玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(9)

2018年03月25日 | 読書ノート

 私は『ワシントン・スクエア』や『メイジーの知ったこと』を取り上げたときに、ヘンリー・ジェイムズのサディスムということを言った。それはつまり、登場人物に対する作者の酷薄さをまずは意味していた。
  必ずしもそれは登場人物たちを悲惨な境遇に追いやるということだけを意味しない。それは例えば、『ワシントン・スクエア』では父が娘について、「キャサリンに恋をする青年がいるはずはない」とまで惨い評価をするところに現れてくるような酷薄さである。
  あるいは『メイジーの知ったこと』では、メイジーの父と母との人を人とも思わぬののしりの言葉として表現されているものであった。つまりそれは登場人物同士の評価の問題に還元されるたぐいのものである。
『ある婦人の肖像』ではそのようなジェイムズの酷薄さは発揮されていない。イザベルは不幸な境遇に置かれてしまうではないかと言われるかもしれないが、それよりも登場人物同士が酷薄な対立関係に置かれることが、最後のギルバートとイザベルの場面を除いては存在しないことのほうが重要である。
 それまではイザベルとマダム・マールの関係も、イザベルとギルバートの関係もいたって良好なものであり、小説の最初から対立関係にあるわけではない。
 後期三部作では特に、登場人物たちはお互いがお互いを厳しく評価し合うという関係に置かれる。だから絶え間のない対立関係がそこでは生起してくる。
 それがなぜなのかということを考えたときに、心理小説というものの本質が見えてくる。つまり、人間と人間との関係性を心理のレベルにおいて捉えるということは、登場人物たちを日常性の安全地帯には決して置かないということを意味しているからだ。
 人間を心理のレベルに還元するとすれば、すべてが露呈されずにすまされることはあり得ない。なぜなら作者は、登場人物の発言の背後に隠されたものを、あるいは登場人物の表情やしぐさの裏側にあるものをこそ描こうとするのだからである。
 隠されたものを露呈すること、それが心理小説にとっての大きな仕事であって、人間同士の関係も互いの裸の評価のなかに置かれざるを得ない。
 それは日常性のレベルを超えた領域にまで達するのであって、裸にされた〝心理たち〟は互いに宥和することもできなければ、お互いの存在を許し合うことすらできない。だから〝心理たち〟は絶えざる緊張関係のなかにあって、いつでも対決の火花を散らす用意を調えている。
 以上のような心理小説のレベルは『ある婦人の肖像』では、実現されてはいないというのが私の意見である。
 ただし、この小説のなかに何回かイザベルへの求婚者として登場する、ウォーバトン卿とは違うもう一人の人物、キャスパー・グッドウッドがイザベルの前に現れる場面は、相当に酷薄なものと言わざるを得ない。
 グッドウッドの求婚はイザベルによって、ウォーバトン卿の場合よりもさらに厳しく拒絶されるのだが、そこでイザベルの心理が露呈する場面がある。最後にグッドウッドが現れて、既婚者であるイザベルになおも求愛するところ。

「なぜ戻らなければならないのです――」なぜあの恐ろしい絆に苦しまなければならないのです?」
「あなたから逃げるためよ」と、彼女は答えた。しかしこの言葉は彼女の感じたことのほんの一部しか現していなかった。他に彼女の感じたことは、自分はこれまでけっして愛されていなかった、ということであった。

「あなたから逃げるためよ」という言葉はあまりにも残酷である。グッドウッドに対する最後通牒であるにしてもあまりにも惨い。

 

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