つれづれの記

日々の生活での印象

障子の張り替え

2011年05月23日 23時39分14秒 | 日記
2011年5月23日(月) 障子の貼り替え


 つい先日、和室のガラス窓の内側に付いている、2枚の障子の、張り替えを行った。例年は、暮れの行事の一つとして行って来たものだが、この所、そのままにしてきた。部屋の中からは、調度などの陰に隠れて、破れ、は見えないのだが、外から見ると、かなり目立つし、紙の色も茶色っぽくなって来ていたので、張り替えることとした。2年半ぶりである。 

 障子から古い紙を剥がすのは、霧吹きで水を湿らせて暫くすると、比較的簡単に剥がれる。残っている糊と、桟に溜った埃を拭き取って、乾けば、こちらの準備はOKだ。
 障子紙は、以前張り替えた時に、余って残っていたものが、かなりあったので、それを使うこととした。 障子紙は、一旦貼り付けて日が当たると、パリパリになって、弱くなるが、抽斗の中に仕舞っていたものは、そんなに品質は落ちないようだ。
 障子のサイズに合わせて、巻紙状の障子紙を、左右の長さに合わせて切り、更に、縦方向に、桟の幅に合わせて切るのだが、これらが、結構、神経を使う作業である。
 障子1枚目の、紙を切る作業を終えたところで、草臥れてしまったので中断し、2枚目については、次の日に、分けてやる結果となった。 
 この、障子紙の幅と、桟の幅とが一致していて、幅を合わせて切る作業が、不要になれば、しめた物なのだがーーー。

 次に、糊だが、台所にある、天ぷら粉を、水で薄く溶く。粉の量と水の量は目分量だ。この溶液を、少し加熱すると、容易に糊が出来る。
 問題は、刷毛である。以前、横長の専用の刷毛を使ったのだが、何処に収納したのか、探しても見当たらない。代わるものを、と思って物色したら、以前、子供が、学校の習字の時に使った、かなり太い、丸い筆が見つかった。
 この筆を、何度も洗い、大丈夫と思って、出来た糊を延ばしていたら、鼠色の糊になってしまったのである。太い筆の芯の部分に、まだ、昔の墨が残っていたようだ。再度、筆をお湯に漬けて、丹念に洗い直し、糊も、つくり直し、となった。

 ここにきて、漸く準備が整って、貼り方始め である。桟に糊を付ける時は、付け忘れが無いように、付け過ぎて垂れない様にと、神経を使う。桟に糊を付けて紙を貼り付ける作業は、糊が乾かない内に、手早くやる必要があり、家人との2人3脚である。障子紙を横に貼っていく時は、繋ぎ目に埃が積りにくいように、下部から上部に、貼り重ねて行った。
  障子1枚 貼り終え
 何とか、貼り終えて、仕上がりを見ると、紙の左右の長さが、少し違っていて、見栄えはあまり良くない。 が、障子を窓に嵌めた時は、桟が内側に来て、紙のこの部分は、どうせ、外側になるのだからと、気にしないこととした。貼り終えた時点では、皺だらけである。

 糊が乾ききるまで待つと、最後に、“魔法の手” が登場する。 霧吹きで、障子に、軽く水分を含ませて暫くすると、あら不思議、紙が、ピーンと張って皺がなくなり、魔法を掛けたように、いい感じになるではないか! 長年、障子張りをやっていて、この瞬間が嬉しく、苦労が報われる思いを、味わうのである。
 何時だったか、糊が乾ききる前に、待ち切れずに、霧吹きをやったものだから、貼り付けた紙が縮んでしまって、桟との間に、隙間が出来てしまった事があった。 

 昨日、ある集まりで、障子張りの面倒臭さ、を話題にしたら、或る人は、襖紙を貼ったらどうだろうか、と言う。でも、襖張りの時、内側に貼る薄い紙があるのかは知らないが、通常の外側の襖紙では、光が通り難いので、暗くなるのでは? 
襖紙のように、大きな1枚紙になっていて、全体を一括して貼り付けるような、障子紙もあるのかな?
 技術革新が進んでいる時代なのに、障子の張り替えについては、余り、以前と変わっていないのだろうか。障子のサイズの種類と、障子紙のサイズの種類との、関係は、どのように規格化されているのだろうか。

 昨年は、2枚の網戸の張り替えを、近所のプロに頼んで、1枚当たり、3500円程で、やって貰ったが、障子の張り替えについても、近隣に、やってくれる業者は居るのだろうか。この場合、材料費は、ごく、僅かで、大半が、手間代となろう。自分の働きを知る参考までに、業者に頼めば、1枚、いくら位払うことになるのか、知りたいものだ。

 今や、住宅の中での、和室の存在そのものが、かなり危機的状況にある中での、障子の運命は、今後どうなって行くのだろうか。日本文化の一つの形である和室では、畳は欠かせないし、障子は、その重要なパートナーでもある。
 住環境の中での、紙、なかんずく、薄い模様の入った和紙の、柔らかさや、温もりは捨て難いものがあり、 和紙を使った障子には、畳を日焼けから守ると言う、重要な役目もある。
 でも、畳は、当面は無くならないと思われるが、障子については、残念ながら、すりガラスなどに、置き換わっていくように、思われるのだがーーー。
 








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神代植物公園と深大寺界隈

2011年05月18日 23時53分11秒 | 日記
2011年5月18日(水) 神代植物公園と深大寺界隈



 先週の5月11日、都内の園芸同好サークルの例会があり、会員仲間10人程で、調布市にある、都立神代植物公園に出かけた。通常は、5月の連休頃に、関東各地に、日帰りバス旅行に出かけるのだが、今回は、趣向を変えて、お膝元を探索してみよう、と言うことになった。
 企画は、新年早々には、纏まっていたが、3.11の大震災に見舞われ、中止も考えられたものの、折角の機会だからと、実施となった。参加者の入園料が、全員、250円也の、シルバー料金なのは有り難い。
 生憎の雨模様で、傘が手放せなかったが、又、違った味わいもあった。

 この植物公園には、以前、訪れた事が、2,3回あり、広いバラ園などが、印象に残っている。
入って驚いたのは、敷地の広大さだ。和風の庭園になっていて、立派な植え込みがあり、木々の新緑が素晴らしい。ツツジは、もう終わっていたが、程なく行ったところの、シャクナゲが見事だ。人間の背丈よりも大きな、シャクナゲの木が、幾株も植えられ、赤や、黄色や、紫の花を付けている。
 シャクナゲの花
 ボタンと並び称される、シャクヤクも植えられている。苦心の作品であろう、アメリカと名付けられた品種は、真っ赤な花弁が、バラの花のように幾重にも重なって、シャクヤクとは思えないものだった。 
 シャクヤク(アメリカ)
 馬蹄形状になった大温室では、ベゴニアの花が見事だった。園芸店などで手に入れる、可愛いい小さなベゴニアとは違う、木立性ベゴニアの巨大な鉢が、所狭しと、天井から吊り下げられている。

 漸くにして、記憶に残っている、バラ園のある、広い空間にでた。 各種のバラが植えられている。あたかも、動物園が世界各地の珍しい動物を集めているように、世界各地のバラの品種が、数多く、育てられている。愛好家には、堪らない場所だろうか。
 ばら園 風景
日本生まれと思われる、サムライ という名前がついた品種もあった。
 全体としては、もう少し、遅い時期が、見頃だろうか。

 植えられているバラの上部は、低い棚で支えているが、棚の下の根元を覗いてみて、株の太さに驚かされた。このバラ、結構な年期が入っているようで、艶やかな美しさを保つための、逞しさが感じられる。
ばらの花
 太い株元  
                                     
 バラ園の横には、大きなフジ棚があったが、残念ながら、花は、殆ど終わっていた。

 ひとしきり、花畑を楽しんだ後、メンバーの一人が、この公園内に、ナンジャモンジャの木がある、と聞いていたので、それを探すこととした。変な名前で、どんな木かも良く分からないのだが、木の幹に付いた、名札などを頼りに探しても、それらしい木は、見つからない。
 ほぼ諦めかけて、進んだところで、大きな木が立ち並ぶ、林に入ったようだ。えのきや、大島桜の巨木に、圧倒される。オオシマザクラの葉は、塩漬けにして、桜餅等に使われるのは、周知のことだ。
 えのき     大島桜
 よく見ると、広場の向こう側には、大きなソメイヨシノが何本も並んでおり、この一帯、桜の花見も良いのでは、と思った。聞いたところでは、案の定、花見の頃は、大変な人出で、賑わうという。

 マロニエに似ていて、赤紫色の花が目立つ木を見つけた。パリのシャンゼリゼ通りに植えられている、マロニエの木と花は、以前、見たことがあるが、この木の葉はマロニエと同じだが、花は、より鮮やかな色である。 
 この花の近くで、3人で、うろうろしていると、腕に黄色い腕章を付けたご婦人が、にこにこしながら、近づいて来て、何か、お調べですか、と聞かれた。
 この方、この神代植物公園で案内役をやっている、ボランティアであった。月に、10回ほど、活動されているようだ。 渡りに船と、目の前にある、赤い花を付けた木の事を聞いたら、この木は、ベニバナトチノキ と教えて貰った。
 後日、樹木図鑑で確かめたら、この木は、セイヨウトチノキとも呼ばれる先述のマロニエと、アカバナアメリカトチノキとの、交配で生まれた雑種と言う。よく見ると、この木の近くに、白い花を付けた、日本古来の、トチノキもあり、こちらは、苦~い、トチ餅で有名だ。
      
ベニバナトチノキ                花の拡大        トチノキ  
これらの木は、同じ、トチノキ科に属している、親戚同士なのである。  
マロニエといえば、銀座5丁目から、築地方面に向かって、マロニエ通り と言うのがある。名前の通り、そこには、街路樹として、マロニエが植えられていて、近くの職場に勤務していた頃は、歩きながら、季節になると、葉隠れに遠慮がちに咲く、薄紅色の花を見つけては、楽しんだものだ。   
ついでに聞いてみようと、この御婦人に、ナンジャモンジャの木を探しているが見つからない、と言ったら、案内してくれるというので、付いて行ったところ、何と、先程、うろうろ探していた場所に、その木があったのである。 木に付けられた名札を、改めて良く見ると、ヒトツバタゴ とあり、その下に、小さく、別名ナンジャモンジャノキ とある。 これだったのだ! 
  
ヒトツバタゴ                     名札 別名ナンジャモンジャノキ
 
林の中なので、薄暗くて、日当たりも余り良くなく、白い花も、やや、ぱっとしない風情。
 そのご婦人に、公園を出た深大寺境内や、町中などにも、ナンジャモンジャの木がある、と教わった。

 昼食は、公園を出たところにある、老舗のそば屋だ。以前、公園に来た時にも、名物の、深大寺そば を食べたが、今や、NHKの朝ドラ、ゲゲゲの女房で、一段と有名になった深大寺とあって、商店街も格段に賑やかになり、かなり雰囲気も違ってきているようだ。
 そば屋のごく近くに、神代植物公園に付属している、水生植物園(入場無料)があり、有志で、中に入ってみた。スイレンや、アヤメやハナショウブ等は、まだ少し早い、と言うことで、取り立てて、見るべきものはなかった。

 御婦人に教わった通り、古刹深大寺の寺の境内にも、かなり立派な、ナンジャモンジャの木がある。又、バス停に行く途中の、土産物屋の前にも、なかなかの、ナンジャモンジャの木を見つけた。 細長く4弁に分かれた白い花は、今が、丁度、盛りのようだが、いい匂いがしそうでいて、殆ど、香りが無いのが、不思議にも思える。

 このヒトツバタゴ、ネットで調べたら、モクセイ科の樹木で、国内の自生地は、対馬と、岐阜県、静岡県に限られている、という珍種のようだ。 国の天然記念物にも指定されていて、岐阜県木曽川渓谷の、中津川市蛭川の自生地では、東日本大震災の復興支援を兼ねて、この5月22日に、ひとつばたご祭 が催される、という。
 
 中津川市 長瀞のヒトツバタゴ

 ヒトツバタゴという和名は、ヒトツバ(一つ葉)+タゴ(とねりこ のこと、こちらは、複葉)から、来ていると言う。
学名のラテン語は、雪の花、ということで、英名は、ズバリ、Snow Flowerと、言うようだ。上記の写真、新緑の中で、木全体が雪のように白く輝く様が、目に浮かぶようである。 
 名前が良く分からないので、何者じゃ ナニモンジャ が訛って、ナンジャモンジャ と呼ばれたとも言われる。ヒトツバタゴが、珍しがられる理由として、この変わったニックネームも、一役買っているだろうか。 


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遠かった我が家

2011年05月14日 23時44分26秒 | 日記
2011年5月14日(土) 遠かった我が家 


 3・11の巨大地震から、早いもので、もう2か月が過ぎた。いまも、鮮明に記憶している、あの日の事を、振り返ってみたい。


 3月11日(金)、有楽町に在る某歯科医の、午後3時半の予約に間に合うようにと、2時過ぎに、JR綾瀬駅から、地下鉄千代田線に乗り、日比谷駅へ向かった。 北千住駅を過ぎ、次の町屋駅の手前の、トンネルの中で、電車が、急停車した。車内の照明は、灯いたままである。 地震を検出して自動停車した、との、社内アナウンスだ。3時少し前だったろうか。
 地震で、電車が停まることは、たまにあることだ。少ししたら、こんどは、車両が大きくガタガタ揺れた。電車が動いている時は、地震の揺れは、余り分からないのだが、停車中に来た揺れは、非常によく分かる。電車の中でのこんな大揺れは、初めての経験である。 その後も、かなり大きな揺れが、2~3回あった。今から思うに、本震のP波、S波、と、それに続いた、幾つかの余震が、電車の急停車や、大きい揺れと、どう対応したいたのかは、判然としない。
 地下鉄のトンネルは、構造的に、かなり頑丈に出来ており、安全と聞いている。しかも、車両の中は、更に安全なので、生き埋めになる不安は、感じなかったが、車内の揺れ方からすると、この分では、地上は、かなりの被害では、などと想像した。地下鉄全線で、電車が停まっている、とのアナウンスである。

 20分程だろうか、暫く経過した後、電車は、そろりそろりと、動き出して、町屋駅のホームに入ったので、ほっと一安心。 ホームでは、暫く待てば動くだろう、と思っていたが、車内放送は、“暫くお待ちください” が、だんだんはっきりしなくなり、終には、“安全点検に、数時間はかかる見込みです” となったので、一旦、電車から降りて、駅の外に出て見ることとした。 改札の駅員は、対応に追われていて、てんてこ舞い。自由に通れる状態の改札を通って、階段を上っていく途中で、可なり激しい揺れが来た。 慌てて、太い柱の横に身を寄せ、揺れが治まるまで暫く待って、地上に出た。 

 そこで見た地上の光景は、陽が降り注ぎ、何事も無かったかのように、人が行き来し、車も走っているではないか! 建物などが、かなり、壊れているのでは、と想定していただけに、意外であった。
でも、少し経つと、地下鉄から出てきた人たちなどが、なんとなく、そわそわしている気配が分かってきた。 出口近くの空き地に停めてある、軽トラックのラジオから、ボリューム一杯に、地震情報が流れているのが聞こえてきた。 福島県いわき市の小名浜港からのリポートでは、大きな津波が来ると伝えていた。 暫く、ラジオを聞いていると、他の地域の、地震や津波の情報が、次々と伝えられ、東北地方の太平洋沿岸の広域が、かなり、大変な状況になっていることが、分かって来た。

 ともかく、自宅に居る筈の、家内に電話しなければと、ボックス公衆電話を探したが、見つからない。 駅のもう一つの出口の近くに行ったら、漸く見つかり、外国人らしいご婦人が一人、電話が空くのを待っていただけだった。以前の仕事の関係で、公衆電話は、災害時には、優先的に繋がることは知っていた。 数分後、自分の番になったので、自宅に電話したら、運よく繋がり、家人は無事で、家の中は、かなりの揺れで、落下物もあったものの、大したことではないようで、先ずは一安心である。向こうでも、地震後の、こちらの安否を心配していたところであった。電話が出来たのは、4時過ぎ位だろうか。
 千代田線町屋駅は、よく通る駅だが、降りたことは殆ど無く、この辺りを、車で通ったことも少ないので、地理は不案内で、地図も持ち合わせていない。
町屋駅の地下鉄と都電は、動いていない状況なので、有楽町に出る用事は諦め、ここから、バスを乗り継ぐなどして、兎も角、我が家に帰ろうと決めた。この際、何時も、自宅との間でバスを利用している、隣駅の、北千住駅前を目指すこととした。

 町屋駅前の通りは、都バスが走っているようだ。バスを待っていたら、やって来たバスの経由地表示に、千住桜木 という、知っている地名が見えたので、ともかく、乗り込んだ。車内は、結構、混んでいたが、道路はまだ、それほど混んでいなく、通常の速度である。
 バスの運転手に尋ねたら、乗ったバスは、浅草方面に行くもので、千住桜木は、反対方向と言う。町屋駅前で、道路の反対側を走るバスに乗れば良かったことになるが、後の祭りである。
運転手は、北千住駅前に行きたいのなら、もっと便利な路線があるので、少し行った先で降りて、足立区役所行きのバスに乗り、千住2丁目 で降りよ、と言われた。国道4号線沿いの千住2丁目なら、よく知っており、そこから北千住駅までは、5分も歩けば行ける距離だ。

 運転手に教えられた通りに、浅草の目抜き通りの停留所(浅草公園六区)で下車し、信号を渉って、反対向きの、足立区役所行きを待った。程なく、その都バスがやって来たので、乗ろうとしたら、運が悪く、二人手前で、満員になってしまった。そのバスの運転手から、すぐ次のバスが、見えているので、それに乗れ、と言われた。疑うことなく、そのバスに乗ったのだが、乗ってから行き先を確認したら、足立区役所行きではなく、足立梅田町行きと分った。 これは、最初に乗って来たバスを、逆方向に走る路線だったのである。 
 結局、元の黙阿弥で、無情にも、暫く前に乗車した町屋駅前を通過し、道路も、かなり混んで来ている中で、当初の目的だった、千住桜木に、漸く、辿り着き、そこで下車した。
ここから北千住駅までは、一寸距離がある。別方向からくる北千住駅行きのバスを待ったら、程なくやって来た。不思議なことに、そこから北千住駅までは、殆ど渋滞も無く、国道4号線沿いの、千住2丁目も通って、無事、北千住駅前の西口広場に着いた。時刻は、夕方の、5時少し過ぎで、殆ど、日は暮れかかって、夕闇が迫っていた。

 此処まで乗ったバスについて、後日、うろ覚えの記憶を頼りに、都バスの路線と系統を、調べ、整理してみると、下図のようになる。

 都合2回、バスを乗り間違えたのだが、正しいルート(⇒)と、間違えた実際のルート(→)は、以下のようになる。
  ①⇒町屋駅前で、草41系統の、足立梅田町行きに乗って、千住桜木で下車、北千住
    駅前行きに乗ればよかった。
   →町屋駅前で、草41系統の、反対方向の、浅草寿町行きに乗ってしまった。
  ②⇒浅草公園六区で、草43系統の、足立区役所行きに乗り換え、千住2丁目で下車し、
    北千住駅前まで歩く積りだった。 
   →浅草公園六区で、元の、草41系統の、足立梅田町行きに、乗ってしまったので、
    千住桜木で下車し、北千住駅前行きに乗り換え。
 
よく見ると、駅ビルや地下鉄入り口のシャッターは降りていて、電車は、JR常磐線、地下鉄千代田線・日比谷線、東武線、つくばエクスプレス線、すべてが停まっている状態だ。
北千住駅の西口広場には、バス停が沢山あり、電車に乗れずに、バスやタクシーを待つ大勢の人達で、ごった返していた。タクシーは殆ど見当たらず、又、たまに、マイカーで迎えに来る人もいる。
 バス路線によっては、何度もやって来るバスもあるのだが、大半は、殆ど来ない。帰宅時にいつも乗っている、自分の目的の東武バスも、全く来ない。当該路線のバスを運行している、営業所の電話番号を知っていたので、同じバスを待っている人の携帯電話を借りて、そこへ電話してみたのだが、案の定、全然、電話が繋がらなかった。携帯電話は、通常なら大変便利なのだが、このような非常事態の時は、大幅な発信規制がかかった中で、呼が殺到するので、全く役には立たないのだ。
 近くの交番で、公衆電話の在り処を聞いたら、丸井ビルの横にある、と分ったので、電話しようと行って見たら、なんと、20人程が、行列して待っているではないか! 結局、バスの営業所に電話する事も、再度、自宅に電話する事も、諦めざるを得なかった。

 駅前に到着してから、かれこれ、2時間近くも待ったのだが、一向に、埒が明かない。暗くなると、気温も下がり、風も出てきた。バスを待つ人の列も、一人、又一人と減っていく。
7時少し過ぎになり、先程、携帯を借りた人などとの間で、歩いて帰宅する話が、持ち上がって来た。同じバス路線を利用する、いわば、バス仲間である女性3人が、一緒に行く、と言い出したのである。
 自分は、自宅から北千住駅までは、バスでは勿論だが、自転車でも、何度も来たことがあり、辺りが暗くても、安全で歩き易い、近道や脇道は、よく知っている。ただ、この所、腰痛が酷く、歩く事は、すっかり苦手になっている。自分一人だけでは、この距離を、歩いて帰る気には、到底、なれないのだが、仲間がおり、しかも女性が3人も一緒、というので元気が出た。足腰が痛くなって、歩けなくなったら、その時はその時と、歩いて帰る決心をしたのである。
 道はよく知っている事でもあり、女性連中の案内役を頼まれては、男としても、後には引けない面もある。近くに宿を探すなどは、全く考えなかったのである。 そして、いよいよ、4人で歩いて帰るにあたって、こちらは、腰痛で、足腰が良くないので、少し、ゆっくり歩いてくれ、と頼んだ。

 7時を少し過ぎて、北千住駅前を出発した。 裏通りを通って近道し、旧道の宿場町通りを抜けて、千住新橋の橋の下に来たので、螺旋階段を上り、バス通りの国道4号線に出た。 案の定、4号線は、車が連なっていて、殆ど、動かない状況だ。 北千住駅方向へ行くバスは、全く見当たらない。道理で、駅前でいくら待っていても、バスが来なかった訳だ。千住新橋を渡り、又、階段を下りて、何時も自転車で通る、近道に沿って進む。 
 東武線の五反野駅前に出る。このあたりが、道中の半ば位になるだろうか。ここを過ぎて、又、バス通りに出て、少し進んだところで、一人の御婦人が、自宅が近くなったからと、別れて行った。この人は、ここに引っ越して、まだ、半年程という。

 ここから、一行は3人になった。歩くつれづれに、聞いてみたら、相方の2人の女性は母娘で、住まいは、自分の住んでいる所の、ごく近くのようで、近隣の銭湯や、蕎麦屋の名前を、共通に知っていることから、面識はなかったのだが、すぐに、打ち解けられた。 この母娘は、その日は、北区王子にある病院に、夫君(父君)を見舞っている時に大地震に遭い、北千住駅まで来たようだった。
 つくばエクスプレスの六町駅も過ぎ、バスの終点である花畑車庫の横に到着。車庫の駐車場を覗いたら、そこには、バスは殆ど見当たらなかった。北千住駅前を出てから、終点の車庫に辿り着くまで、バス通りに出たり、脇道入ったりしたのだが、終に、一台も、目的のバスには出遭わなかった。一体、何台もあるバスは、何処に居たのだろうか? 当日、ハンドルを握った運転手の皆さんの、ご苦労の程が、偲ばれるというものだ。
 大変な思いをして節約できた、210円のバス代は、決して高くはないと感じた。

 ここを過ぎれば自宅も近い。母娘と別れた、2~3分後、漸くにして、終に、我が家の玄関前に到着である。 結局、歩く速度はゆっくり目だったが、腰痛も大したことなく、一度も休まずに、歩き続けた事となった。自宅に着いたのは、9時頃で、歩き始めてからの所要時間は、1時間50分位である。距離にすれば、6~7km位だろうか。
 地震後間もなくに、自宅には電話で通じていたので、家人は、そんなに心配はしていなかったが、北千住駅から、歩いて帰宅した、と聞かされ、大いに驚かれた。
普段、時計代わりに、持ち歩いている万歩計の、その日の歩数は、何と、1万6千歩以上にもなっていた。1日で、1万歩を越えたのは、初めてである。
 先日、近くの散髪屋で聞いた話では、あの日、新橋から、足立まで、夜通し歩いて帰った、と言う御仁もいるようで、それに比べたら、自分の場合は、小さい話ではある。
 
 急に、沢山歩いたので、その後、腰痛等が酷くなるのでは、と心配したが、不思議に、変化はなかった。この日がきっかけとなって、むしろ、歩く事に自信が付いた、と言えるかもしれない。2本の足で歩く事以外に、他に手段が無いという、切羽詰まった状況下では、そうと決心すれば、以外に大丈夫だ、ということだろうか。
 東北や関東の被災地の皆さんは勿論のこと、人それぞれに、3.11があろう。地下鉄の中で地震を感じてから、帰宅するまでに、色んなハプニングがあった、自分の3.11も、忘れられない日、となったのである。
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電波時計が戻った!

2011年05月11日 22時42分22秒 | 日記
2011年5月11日(水) 電波時計が戻った!


 自宅の電波時計が、ずれてしまったことは、一昨日に、当ブログの記事
    原発事故と電波時計 (2011/5/9)
に、したばかりである。ずれの原因は、原発事故に伴い、福島局からの、標準電波の送信が、停止しているためである。

 たまたま、一昨日夜のTVニュースで、福島局からの電波の送信を、一時的に再開する(9日夜から10日朝にかけて)ということを耳にし、大きく狂っていた電波時計を、夜間、外に出しておいた。翌朝、恐る恐る覗いてみたら、日付と時刻が、正常に戻っているではないか!
 今回正常化した方は、今日になっても、TVの時刻表示とも、ほぼ、合致しているが、以前から動いている方は、数秒進んでいる状況になっている。次の機会には、2台とも窓際に置いて、較正しなければならないだろう。
 
 今回正常化したもの              以前から動作中のもの

 余談だが、相模原市在住の、知人宅の電波時計は、東京より、かなり西に位置することから、九州局の電波を、ちゃんと受信できている、という。

 原発事故が、終息するまでの間、これからも、時々、電波の送信を行ってくれるようだ。電波時計は、停波中でも、自身のクオーツで、動作するが、僅かずつ、ずれてしまう。でも、そのずれが、時々、自動的に修正される、となると、一安心である。
 これまでは、当たり前の、無償の公共サービスだったのだが、無くなってみて、その有難さが実感できた、という、今回の事故ではある。
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原発事故と電波時計

2011年05月09日 17時12分09秒 | 日記
2011年5月9日(月) 原発事故と電波時計


 福島第一原発事故は、最初に水素爆発が起こった1号機の、建屋内に作業員が入って、作業ができる状況になって来たようで、本格的な冷却システムの構築に向けて、一歩前進という、久々の明るいニュースである。関係の皆さんの、奮闘を期待したい。

 去る5月4日のNHK朝のニュースで、原発事故の関連から、標準電波の送信が、停止している、ということを知って、驚いた。
 国内には、東日本をカバーする、福島の大鷹鳥谷山送信所と、西日本をカバーする、佐賀の羽金山送信所の、2か所が開設されていて、ここから、標準電波を送信している。
 このうち、福島では、原発事故に伴う避難措置等により、現在、電波の送信が停止中と言う、異常事態になっているようだ。福島の送信所では、地震直後、機器は正常だったのだが、高電圧を扱う安全のため、機器を停止し、送信を止めた上で、避難したと言う。その後、4月に入って、無人状態で、送信を再開したが、こんどは、落雷事故に遭い、機器が故障してしまったようだ。現在、危険区域に入っていて、立ち入りが制限され、修理ができないことから、復旧の見通しは立っていない、という。
 標準電波は、電波時計用だけでなく、各分野での、時間の基準として利用されているだけに、送信停止の影響は、大きなものがある。東京周辺は、西日本の送信所からの電波が届くか届かないか、丁度、境目付近の微妙な距離になる。
 
2か所の標準電波送信所(CITIZEN社 HPより)

 自宅には、2007年に記念品として頂いた、電波時計が2台あり、下記ブログで、触れたこともある。
    分表示が100進法の時計 出現!(2010/2/20)
    2秒ほどの時間遅れは大問題?  (2010/4/5)
以来、太陽電池式のCITIZEN製 と、乾電池式のSEIKO製 共に、大いに活用してきたところである。

 この内の、太陽電池式が、最近、時間や表示が、どうもおかしい、と思われることが何度かあり、外に出したら、表示が幾分鮮明になったりしたのだが、ニュースを聞いて、そうだったのか、とも、思った。
 こちらの時計について、その日の、5月4日に、思い切ってリセットし、屋外に出して、自動的に日時・時刻が合うのを待ったが、一向に変わらない。もしや夜間なら、雑音が少ないので、受かるのでは、と思い、外に出しておいたが、翌朝見ても、変わらなかった。東京では、残念ながら、九州からの電波は、受からないようだ。
 リセットした時に、1月1日12:00から始まったが、それ以降は、自前のクオーツ機能で動作して、そのまま、日時を更新している。
 一方の、乾電池式の方は、原発事故以降も、電波が停止していると思われるのに、内臓のクオーツ機能で、正常に動作しているようで、テレビの時刻表示とも合っている。

左 乾電池式 正常                右 太陽電池式 日時ずれ

 デジタルテレビ受像機での時刻表示は、先のブログ記事の頃は、直接、標準電波を受信しているのかな、とも、思っていた。今回、改めて調べたら、そうではなく、放送波の中に含まれている、時刻情報(TOT:Time Offset Table)から、受像機で処理し、時刻表示しているようだ。
 この場合、標準電波と同じ時刻源から、有線で時刻情報を貰って、地上デジタルテレビ放送波に、TOTとして組み込んでいる、と思われる。 
 
 電波時計は、標準電波が受信できさえすれば、正確な時刻が得られることから、クオーツ機能は付いているものの、手動で、日時や時刻を合わせる機能は、どうも、見当たらないし、説明書は、普段、見ないことから、行方不明になっている。一方、標準電波自体が止まる、という事態は、あり得ないこととして、殆ど、考えられていないようだ。 
 標準電波の送信が停止したのは、送信所開設以来、初めての事態、と言うが、今回の事故は、時間を得るのに、余りにも、標準電波に依存し過ぎている、と、言うことに対する、警鐘でもあろうか。
 今後は、2か所の送信所のカバー範囲を、ほぼ二重化するように、配置や出力を変えていくことも、必要なように思われる。  
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