玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(6)

2018年03月21日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズはこのイザベルの〝夜を徹してのもの思い〟の場面について、『ニューヨーク版序文集』の中で次のように書いている。長くなるがとても重要なところなので引用したい。

「そしてこの経験はやがて彼女にとっても画期的な出来事となる。本質に還元すれば、それはすべてを振り返って批判的に考え直すことに過ごした一夜以外の何物でもない。しかしそれは二十の〝出来事〟よりもさらに彼女を前進させる行為なのである。それは出来事に見られるあらゆる活気と絵画に秘められたあらゆる経済性とを兼ね備えるべく意図されたものであった。彼女は、消えゆく暖炉の傍らで、夜の深更に及ぶまで、認識の魔力に魅せられて、まんじりともせずに起きているが、やがてその認識にこの上もなく鋭く閃くものが続くことを彼女は悟る。それはただ彼女がまんじりともせず〝見る〟のを描写したものだが、それによって彼女の唯じっと認識を深める行為を、隊商に出食わした驚き、あるいは海賊であることが発見されたことにも匹敵するほどに、〝興味深い〟事件にしようという試みであった。」

 ここに書かれていることはヘンリー・ジェイムズの心理小説といわれる作品の要諦をあますところなく指し示している。つまり心理小説は〝出来事〟の代わりに〝見ること〟〝知ること〟を差し出すのである。
 普通の小説が登場人物の行為や、その結果として生起するものを作品の中核に据えるのに対して、ヘンリー・ジェイムズの小説は登場人物が〝見ること〟によって、〝知ったこと〟を中核に据える。
 ジェイムズが隊商との遭遇や海賊の発見を例として挙げているのは、冒険小説における〝興味深い事件〟だけを言っているのではない。そうではなく、より一般的な小説における〝興味深い事件〟もまた、隊商との遭遇や海賊の発見のようなものとして捉えられている。
 ここにはある転倒がある。行為の代わりに思考が、行動の代わりに知ることが、小説において事件を構成するという転倒である。これはヘンリー・ジェイムズの既存の小説に対する挑発的転倒と言ってもよいものであり、彼の心理小説といわれる作品のすべてに該当する構造である。
 ヘンリー・ジェイムズはそれを「出来事に見られるあらゆる活気と絵画に秘められたあらゆる経済性とを兼ね備えるべく意図され」なければならないと言っている。それはいわゆる出来事のドラマ性と絵画が一瞬のうちに再現してみせるドラマ性(だから〝経済性〟という言葉が使われている)の代替物とならなければならない。
『ニューヨーク版序文集』というのは、1907年から1917年にかけて刊行された「ヘンリー・ジェイムズ全集」全26巻に収められた作品のすべてにつけられた序文を一冊にしたもので、そんためにジェイムズは過去の作品すべてを読み直して、全面的補筆を加えるという途方もない作業を行ったのである。
『ある婦人の肖像』を書いてから25年後の作業であり、すでに心理小説の極北とも言うべき後期三部作を書き終えた後に書かれたものだから、あと知恵的な部分もあるかもしれない。
 しかしそのような方法意識の萌芽をジェイムズが持っていたことは確かなことであり、『ある婦人の肖像』の完成度の高さがそのことを証明している。
 ヘンリー・ジェイムズが言うように、イザベルの徹夜の批判的思考(分析的思考と言ってもよい)が、一つの事件となって彼女を前へと進めていく。第42章は彼女の転換点であり、その後の騙されていたのだという認識や、夫オズモンドとの対決、さらにはマダム・マールとの対決に直接につながっていく。
 この部分なくして『ある婦人の肖像』は成り立たないのである。しかし大事なことは、それがイザベルの思考であるだけではなく、作者であるジェイムズの分析的思考でもあるという二重性を持っていることなのである。

ヘンリー・ジェイムズ『ニューヨーク版序文集』(1990、関西大学出版部)多田敏男訳