日本語のなかには非論理的と思われる成句がある。
例えば、「墓を掘る」という。盗掘のことではない。亡き人のために墓づくりをするということ。
「タクシーを拾う」という。スーパーマンじゃあるまい。「お湯を沸かす」もある。沸騰するではないか。「ごはんを炊く」もある。おこげでも作るのか。といった成句に茶々を入れたくなる。
これらは非論理的ではあるが、ものの本には「目的語に動作・行為を意味する動詞が付くと、目的語が動作・行為の結果を表す」と説明している。
天ぷら(目的語)に揚げる(動作・行為を意味する動詞)が付くとてんぷら(結果)になるというわけだ。つまり、動詞は目的語の結果を先取りしていると思えば納得できそうだ。
でも「頭を刈る」はこのロジックで説明できない。また、「注射してきた」という言い方がある。これでは何々という名の誰かに注射したことになる。なぜ「注射されてきた」と言わないのだろう。
やはり非論理的な成句はあるにはある。
例えば、「墓を掘る」という。盗掘のことではない。亡き人のために墓づくりをするということ。
「タクシーを拾う」という。スーパーマンじゃあるまい。「お湯を沸かす」もある。沸騰するではないか。「ごはんを炊く」もある。おこげでも作るのか。といった成句に茶々を入れたくなる。
これらは非論理的ではあるが、ものの本には「目的語に動作・行為を意味する動詞が付くと、目的語が動作・行為の結果を表す」と説明している。
天ぷら(目的語)に揚げる(動作・行為を意味する動詞)が付くとてんぷら(結果)になるというわけだ。つまり、動詞は目的語の結果を先取りしていると思えば納得できそうだ。
でも「頭を刈る」はこのロジックで説明できない。また、「注射してきた」という言い方がある。これでは何々という名の誰かに注射したことになる。なぜ「注射されてきた」と言わないのだろう。
やはり非論理的な成句はあるにはある。