つれづれの記

日々の生活での印象

タバコ その1 最近のタバコ事情

2010年03月30日 23時22分00秒 | 日記
3月30日(火)  タバコ その1 最近のタバコ事情


 先日、日本たばこ産業(JT)が、煙の出ない無煙たばこ「ゼロスタイル・ミント」を、この5月中旬に、先ず東京都限定で発売する、と発表した。漸く、今にして現れたか、という思いである。以前からあるマイルドセブンは、今は20本入りで300円のようだ。ゼロスタイルの値段は、用具本体とカートリッジ2本で300円、詰め替えカートリッジ4本で400円という。
 一方、昨年3月に公布されて話題を呼んだ、横浜市の「受動喫煙防止条例」が、いよいよ、この4月1日から施行されることになっている。原則禁煙の施設から、分煙が必要な施設など、幾つかに分けられており、一部の猶予期間はあるものの、地域にとっては、かなりのインパクトになるようだ。
 この春は、タバコを巡る環境が、さらに大きく変化しそうな状況にある。
 自分の場合、学生時代以来の長い喫煙の歴史と、又、何度かの禁煙体験を経て、既に止めて15年以上の年月が経過している。功罪相半ばするタバコであるが、他人事とは思えないものがあり、数回に分けて考察してみたい。先ずは、改めて知る、最近のタバコ事情である。
 日本語のたばこは、漢字では、煙草と書くが、元々は、tobaccoという外来語である。ひらがなの、たばこ、だと、紛らわしくなるので、文中では、タバコと、カタカナ表記にする。 

 タバコとは何か、と改めて考える時、マイナス面とプラス面とがある。
先ず、マイナス面だが、人体にとって有害という、健康被害に関するものだ。近くの行きつけの医院で、待合室に貼り出されている肺の写真などを見ると、吸わない時に比べて、タバコを吸うと肺がこんなにも汚くなるものか、と驚かされる。人体に対する喫煙の影響については、医学的には、現在、どのように言われているかは、良くは知らないが、肺癌の発症率のデータなどが、かなり高くなっていると思う。ましてや、未成年者や、妊婦等にとっては、タバコこに含まれる、タールやニコチンは、大きな悪影響を及ぼすだろう。 
 息子はタバコを吸うので、先日会った時に、色々、見せてもらい、話を聞いた。銘柄は、以前からあり、自分も吸ったマイルドセブンの、スーパーライトだった。タールの含有量は、以前の10ミリから8ミリとなり、現在は、6ミリグラムである。ニコチン含有量も、以前の0.8ミリから0.5ミリグラムに減少している。
 タバコのケースを改めて見て、警告だらけなのに驚いた。
  正面には、喫煙者の癌死亡率が、2~4倍高いと明記してある 
  裏面には、妊婦では、胎児の発育障害や、早産の危険性を警告している 
  側面には、マイルドセブン スーパーライトという商品名は、身体に優しいという意味       ではない、との但し書きまである



     
正面           裏面          側面  
このような記述は、当初は無かったと思うが、徐々に書き加えられてきたのであろう。
 タバコは毒物である、とはっきり言えるのであれば、製造・販売自体を、禁止すればいい。勿論、吸っても違法となり、非常に分かりやすい。でも、現状では、呼吸器系等にはかなり悪い影響があるものの、毒物とまでは言えない、ということだろう。一方、タバコには、麻薬的な側面もあり、程度は軽いが、ニコチン依存症になる危険も孕んでいる。
 結局、中途半端だが、毒物とも、麻薬とも言い切れない、嗜好品という範疇に入るのだろうか。嗜好品といえば、カフェインを含むコーヒーや、タンニンを含む緑茶も、この類になる。
 又、タバコは、政府の財源の一つとしても、重要なもので、販売を全面的に禁止する訳にはいかないようだ。税収不足になると、決まって話題になるのが、タバコ税の値上げだ。又又、値上げがあるようだ。クイズではないが、20本300円の価格のうち、税金は一体、何割なのだろうか。
 政府が、本気で、国民の健康被害を喧伝するのなら、いっその事、製造・販売を禁止する(輸入も含めて)か、禁止的な料金、例えば、1箱4000円(1本200円)位の、金持ちの好事家にしか吸えない、変な高級品にすればいいのだ。
 政府自身が、税収面でたばこ依存症に罹っていて、断ち切れないでいる、と言えるかも。

 一方、タバコには、いい面もある。タバコの一服は捨てがたい。山に登って、頂上に辿り着いた時に吸う一服、朝の寝起きに吸う一服、仕事が一段落して一休みする時の一服、などなどは、なんともいえない、至福を感じるひと時だ。江戸いろはかるたに、火の用心の夜回りを言った“三遍回って煙草にしょ”、というのがある。当時の、タバコに対する期待の大きさを思わせる。
 昔話になるが、田舎の大工さんは、休憩時間になると、嬉しそうにキセルを取り出す。キセルの先の雁首にキザミタバコを詰めて、マッチで火をつけ、1~2回、美味しそうに吸うと、すぐ、又詰め替える。この時、火種を絶やさないために、なんと、自分の手の掌に火を移して、詰め替えたら、その火をサッとキセルに戻す、という早業に、子供ながらに感心しながら見ていたものだ。
 また、いいアイデアが浮かばなかったり、客と面談中に間を取りたい時などには、ゆっくりとたばこを取り出し、徐に火をつけて吸うと、気分転換にもなり、無言でも、間が持つのである。ある知人は、その筋の人に凄まれた時に、内心では、びくびくしていたのだが、ゆっくりとタバコを取り出し火をつけて、無言のまま、暫く吸っていたという。その格好が、相手には、大物に映ったようで、彼は、そそくさと退散したそうな。
 バーなどで、わざわざ、火をつけてもらったり、キス・オブ・ファイヤーなどの火遊びも、楽しかった思い出である。
 パイプタバコは、余り経験は無いが、愛煙家は、タバコを楽しむだけでなく、道具にも凝ったようだ。パイプを愛した作曲家の 団 伊久磨さんの随想集に、「パイプのけむり」、「続パイプのけむり」、「続続・・」「又・・」「又又・・」「まだ・・」などがある。
パイプタバコのあの香りは、本人にとって心地よいだけでなく、周りにとっても、気持ちよく、好意的に見ていたものだ。イギリスのチャーチル元首相が、パイプを加えたスタイルは有名である。
 葉巻タバコは、パイプタバコよりも、さらに強烈で、すぐ吸い過ぎてむせってしまうのだった。国際会議でジュネーブに出張した時のお土産として、知人に、葉巻を買った来たこともある。外国出張の職場へのお土産といえば、一頃までは、ウイスキーのジョニ黒とタバコが定番だったのだ。その後、タバコは、チョコレートなどに変わっているがーー。
 タバコは、社会の中に定着した、立派な産業であり、生活文化でもあった、といえるだろう。でも、今や、大きな、大きな、曲がり角に立たされている。

 法律で禁止されている麻薬は、厳重に取り締まられるが、タバコは、嗜好品と位置づけられる以上は、個人個人が、自由に楽しめばいい。健康被害についても、前述のように、タバコのケース等に細かく警告が書いてあるが、本人がそれを承知で、買い、吸うのだから、とやかく言われる筋合いではない。
 しかし、自分で楽しむ場合でも、周囲の他人に迷惑にならないようにする、という、最低限の原則だけは、守らなければならない。
 人間には、誰しも五感がある。吸う本人は、この五感に訴えて楽しむ訳だが、他人にも五感がある事を忘れてはならず、それに配慮する必要があるのだ。タバコの問題は、周囲が広い時はいいとして、限られた空間内では、臭いや煙が出ることが、周囲の他人の、嗅覚や、目に影響することが問題なのだ。受動喫煙に反対する理由として、肺等に悪いことが理由の人は多いと思われるが、それ以前に、あの臭い自体が嫌な人もいる。
 最近は、受動喫煙防止という言葉が定着し、吸わない人は、これまでは、単なる被害者だったのだが、今や、吸わない自由、タバコから自分を守る権利(嫌煙権)が、堂々と主張されるようになっているのは、社会の進歩といえる。

 臭いがなく煙が出ないタバコなら、他人には迷惑がかからない。通常の火をつけるタバコの外に、噛みタバコ、水タバコ、嗅ぎタバコ、などが、これまでもあった。以前、一度、噛みタバコをやったことがあるが、ぐちゃぐちゃして、口の中に唾が溜まり、呑み込むべきか、吐き出すべきか悩んだ事がある。水タバコは、中東やトルコなどで行われているようだ。今回JTから発表された商品は、嗅ぎタバコの部類になるという。禁煙用の用具で、禁断症状を和らげるために、絆創膏のように皮膚の上に貼り付けるものがあるが、これは、言ってみれば、貼りタバコ、といえるかもしれない。これらのタバコは、周囲の他人に迷惑にならないようにする、という最低条件はクリアしているといえるだろう。
 現在のタバコは、材料を火で焼くことによって、成分や臭いを引き出し、身体に快感を齎すものだ。上述の、火を使わない類のタバコは、いい面はあるのだが、嗜好品としては、やはり物足りなく、不十分と言わざるをえないだろうか。

 自分で楽しんだり、使ったりする場合、他人に迷惑をかける例を、2つ挙げたい。
一つは、ポータブル音楽プレーヤーだ。一頃は、電車の中など、近くで漏れてくる、「シャカシャカ」という音が、気になったものだ。最近は、イヤホンが工夫されて、殆ど問題にならなくなったことは、本人にとっても、周囲にとっても、素晴らしい改良といえる。
 もう一つは、携帯電話である。あれも、普及当初は、車内で携帯電話の話し声が聞こえてくると、片方しか聞こえないこともあり、妙に気になったものだ。“車内では会話はするな”ということかと、気色ばんで異論を唱える向きもあったが(自分も!)、次第にマナーが定着し、昨今は、静かな車内になり、携帯は、もっぱら、メールや、ゲームソフトになっているのは、社会実験として、面白い成果といえる。
 携帯電話で話す時、受信する音声は、イヤホンでなくとも、受話部を耳にぴったりつけると殆ど洩れない。一方、話し声は、ひそひそ話のように息を殺しても、どうしても声を出さざるを得ず、周りに聞こえてしまうし、ひそひそ話調は、かえって気になる面もあり、耳を欹てたくなるものだ。雑踏の中や、外国語での会話ならなんでもないのに、少し静かで、意味が取れると、人間の声ほど、気になるものは無い。

 未成年者の喫煙を防ぐ手立ての一つとして、TASPOカードが導入されて、2年程になるが、余り普及していない状況のようだ。予め、カードに現金をチャージ出来る機能までつけたのに、である。
 タバコ店等に行くと、写真を撮ってくれ、その場ですぐカードを発行してくれる、と思いきや、申込書類に記入してセンターに送って貰うと、暫くして、カードが郵送されてくるという。これは、面倒である。
 たばこの自販機では、TASPOカードがないと買えない。が、写真付きのカードながら、自販機には、機械的な本人確認機能が無いので、貸し借りは自由で、他人のカードを借りれば、未成年者でも、誰でも買えるのだ。
 一方、店頭では、本人の顔をみて販売するので、未成年者は買いにくい。一方、コンビニは、24時間が多いので、夜中にタバコが切れた時、タバコ屋が閉まっていて買えないと言った事態は、少なくなっている。
 要は、成人でも、未成年者でも、写真入りのTASPOカードを持っていなくても、真夜中でも、タバコが買えるようになっている、ということだ。
    成  人⇒コンビにでの対面購入
    未成年者⇒借りたTASPOカードで自販機で購入
 このように、TASPOカードの当初の狙いである、未成年者の購買抑止という効果は、実際は殆ど達成されていないのではないか。これは、今後の課題である。
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干支の楽しみ その2

2010年03月26日 23時06分17秒 | 日記
3月26日(金)  干支の楽しみ その2


 今日は、干支の楽しみ その2 として、昨日の その1 の続編を届けたい。
 十干十二支(干支 えと)の組み合わせで、年などを表す場合、大きく、二通りの方法がある。

① 一つは、一方を固定して、相手方を順次変えていくやり方だ。例えば、十干を固定し、十二支の方を変えていくとすると、以下のようになる

  甲甲甲甲甲甲甲甲甲甲 甲甲乙乙乙乙乙乙乙乙 乙乙乙乙丙丙丙丙丙丙 
  子丑寅卯辰巳午未申酉 戌亥子丑寅卯辰巳午未 申酉戌亥子丑寅卯辰巳 

  丙丙丙丙丙丙丁丁丁丁 丁丁丁丁丁丁丁丁戊戊 戊戊戊戊戊戊戊戊戊戊
  午未申酉戌亥子丑寅卯 辰巳午未申酉戌亥子丑 寅卯辰巳午未申酉戌亥

  己己己己己己己己己己 己己庚庚庚庚庚庚庚庚 庚庚庚庚辛辛辛辛辛辛
  子丑寅卯辰巳午未申酉 戌亥子丑寅卯辰巳午未 申酉戌亥子丑寅卯辰巳

  辛辛辛辛辛辛壬壬壬壬 壬壬壬壬壬壬壬壬癸癸 癸癸癸癸癸癸癸癸癸癸
  午未申酉戌亥子丑寅卯 辰巳午未申酉戌亥子丑 寅卯辰巳午未申酉戌亥

 以上の様に、120通りの、組み合わせができ、十干はそれぞれ12回、十二支はそれぞれ10回登場して、また、元に戻る。逆に、十二支を固定して、十干の方を順次変えていっても、同様の結果となる。
 若し、この干支を実際に使うとすると、一巡するのに120年かかるので、殆どの人は、還暦を迎えることが出来ないのだ!

② もう一つの方法は、各々のグループから、グループ内の順序を変えないで、順次、一つづつずらしながら取り出して、組み合わせを作るやり方だ。以下のようになる。

  甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 
  子丑寅卯辰巳午未申酉 戌亥子丑寅卯辰巳午未 申酉戌亥子丑寅卯辰巳 

  甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
  午未申酉戌亥子丑寅卯 辰巳午未申酉戌亥子丑 寅卯辰巳午未申酉戌亥

 以上の様に、60通りの組み合わせができ、十干は6回、十二支は、5回登場して、また、元に戻る。これが、61年目に、目出度く迎える還暦である。数学的には、10と12の最小公倍数が、60ということになる。
 此処で、重要なことに気がつく。この②の組み合わせ方だと、陽に当たる十干の兄(え)は、十二支の奇数と、陰に当たる十干の弟(と)は、十二支の偶数と、だけ組み合わさることが分かる。逆に言えば、十干の兄(え)は、十二支の偶数と、十干の弟(と)は、十二支の奇数と、組み合わさることは、ない、のだ。
      十干の兄(え) ⇒⇒⇒ 十二支の奇数との組み合わせのみ
     甲 丙 戊 庚 壬    子 寅 辰 午 申 戌
      十干の弟(と) ⇒⇒⇒ 十二支の偶数との組み合わせのみ
     乙 丁 己 辛 癸    丑 卯 巳 未 酉 亥 
となる。自分にとっては、これは、大きな発見であった! 
 上記の、ない組み合わせを、規則的に作るには、一つずらして組み合わせていけばよい。例えば、十干はそのままにして、十二支を、一番目の子でなく、二番目の丑から、始めるのである。こうすると、以下のような干支が出来る。陰陽が逆になるので、仮に、これを、逆干支と呼ぼう。

  甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 
  丑寅卯辰巳午未申酉戌 亥子丑寅卯辰巳午未申 酉戌亥子丑寅卯辰巳午 

  甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
  未申酉戌亥子丑寅卯辰 巳午未申酉戌亥子丑寅 卯辰巳午未申酉戌亥子

最初の①の方法では、この、逆干支も含むので、組み合わせ数が2倍になる。

自分の生年と同じ卯年(十二支の偶数)について確認してみよう。
  生れる12年前は    丁卯 ひのと  う
  生れた昭和14年は   己卯 つちのと う  
  生れた12年後は    辛卯 かのと  う
  さらに12年後は    癸卯 みずのと う
  さらに12年後は    乙卯 きのと  う
  さらに12年後は    丁卯 ひのと  う
  さらに12年後は    己卯 つちのと う 還暦
  さらに12年後の来年は 辛卯 かのと  う 
となり、十干の弟(と)とだけの、付き合いになる。

 先日の朝、NHKのTVを見ていて、偶然に、面白い発見をした。番組のレポーター役で登場した、女性アナウンサーのお名前が、丁子○○○さん、だったのである。読み方は、“ちょうじ”さん と思われるが、上記の伝で読むと、“ひのとね”さん になる。これは、十干の弟(と)と十二支の奇数との、使われない組み合わせ(逆干支)になり、いささか興奮した。暦には使わないが、苗字には使うのかしらん? などと思った。
 ところが、改めて、「広辞苑」を引いてみて、又又、驚いた。自分は知らなかったのだが、丁子(ちょうじ)という名の植物が、絵入りで紹介されている! 熱帯地方で栽培され、その葉や実から、香辛料や油を採ったりするようだ。ネット情報によれば、わが国では、この丁子が、各種の家紋として使われている。上述の丁子さんのご先祖は、この家紋のお侍だったかも知れない、などと想像して、楽しんだ次第。

 暦や日付に関しては、日本の元号の使用すらも、西暦に押され気味な昨今だ。ましてや、古臭い干支の暦などは、歴史的な遺産になりつつある。でも、日本文化の積み重ねの中で、まだまだ、息づいてもいるのだ。日本の歴史や文化を理解し、楽しむためには、難解な干支の表現に慣れることも、無駄ではないかも知れない。
 毎年、暮れ近くになると、知人から贈られてくる「神宮館高島暦」は、今も重宝しており、今回も大変参考になった。が、この本などを元に、旧暦や干支などについて、今更、本格的に調査する積りはない。でも、馴染みの薄い干支の字を見た時、その都度、先頭から指折り数えるのではなく、パターン認識で、サッと読める様になれたら、いいなアーー、と思う。
 例えば、乙は きのと、戊は つちのえ、未は ひつじ、戌は いぬ、甲申は きのえさる、丙午は ひのえうま、丁巳は ひのとみ、などなど、である。ボケ防止にもなるかも?年周りが少し上の大先輩方は、お若い頃の修練のお蔭で、今でも、パッと読めるのだ。自分もこうなった暁には、浅草や巣鴨などの、風情ある町並みを歩いても、楽しさが増えるかも知れない。
 早速、十干と十二支を大書して、目に付くところに、貼り出そう!
先ずは、今年は、庚寅(かのえとら)、来年は、辛卯(かのとう)、と覚えることから、スタートするとしようか!


      十二支 と 訓練問題


          十干と訓練問題


      干支の訓練問題 

   先ず覚えよう!
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干支の楽しみ その1

2010年03月25日 23時50分01秒 | 日記
3月25日(木)  干支の楽しみ その1


 先日、近くの「甲子」(きのえね KINOE NE)と言う屋号の天婦羅屋で、家人と、ささやかなお祝い事で、昼食を摂った。以前から、一度は行って見たい所だった。松錦御膳も美味しかったが、食後に出てきたコーヒーは、又格別であった。
 甲子という名前は珍しいので、店の人に、名前の由来を尋ねた。この店は、関東大震災のあった翌年の1924年に、浅草で開業したようだが、その年の暦の干支が、甲子(きのえね)だったことに因んで、先代が名づけたという。戦後になって、現在の場所に移ってきたようだ。
 
 甲子といえば、先日から始まった、選抜高校野球の伝統ある球場が、いうまでも無い、「甲子園」である。此処の名前も、前身となる運動場の開園が、甲子の1924年に因んで名づけられたという。福島県にある、甲子温泉(かしおんせん)というところは、甲子の年の、1384年に発見された温泉だそうな。又、松尾芭蕉の紀行文に、甲子吟行(1684年の甲子の年に旅立ち 野ざらし紀行とも)というのがある。最も近くでは、1984年が、甲子だったようだが、当時は、全く関心が無かった! 次は、2044年なので、もうこの世には居ないだろうか。
 古来、わが国では、十干十二支、略して干支(えと)で、年や日や、方角、時刻等を表していた。
 干支で、年を表す場合、一番の最初が、甲子である。物の始まりは、何かと縁起がいいが、甲子の年に始めた事に因んで、その甲子を、屋号や、公園名や、温泉名や、句集名などにしたようだ。いろはの い、い の一番、などと同じだ。
 甲子以外の年暦では、歴史上、自分が知っているところでも、壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年~)、辛亥革命(中国 1911年)等がある。又、地名でも、庚申塚(都電の駅)等がある。
 一方、一番のどん尻になる、癸亥(みずのとい)については、このような記述は見当たらない。

 暦に因むものとして、十二支の方は、現在も大変な人気で、今年は寅年で、年賀状では、虎、寅が、沢山登場した(ブログ(10/2/5) 年賀状 その2)。 自分が、還暦+12の年男になる来年は、待望の卯年である。
 十二支は、後になって、動物を表すようになったようだが、実際の動物の字とは、少し違っている。又、特定の日を表す場合が多い。

 十二支 実際の動物  用例等
  子    鼠    子供 子午線
  丑    牛    土用の丑の日 丑松(島崎藤村 破戒の主人公) 
  寅    虎    演のつくり
  卯    兎    卯月  みみ卯 柳のつくり
  辰    竜    星辰 辰沼 振のつくり
  巳    蛇    祀のつくり  十干の己(つちのと)に似ている
  午    馬    午前・午後 子午線 初午
  未    羊    未来
  申    猿    申告
  酉    鶏    酉の市 酒のつくり
  戌    犬    戌の日(腹帯)
  亥    猪    核のつくり

 これに対し、十干の方は、暦書によれば、それぞれに、大変な意味があるのだが、人気が低く、一部を除き、余り使われていない。字と読み方だが、甲、乙に続いて丙までは、以前、成績簿や、兵隊検査での評価等にも使われたので、分かるが、それに続く、丁以降は、馴染みが薄い。全体としては、画数が少なくシンプルな字なのだが、一部を除いて余り見かけない変わった字だ。
  こう  甲―― 甲乙つけがたい 甲殻類 尺八の甲音 
  おつ  乙―― 乙な味 乙姫様 尺八の乙音 
  へい  丙―― 丙種 柄のつくり
  てい  丁―― 一丁目・二丁目 丁稚奉公
  ぼ   戊―― 戌(十二支の いぬ)と似ている (成長の)成と似ている
  き   己―― 自己  巳(十二支の み)と似ている 
  こう  庚―― 康に似ている
  しん  辛―― 辛味 辛辣
  じん  壬―― 任のつくり
  き   癸―― 揆のつくり 葵・発に似ている  

 唯でさえ十干は難しいのに、これに五行陰陽説が加わり、さらに難しくなる。五行とは、
    木星、火星、土星、金星、水星
の五つの惑星の運行と関係づけ、これと、十干の二つづつを対応させ、陽を兄(え)、陰を弟(と)と呼ぶようにしたのだ。つまり、
   木星 き  木の 兄え  甲 きのえ
            弟と  乙 きのと
   火星 ひ  火の 兄え  丙 ひのえ 
            弟と  丁 ひのと
   土星 つち 土の 兄え  戊 つちのえ
            弟と  己 つちのと
   金星 か  金の 兄え  庚 かのえ
            弟と  辛 かのと
   水星 みず 水の 兄え  壬 みずのえ
            弟と  癸 みずのと
となる。
 此処に至って、甲を つちのえ、乙を つちのと、丙をひのえ、丁をひのと、--------と呼ぶことに、かなりの抵抗はあるのだが、覚えて慣れるしかない。
 又、火は ひ なのでいいのだが、金は かね でも きん でもなく、か と呼ぶことも紛らわしい。でも、そんなことは、言ってはおられない。今年と来年は、金とのめぐり合わせで、今年は、庚寅(かのえ とら)、来年は、年男の、辛卯(かのと う)なのだ。
 なんとしてでも、覚えないことには!
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店頭は店の顔  3題

2010年03月24日 13時58分52秒 | 日記
3月24日(水)   店頭は店の顔 3題

 店頭は、その店の顔と言われるが、最近、偶々、経験した事について、述べてみたい。

① 2月半ば、近くのファミレスに、家人と食事に行った。何種類か注文し、暫くして料理が出てきて、美味しく頂いた。会計する段になって、請求書が見当たらない。よく探したら、テーブルの横で、席の番号札が見つかった。幾らになるかな? と大雑把な見積もりをしながら、この番号札を、レジに持っていったら、此方には何も見えないのだが、合計○○○円と、おおよそ想定していた金額を告げられた。
 内訳が見たい、と言ったら、一寸離れた場所で打ち出した明細書を持ってきた。以前来た時は、番号札に、明細書が挟んであったと思ったので、止めた理由を聞いた。紙代などの経費節約の為に止めた、と言う。又、追加注文が有った場合などに、座席にある明細書と実際の会計金額が食い違って、トラブルになったことなども、止めた理由という。これらは、十分理解できるのだが、でも、どちらの理由も、店側の都合と言える。
 サークルの仲間達とグループで来て、各自個別の会計となる場合などは、内訳は重要である。明細書を一方的に止めるのでなく、注文を取る時に、その要否を客に尋ね、必要と言われた時は、番号札と一緒に内訳明細つけるのが、サービスでは、と提案した。
 勿論、料金は払ったが、同行した家人は、又、いつもの癖が始まった、と、外に出て、寒
空の下で、待っていた!
 あの店の対応方法が、その後どうなったかは、あれ以来、行っていないので不明である。多分、何も変わっていないだろう、と推測するのだがーーー。

② 2月末に、有楽町の某電気店に、「万歩計」を買いに行った。幾つかの機種が並んで展示されている中から、PCに接続してデータ管理が出来る機種が面白そうなので、それを買おうとしたが、何故か、その機種だけ、数個あるどれにも値段の表示が付いていない。他の機種は、一つづつ、値段がついているのに、である。
 その商品を会計カウンターに持っていって、値段を聞いたら、よさそうな値段だったので、買うことにしたのだが、この機種だけ、値段が付いていない理由を聞いた。対応した店員は、すみません、申し訳ありません、の繰り返しばかりである。うっかり付け忘れたのか、なんか他の理由があるのか、全く要領を得ない。自分の責任ではないようなことも言う。 “あなた、この店の社員でしょう” と言ったら、“いや社員じゃあありません”などと、見当はずれな対応で、言い訳ばかりだ。
 ついに、こちらも、“値段が付いていない商品は、買うわけには行かない” とハッキリ言った。そしたら、その店員、“一寸すみません”と言って、やおら近くから、商品に値段を貼り付ける道具を持ち出してきて、万歩計のあるところへ、走っていった。程なくして、戻ってきたが、ちゃんと値段の付いた同じ商品を持ってきたのだ。“やればできるジャン”とその店員の対応に感謝し、代金を払って、買い求めた次第。


 卑しくも、店頭(電話も含む)で対応する役割の人は、客からのクレームや問い合わせに対して、その店なり会社なりを、代表しているのだ。今回のように、客から、買おうとする商品に、値段の付いていない理由を聞かれた時、“これは、申し訳ありません、すぐお付けします” と何で言えないのだろうか。誰かに頼んで付けてもらっても良いし、自分で付けに行っても良い。
 すみません、申しわけありません、と言えば、客は納得してくれるだろうから、それで済まそうとする姿勢は、如何なものか。自分の業務の範囲内なら言うに及ばず(今回は、ほぼこれに当たるだろう)、ある程度、自分の持分を超えてでも、対応する姿勢が嬉しいし、
店の顔、引いては会社の顔としての態度だと思うのだがーーー。

③ 先週、携帯電話の電池パックが寿命のようなので、近くのDoCoMoショップに行った。対応した店員は、携帯番号と氏名を聞いた後、身元確認をさせて欲しいという。単なるバッテリーの交換なのに、何ゆえ身許確認が要るのかと聞いたが、そのような決まりになっている、の一点張りだ。不本意ながら、身許確認に応じ、写真付きの住民基本台帳カードを提示し、返してもらった。
 電話機は、購入してから、2年以上を経過しているので、電池パックの交換はサービスで無料です、と嬉しいことを言ってくれた。2000円くらいは取られるだろうと思っていたのだ。店に在庫が無いので、品物を手配し郵送するのに、2週間程かかるが、品物の送り先を教えて欲しいという。名前か、携帯番号があれば、データベースから、住所もわかる筈なのだが、応対用の画面上には、出てこないようになっている、という。
 個人情報の管理が厳重なご時世ではあるが、一体全体、顧客対応用情報の提供と管理のシステムはどうなっているのか、と思った。仕方なく、再度、先程のカードを呈示して、郵送先を伝えた。

 自分の場合、携帯電話は、この所は、臨時の連絡用にしか使わず、普段、持ち歩くことは無いので、紛失や、盗難のことは、余り気にしていない。でも、万が一、このような事態になった場合、悪用を食い止め、個人情報の流出を防ぐために、各種対策が必要であることは、言を俟たない。店頭に持ち込まれた携帯電話について、客から言われるままに変更することは問題があろう。電池パックの交換も、このレベルに該当し、身許確認が必要なのかもしれない。
 でも、対応した店員が、まだ良く分かっていなかったか、或いは、身元確認の時に、うっかりしていた、ような節もあるが、セキュリティや個人情報管理の考え方が、少し行き過ぎているのでは、と思った次第である。
 後日、電池パックが郵送されて来て、取り替えも、無事済んでいる。


   旧電池パック   新電池パック
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大学芋と水あめ

2010年03月23日 12時11分41秒 | 日記
3月23日(火)  大学芋と水あめ


 昨年秋、茨城の知人が、自分の畑で作ったサツマイモ(紅あずま)を、沢山送って寄越した。特大の芋が一本、最後に残ったので、先日、大学芋を作った。大学芋を作るのは何度目かだが、ネットで仕入れたレシピが、先生役だ。
 サツマイモは、暫く置くと、通常、黒いヤニが出たり、腐ったりするのだが、幸にこの芋は、何とも無かった。皮を剥いて、正四面体のような、角切りにして水にさらし、水気をとる。先ず、160度位の低温の油で、ゆっくり素揚げし、一旦取り上げる。 次に、180度位の高温でサッと揚げる。一方、絡める蜜の方は、材料の、水あめ・砂糖・水を、1:2:1の割合で、鍋に入れ、温めて溶かしながら作る。この蜜を、狐色に揚がったサツマイモにかけて絡め、ごま塩を振れば、大学芋の出来あがり、である。
 出来立ては、かりっとしていて、香りも良く、程よい甘さで、3時のお茶などには、もってこいだ。一晩経つと、しっとりと軟らかくなるが、又違った食感になる。それにしても、何で、大学芋などという、変なネーミングなのかな?

 以前は、大学芋を売っている店は、結構目に付いたものだが、最近は、トンと見かけない。昨年、近くのJRの駅前通りにある、老舗の和菓子屋(本店は、浅草のようだ)で、大学芋を売っているのを発見?! プロの出来栄えと味を調査するために、この店で買ってきたことがある。揚げといい、蜜と言い、流石に、プロの出来栄えだった。大学芋は、お菓子類の少なかった、少し前の時代までは、貴重なお八つ等として重宝した。
 物の本等によれば、水あめは、液状の飴、と言うことで、昔の、特にまだ砂糖が無かった時代には、その代わりとして、和菓子などの重要な甘味料だったようだ。製造法は、古くは、玄米を発酵させて作られ、その後、麦芽水あめになり、現在は、各種澱粉から、作ることが出来る。スーパーでは、今も、ちゃんと売られてはいるのだが、砂糖に押されて、料理や菓子作りなどで使われる頻度は、ごく少ないようだ。

 この水あめで思い出すのが、野口雨情作詞 中山晋平作曲の「黄金むし」の唄である。
次に、引用させてもらう。

  1 黄金むしは 金持ちだ
    かねぐらたてた くらたてた(金蔵建てた 蔵建てた)
    あめやで 水あめ 買ってきた(飴屋で 水あめ 買ってきた)

  2 黄金むしは 金持ちだ
    かねぐらたてた くらたてた
    こどもに 水あめ なめさせた(子供に 水あめ 舐めさせた)

 1番、2番とも、前半で、黄金むしの金持ちぶりを繰り返して歌い、それぞれの後半で、水あめを買ってきて、子供に舐めさせた、と歌う。解りやすい歌詞であり、素直に歌えるメロディである。
 黄金むしは、その煌びやかに輝く色や整った形から、古来、慕われてきた昆虫である。作詞者は、その素晴らしさに、まず、素直に感動し、金持ちだ、金蔵を建てたようだ、と讃えているようだ。ところが、後半で、取ってつけたように、突然、水あめの話が登場するのが、実に興味深い。
 金持ちの黄金むしが、水あめを買い、子供に舐めさせる、という。昆虫は、一般に、花の蜜など、甘いものを好む。黄金むしも、同様で、作詞者は、花に集まる様をみて、それを表現したのかもしれない。が、自分には、そうではなく、虫の世界の話から、人間の世界の話になっている、ように思われるのだ。

 昔の田舎には、「あめや」があり、葬式饅頭やお菓子などを作っていたが、水あめは、貴重なものであったようだ。この水あめは、黄金むしに喩えられる、金持ちにしか買えず、その金持ちの子供だけが、水あめを舐められた、のだろう。水あめが、そんなにも貴重品だったのか、と驚くのだが、庶民の切ない羨望の思いが、歌詞に込められている、と感じるのは、自分だけだろうか?(水あめは、当時、庶民の甘味で、金持ちなのに水あめを買う、という、野口雨情の庶民性が現れている、という解釈もあるようだがーーー)

 この童謡が作られた経緯や、歌詞の意味するところについて、余り詮索すると、折角の情感が無くなってしまうのだが、この歌の背景となる大正期の日本は、こういう時代だったのかと思うと、少し、いとおしく、切ない気持ちになる。
 物が溢れている飽食の現代、大学芋と水あめは、質素で慎ましい暮らしを、静かに思い起こさせてくれるのである。





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