玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(9)

2018年03月07日 | ゴシック論

 アクセルの価値観をこのように全人類に拡張して見せる考え方は大胆かつ破滅的である。しかし、この徹底ぶりこそアクセルという人物造形の最大の要であろう。アクセルは全人類に心中を迫っているのだから。
 エドマンド・ウィルソンは『アクセルの城』で、このようなアクセルについて、次のように言っている。

「リラダンのこの超夢想家が、当時のみならず今日も、象徴派のあらゆるヒーローたちの典型であることは、容易に見てとられるであろう。」

 ウィルソンはさらにこの象徴的な主人公の末裔として、ウォルター・ペイターの「瞑想的、非行動的なメーリアス」や、ジュール・ラフォルグの「ローエングラン」、ステファン・マラルメの「『イジチュール』に出てくるハムレットともいうべき人物」や、ジョリス=カルル・ユイスマンスの「デ・ゼッサント」を挙げている。
 さらにウィルソンは象徴主義運動の文学史的位置づけへと進んでいく。

「象徴主義の運動は十九世紀自然主義の解毒剤であり、ロマン主義の運動は十七,十八世紀の新古典主義の解毒剤であった。」

 このような文学史的位置づけについて、わたしは論評することができないが、「解毒剤」という言い方はある意味逆説的である。「解毒剤」が毒を無力化して人間を快癒へと導くものであるとすれば、自然主義よりも象徴主義の方が健全であり、ロマン主義の方が新古典主義よりも健全だということになる。
 しかし、どう考えてもこの構造は逆である。新古典主義の方が狂熱の中に生きようとしたロマン主義よりも健全であり、自然主義の方が社会からの逃亡を図る象徴主義よりも健全であったことは明白だからだ。
 ウィルソンはそんなことは分かっていて逆説的に語っているのだろう。だから次のように議論を進めていく。

「ロマン派の特徴が、愛、旅行、政治といった、経験それ自体のために経験を求めること、人生のさまざまな可能性をためすことにあったのに対して、象徴派は、同じく公式を嫌い、同じく因習を捨てながら、自分たちの実地訓練を文学の領域だけに限って進める。そして、彼らはまた、本質的には探検家でありながら、ひたすら想像力と思考の可能性だけを探検する。」

そしてウィルソンはアクセルという人物造形がもたらした文学史上の意味を次のように総括する。
「象徴派は、終局的には、ちょうど象徴派の代弁者アクセルが人生の舞台を一変させたように、文学の領域を、客観的なものから主観的なものへ、社会とともにする経験から孤独においてかみしめられるべき経験へと、完全に一変させるであろう。」

 このようにしてアクセルは、今度は二十世紀の文学においてその後継者を生み出していくだろう。ウィルソンが挙げているのはポール・ヴァレリーのテスト氏であり、『失われた時を求めて』におけるマルセル・プルーストであり、ジェイムズ・ジョイスのブルームである。
『アクセルの城』でウィルソンが劇的に明らかにしたのは、マルセル・プルーストとジェイムズ・ジョイスがなぜに偉大であったかということであった。プルーストとジョイスの主人公は、アクセルのように現実というものを否定し、主観の世界への探究を徹底させたのである。

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