30日㈫、午前中は「げんたろう新聞」を配りに、グランブルーや西町団地などへ。
昼前に綾部駅に二人のお客さんをお迎えし、「ひと粒」で昼ご飯を食べながら、綾部のことや私のこれまでの経験などを話し、先方の話も伺った。
そのお二人は、昨秋、神戸での会合で知り合った愛知県議会議員(春日井市選挙区)の末永けい君、地域政党「兵庫むすびの会」本部長の鵜丹谷清和さんで、綾部の神秘性に興味を持って、今日は綾部に足を運んで下さった。
そういう方が来られるとお話したら興味を持たれた綾部在住の藤元雅司さんに車を出していただいて、半日、4人で綾部を回った。
最初は下八田町の上谷厄神神社へ。
ここに参拝するのは私もまだ二度目。以前は2013年4月13日に世界救世教いづのめ教団鎌倉教会の松田妙子教会長ら御一行と共に出口三平さんにご案内いただいた。
その際にお聞きした上谷厄神神社の説明は下記の通り。
出口王仁三郎聖師が大本に入信し、最初に山家の鷹栖町や西原町で修行をしたが、神がかると大きな声を出し、暴れて床などを壊すので、次から次へと追い出された。
この上谷の厄神神社にたどり着いて、祭られている武内宿禰(審神者の神)に神様を下ろしたら、良い神も悪い神もすべて出てきてしまった。
それを浄めるために王仁三郎聖師の次の修行が始まっていく、という大本の最初に関わる重要な場所だそうだ。
戦後、出口王仁三郎、すみ夫妻が久しぶりに上谷を訪問したのが、4月8日だったので、今でも4月8日には大本の信者さん達がお参りをされるそうだ。
境内には出口王仁三郎聖師の歌碑が建立されていた。
続いては、上杉町の上杉姓氏発祥の地の石碑へ案内した。
綾部市は上杉謙信で有名な上杉氏の発祥の地である。鎌倉時代に親王を鎌倉にお連れし、将軍に就かせた功績で上杉庄を賜った藤原勧修寺重房が最初に「上杉」を名乗った。重房の孫が室町幕府を開いた足利尊氏の母である清子である。
続いて、足利尊氏が生まれたとされる安国寺町の景徳山安国寺へ。臨済宗東福寺派の名刹である。かやぶきの本堂がある。
文化庁の「森の寺」事業のことも説明。「森の寺」はコロナの間に生まれた事業だ。コロナだったからこそ、生まれたのかもしれない。
次は高倉町の高倉神社へ。平清盛を倒すために挙兵した高倉宮以仁王を祀る。
以仁王は宇治川の戦いで平氏に敗れ、源頼政と共に奈良に逃げる途中に戦死したと教科書には書いてあるが、綾部に残る伝説では頼政の領地である丹波に逃げ、綾部市里町で矢傷が悪化して亡くなった後、高倉神社に祀られたと伝わっている。亀岡市には頼政塚という頼政の墓が残っている。
渡辺氏、大槻氏、河北氏など、以仁王の十二人の従者は高倉神社を守るために神社から少し離れた綾部の各地に暮らし、今でもその子孫が神社のお祭りには集まって参拝されている。
続いて、星原町の星宮神社へ。ここは多くを語るまい。
そして、大本「梅松苑」へ。長生殿での参拝にご案内した。
大本、合気道、世界連邦、君の名は。、グンゼなどのことを説明した。
最後はグンゼスクウェアでグンゼ創業者・波多野鶴吉のことを説明しようと思ったが、火曜日はあやべ特産館が休業日だと思い出し、喫茶「日々」で今日の振り返りの話をした。
お二人には「まだまだ話がありますから、次は泊まりで来てください!」とお誘いしたら「ぜひ!」とおっしゃっていた。