ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

「ストレイばーば」

2015-11-29 06:23:32 | 日記
オウム真理教の菊地直子元信者は、東京高裁で無罪判決を受けました。
『私が運んだ薬品で作られた爆弾で、
何の落ち度も責任もない方に、重篤な被害を与えてしまった。
本当に申し訳ありませんでした」
と、謝罪。

被害に遭い、家族の命を奪われた方や、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる方々の思いは
様々で、複雑ではないでしょうか。
しかし、「法」による裁きは、事実にしっかり依拠しなければならない事は
自明なことではあります。

17年間、「逃亡」と言う日々を、どのように生きて過して来たものか、
心の内までは知る由もありません。
心の内側は、本人自身にとっても、絶えず揺れ動く捉えきれないものではないでしょうか。

「オウム真理教」とは、何だったのか、
自らが正義とする信念の前では、「他者」とは、いかなる存在なのか、
本人も、改めて、考え続けてほしいと思います。
という、私もまた他人ごとに留まらず、考えねばならない事がらだと思います。

僧侶であり、芥川賞受賞作家としても活躍中の玄侑宗久さんは、『やすらぎ通信』の中で、
次のように記しています。
  《東洋では「自分」という言葉に象徴されるように、人間を「自然の分身」ととらえています。
   この自然というのは、コントロール不能なものです。
   ですからその自然の一部ということは、私たちは確固とした存在ではなく、
   揺れている存在だということです。
   揺れるとは、変化することですね。
   この、「人は変わる」という考え方があるからこそ、教育や修行をする意味が
   あるんだと思います。
   もっと言うならば、たとえ悪いことをしてしまったとしても、
   更生することができるということです。
   ………………………………………………………………………………
   ………………………………………………………………………………
  「志(こころざし)」が強すぎるのも自分を苦しめることになります。
   たとえば「俺は絶対に遅刻をしない」という志を立てて、それに縛られてしまうと、
   猛スピードを出してでも遅刻しないほうを選ぶことになる。
   それは危ないことですよ。
   だから志を少し小さくして、「私はたまにしか遅刻をしない」くらいにする。
   いわば「寸志」に表現を変えるくらいがいいのだと思います。
   少年は大志を抱きますが、中年は寸志くらいにしておくんです(笑)》

少々長い引用をさせていただきました。
私自身に、よく響いてくる言葉でした。
菊地直子さんも、オウム真理教に入った当初の頃は、
自己変革や社会改革などへの想いが強かったのかもしれません。

《少年は大志を抱きますが、中年は寸志くらいに》に。
笑いが込み上げてきます。
私などの後期高齢者は寸志ならぬ「微志」程度でいいのかも。

いやいや「志」などにこだわらず、五木寛之氏が述べられているように
  《人生の最後の締めくくりである「死」に向かって帰ってゆく時期。
   成長する中で身につけた知識と記憶を少しづつ世間に返してゆく。
   子供に還り、誕生した場所に還る》
という「遊行期」を生きるべきなのかもしれませんが。

はてさて、『べき』となると、これまたシンドイことに。
ストレイシープならぬ「ストレイばーば」を生きています。
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