玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(4)

2018年03月19日 | 読書ノート

 最後の大団円はかくも感動的なものであって、ヘンリー・ジェイムズの後期の作品にはこれほどに感動的な場面はないと断言してもよい。
 ジェイムズは晩年には、多分〝感動的な愛の姿〟などといったものには興味を失っていたのであって、より技巧的に人間の心理の戦いを描こうとしていた。
『ある婦人の肖像』を書いたときには、ジェイムズはまだ若かったのである。しかし〝感動的な愛の姿〟といったものは19世紀のリアリズム小説に不可欠の要素であって、どんな作家だってそういうことはやっている。
 私はだからヘンリー・ジェイムズの初期の作品が凡庸だと言うのではない。『ある婦人の肖像』の長所をこの大団円に求めたっていい。それはドストエフスキーの『白痴』の大団円、殺されたナスターシャの死骸とともに、恋敵であったロゴージンとムイシュキンが一夜を過ごす場面に、この小説の一番の長所を認めることと同じであろう。
 とにかくラルフ・タチェットは死の床で初めて、従妹イザベルと本当のことを話し合い、お互いの愛を確認するのである。それが手遅れであるということが、その愛の交換に逆に強度を与える。 
老タチェット氏が望んだように、イザベルが結婚すべき相手はラルフだったのである。しかしラルフは結核に冒されていて結婚など不可能なことであった。そして彼女のことを知り尽くすこと、それがラルフの欲望となったのだった。ラルフはオズモンドよりも重要な人物である。そのことを映画がどこまで描いているのか知らない。とてもいい役だから、誰もがやりたくなるだろう。私にはマーティン・ドノバンの演技を観てみたい気は大いにあるのである。
 オズモンドのことはどうか。この男は最初、イザベルを愛したかもしれないが、誰もが自分に従わなければならないという考えを持つオズモンドは、彼女の馴致されない性格を憎むようになっていく。そしてオズモンドのラルフへの嫉妬は、イザベルが気づかなかったとしても真実の嫉妬であった。オズモンドはローマへやってきたラルフをイザベルがしきりに訪ねることに激しく嫉妬していた。それはラルフとイザベルの隠された愛情関係を見抜いていたからである。
 このようなオズモンドの気持ちを映画はどう描くのだろう。オズモンド役のジョン・マルコビッチはうまくやっているのだろうか。ただし、硬直した性格のオズモンド役にとって、マルコビッチという配役はもったいないような気がする。
 この作品に狂言回しのようにして出没するスタックポール嬢の存在は『ある婦人の肖像』に、ある種の軽快感を与えている。この作品のドラマを左右する人物ではないが、この人物抜きには映画もまた成り立たないと思う。
 彼女は先進的な女性ジャーナリストであって、言うまでもなくアメリカ娘。言ってみればデイジー・ミラーが少しだけ大人になったような女性である。誰もがこの女性を好きにならずにはいられないだろう。
この女性を演じたのはメアリー=ルイーズ・パーカー。デイジー・ミラーもスタックポール嬢も、アメリカの進んだ女性を代表するが、ヘンリー・ジェイムズがこのような女性たちに全幅の信頼を置いていたわけではないということはスタックポールのような女性をデイジー・ミラーのような女性に替えて、彼の小説の主人公とは決してなかったということによって明らかである。

 

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