産登録や、先日の日曜から始まった、新たなNHK大河ドラマ「八重の桜」など、期待が膨らむ話題もある。

 この正月は、遠くの孫は来なかったので、比較的静かな正月であった。今年は、結婚50年の金婚という節目の年でもあり、何かやらにゃ、と思案中である。

 

 先日の七草で、松の内も終わりで、昨日は鏡開きと、瞬く間に過ぎて行った今年の正月風景について、簡単に纏めて見た。

 

 7日朝には、恒例の七草粥だったが、以前には、スーパーで七草粥セットを買い求めて作ったことも多く、以下のブログ記事でも、やや詳しく触れているが、

        七草がゆ   (2011/1/7)

最近は、自宅の庭や台所などの、手許に在る食材で間に合わせることが多く、今年も同様である。

 

 七草の中のセリは、この正月は、雑煮に入れて、沢山食べたのだが、生憎切れてしまったので、庭に生えている、ミツバになった。

ナズナ、オギョウは、ともに無いので、代わりに、台所のホウレンソウと、たまたま、種がこぼれて自生している、コマツナになった。

ハコベは、唯一、屋上庭園で自生している野草だ。弱弱しい感じだが、どっこい、しなやかに元気である。寒さに耐えているので、茎がやや硬い。以前の田舎では、飼っていたうさぎが、好んで食べたものだ。

     元気なハコベ

 ホトケノザの代わりには、秋に食べて株が残っている、スティックブロッコリーの花になった。

スズナのかぶと、スズシロの紅白2種の大根は、それぞれ、頂いた物や八百屋物など、台所にあるものを使った。

 おまけとして、関西の知人から送って貰った、細長い白菜の形をした、シャクシナも加えたので、正確には、八草になった。

 

 これらを入れて、炊くのだが、炊飯器には、粥の時の水加減の目盛りが表示されているので、至って簡単。柔らかで懐かしい粥が出来上がり、これを、シンプルに、梅干しで頂いた。

 七草粥には、正月中に、お節料理やアルコールで草臥れている胃袋を、休めるため、という説もあるようで、正月料理から解放されるような雰囲気もある、のは面白い。

 

 

 暮れには、正月向けの飾り付けを行った。恒例だが、今回も、関西の知人が、自宅の庭先の、

         松の枝、竹の枝、紅梅の枝

         紅、白の実の付いた南天の枝

を切り取って送ってくれた。これらをベースにして、近くの花屋で、

         赤いアンスリウム、赤、黄の実の付いた千両、黄菊と白菊、ユリ、スターチス

等を求め、傘立てを流用した花瓶に活けて飾った。

 日頃は、殺風景な玄関先だが、色合いや量感も良いようで、正月らしい賑やかさがあるのは、やはりいいものである。近日中に写真を知人に送る予定だ。

 この花材の余りを、風呂場にも活けたが、風呂場ギャラリーにしては、見事過ぎる飾りである。

         

     玄関先                      風呂場ギャラリー

花の他は、これも恒例だが、室内外の数か所の水廻りに、ささやかな輪飾りを結わえ付け、部屋の中には、かわいい、鏡餅も飾った。

  

         輪飾り                             鏡餅

 

 輪飾りは、先日、取り外し、供えの鏡餅も、今日、頂いた。最近の鏡餅は、実は、餅の形をした2段重ねの容器になっていて、中に、可愛い丸餅が、個別包装で入っているので、カビる心配がないので気楽である。

 

 

 年賀状を多くの方々から頂いたが、今年の12支は巳年とあって、愛らしい蛇君達が、主役である。

蛇と言えば、大抵の人は、気持ち悪く怖いと感じるだろうが、毒の無い大きな蛇を、恐る恐る首に巻いている子供達の風景が、TVに出て来たのは面白かった。 

以前住んでいた地域に、爬虫類の博士がいて、そこで飼っているワニや蛇を、怖さと好奇心半々で、地域の子供達と、見せてもらったものだ。

 又、大分以前のことだが、母の実家の田舎では、鶏小屋が、よく蛇に入られるので、瀬戸物の玉子を入れておいたものだ。小屋の中に入って、本物の玉子と間違えて飲みこんでしまった蛇が、金網の穴から出るに出られず、御用となった様子を見て、人知の凄さに感心したことを、鮮明に記憶している。

 

 12支は、地上等の身近な動物だが、なぜ12種類で、それぞれが、どのような理由で選ばれたのか、などについて、色んな話がある。

一方、近くの商店街周辺の路面に、星占いの星座の絵が、化粧タイルで描かれているのだが、最近、この星座が気になっている。

天空の星占いは、若い女性連には、人気のようだが、こちらも、なぜ、12なのか、なぜその星座が選ばれたのか、が気になり始めているところだ。

 星占いと、太陽や、月や、太陽系の惑星の運動が、どのように関連付けられているのだろうか。今年の、テーマの一つとして、その内、調べて見たいと思っている。

 

 

 ある人から頂いた年賀状は、大きなヒラメの釣果を、嬉しそうに持った写真入りである。ヒラメキの年にしたい、とあった。

自分は、この所は、釣りは全くやらないのだが、その写真を見て、魚の大きさに驚くとともに

          左ヒラメに、右カレイ

という諺を、連想した。もののついでに調べて見た。

 通常、魚は、泳いでいる状態で、左右に目があるのだが、海の底に暮らす仲間の、ヒラメやカレイは、いつの間にか、片方の目が傷つかないように、反対側に寄って行って、片側だけに集まってしまった様だ。

しかも、ヒラメとカレイとで、逆になっているという。目の付いた側を表にし、背びれを上にして、左右方向に置いて上から見ると、ヒラメは左向き、カレイは右向きになる。

 あるネット氏によれば、卵から孵化させて、稚魚を育てると、最初は垂直だった魚体が、だんだん傾きだし、それに応じて目の位置も移動していって、終には、背びれを越して、片側に集まる様子が、観察できるという。まさに、進化の妙と言うべきものだろう。(ヒラメとカレイの目の位置 )

 日本では、ヒラメとカレイは、一部の例外を除いて、上述の原則で、ほぼ100%区別できるようだが、世界的には、そうでないケースも多いようだ。

同様に紛らわしいものに、

        アヤメとカキツバタ

        ツバキとサザンカ

等もあるが、花を観賞する分には、どちらでもいいのだが、ヒラメとカレイとでは、そうはいかないようで、厄介だ。

最近では、以前に比べて、どちらも高級魚になっているため、滅多に御目にはかからないのだが、ヒラメの方が、カレイよりも、更に高級とされているようだ。

歯科医から見ると、ヒラメとカレイでは、歯の構造が全然違うようで、片や小魚等を食べ、片や海底の虫等を食べると言うのが、理由のようだ(左ヒラメに右カレイ?

この餌の違いが、味覚の違いを生んでいるようだ。

 

 タイに比べて、ヒラメとカレイは、姿形や味覚は、やや落ちるのだが、ヒラメとカレイの差異はどうか。区別するための諺がある程だから、姿形は似ている訳だが、味覚の違いは、どうなのだろう。江戸時代は、ヒラメよりも、カレイの方が、高級とされていたという話もある。又、現在は、タイ、ヒラメ、カレイ、三者の値段の違いはどうなのだろうか。

 

おめでたい席では、タイが最高で、手に入らない時は、ヒラメで代用するが、それも叶わない時は、カレイの出番となるという。

 日本料理では、このおめでたい席では、魚の頭の向きは、本人の左向き(正面からは右向き)とされているようで、タイは勿論で、ヒラメの場合は、問題はないのだが、カレイでは逆になってしまうというのが、大きな問題と言う。 

このために、信じられない話だが、頭が右になるカレイを出す時は、わざわざ、のしを付けたり、裏返して頭を左にして出して、南天の実を付けて無礼を詫びる、というのが正式なようで、中々面白い話だが、こんな理由で、高級か否かが決まる、と言うのは、頂けない。(ヒラメとカレイってどっちがおいしいの??高級なの、、、またどうして高級なんでしょ... - Yahoo!知恵袋

 

コメント (1)
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