玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(8)

2018年03月06日 | ゴシック論

 サラは誇り高き探索者として登場するが、アクセルの愛へのためらいを前にして肉の喜びへの誘惑者へと変容する。そしてさらに、世俗的な生への誘惑者へと変貌していく。しかもそれは無限の価値を持ったあの財宝を利用してということになるだろう。
 サラは世界中の魅力的な土地を次々と列挙して、そこに二人で旅をし、そこで二人で暮らそうとアクセルに誘いかける。この〝旅への誘い〟はこの全集本で4ページ以上にもわたっている。

「ねえ、いとしいひと! 隊商の群が通り過ぎるあの国へ、カシュミールやミゾールの棕櫚の葉蔭にいらつしやらない? ベンガルに行つて、市場(バザール)で、薔薇の花や、色々な織物や、白貂(しろてん)の毛色のやうに肌の白い、アルメニヤの娘たちをお選びにならない? 軍隊を招集して――若きシヤクサールの」やうにイランの北方に旌旗をお進めにならない?――それともいつそ、セイロン島に向つて船の帆を上げませうかしら。……」

 このような誘惑があくことなく続いていく。前にわたしは、財宝の世俗的価値が拡大してしまうと書いたが、それはこのサラによる誘惑の場面を想定してのことであった。サラが最後に次のように言うとき、サラの夢と誘惑はあの財宝を蕩尽することによってのみ可能なのだということが分かる。

「ねえ、わたしたちには至高の権力があるのですもの、今やわたしたちは、未知の王者に似てゐるのですもの、数ある夢の中からどのやうな夢を選ばうと構わないのですわ。」

 これらの夢は財宝の存在によっていつでも可能なものとなっている。しかし、実現可能なものを夢とは言わないし、財宝という裏付けによってそれらの夢は世俗的な価値に染まってしまうのである。だからアクセルはその誘惑を受け入れることができない。アクセルは突然さらに向かって次のように言う。

「その夢を実現したところで何にならう?……そのやうに美しい夢を!」

 サラはその言葉に驚いて「地上においでなさい、ここに来て生きて下さい!」と、アクセルを促す。そうだった。アクセルとサラはまだ地下の埋葬所にいるのだった。そこは地上的な価値を否定する場所でさえあった。アクセルは、ではさらに何を否定するのであるか。

「生きる? 否(いな)、だ。わたしたちの生命(いのち)は満され、――その杯は溢れてゐる!――如何なる砂漏刻(すなどけい)が今宵の時を計り得ようか! 未来?……サラ、この言葉を信じておくれ、わたしたちは今やそれを汲み尽したのだ。」

 アクセルは未来を全否定するのである。あるいは時間というものを全否定するのだと言ってもよい。つまり地下埋葬所において、アクセルはサラと愛を確認した以上、そのほかに何が必要かと問うている。またそこで未来のすべてが汲み尽くされたのであり、その後の時間は必要なものではない。
 例のVivre? les serviteurs feront cela pour nous.の科白はこの後間をおかずに発せられる。結局ふたりは毒をあおいで死ぬのであるが、それを心中と呼ぶことはできない。
 アクセルはサラと一緒に死ぬのではない。アクセルは自らの欲望と世俗的な夢とを道連れにして死ぬのである。それだけではない。アクセルの最後の科白は彼の悲劇的な価値観を、全人類に敷衍するものである。

「願はくは人類の、むなしき迷妄より、むなしき絶望より、はたまた消え去るために造られし肉の眼(まなこ)を眩惑するありとある虚偽より醒めて、――もはやこの陰惨なる謎の遊びを受け容れず、然り、冀(こひねがは)くは人類の、われらに倣ひ、汝(なんぢ)大地に別辞をさへも告げやらず、冷然と遁れ去りて、以てその最後をば遂げ得むことを。」

 

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