玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(7)

2018年03月22日 | 読書ノート

 私は『金色の盃』の項で「了解の瞬間」ということと、それが心理小説の絶え間ない緊張感にあるカタルシスを与えるということを書いた。
 イザベルのもの思いのこの場面も、「了解の瞬間」としての要素を持っているだろう。彼女のまわりの錯綜した現実を「批判的に考え直す」ことによって、彼女は何かを察知するのであり、そこに「了解の瞬間」が訪れるのであるから。
 そしてそのような場面が『ある婦人の肖像』の中にはいくつかあって、いずれも読者にとってある種の快感を呼び起こすものとなっている。これもヘンリー・ジェイムズの小説の特徴の一つと言える。
 中でも記憶に残るのは、イザベルへの求婚者であったウォーバトン卿が、今度はイザベルの継子であるパンジーへの求婚者として現れる場面である。イザベルは最初その結婚に賛意を示すのだが、しかし一抹の不安を感じている。
 イザベルはウォーバトン卿との一対一の場面で、彼の目の中に彼の本当の気持ちを読み取るのである。その場面は次のように描かれる。

「彼女の眼が彼の眼と合い、二人はしばらくじっと見つめあっていた。もし彼女が確かめたいと思っていたならば、そういう気持ちを満足させるものを認めたのだ。彼女は彼の眼に、彼女が自分のことで不安を覚えていたこと――おそらくは恐怖さえ感じていたことが、ひらめくのを見たのだ。希望ではなく、疑念が現れていたのだが、ともかく、彼女が知りたいと思っていることがわかった。彼がパンジーと結婚したいということには、彼女自身にもっと近づくという意味合いが含まれているのを彼女が見抜いたこと、あるいは、見抜いた場合、彼女がそれに不安を覚え、自分の体面を危うくすると考えていること、これは少しでも彼に気づかせてはならなかったのだ。」

回りくどい表現はいつものことだが、これは少しでも真実に近づこうというイザベルの、あるいは作者の意図を示している。人間と人間との関係の複雑さの一端に取りつこうとする熱意が、表現の回りくどさを生じさせる要因なのである。
 しかしここでのイザベルの〝了解〟は決定的であって、以降彼女はウォーバトン卿とパンジーの結婚に賛成できなくなる。それはまた夫ギルバートとの対立を激化させる要因ともなっていく。
 もう一カ所挙げておくとすれば、第49章でイザベルがマダム・マールと一対一で対決し、本当に騙されていたことを確信する場面となるだろう。イザベルはマダム・マールの顔だけから突然のように確信を得るのである。

「イザベルは座ったまま、彼女の顔を見上げていて、立たなかったが、その顔には真相を知りたいというはげしい願いが現れていた。しかし客の眼の光からは何もわからず暗闇同然に思われた。
まあ、たまらないわ」と、彼女はやっとつぶやくように言ったかと思うと、椅子の背によりかかり、両手で顔をおおった。タチェット夫人の言ったとおりであったという思いが、高波のように彼女を襲ったのであった。マダム・マールによって結婚させられたのだ。彼女が手を顔から離す前に、この夫人は部屋を出て行った。」

 いずれもイザベルにとっては酷薄な事実を了解する場面であり、言うまでもなくカタルシスが与えられるのはイザベルにではなく、読者に対してである。

 

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