玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(4)

2018年03月02日 | ゴシック論

 それにしてもなんたるプライドであろう。私はこれまでに、これほどに精神の矜持というものを披瀝した文学作品を読んだことがない。
 ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』や『残酷物語』を読んでも決して得られない、彼の美質がいかんなく発揮された作品なのである。エドマンド・ウィルソンがその象徴主義文学についての評論集のタイトルとしたことの意味が、否応なく理解される。
 アクセルの矜持は俗世間の見解を前にしても、国家を前にしても、あるいは〝萬民の福利〟という脅迫を前にしても、微塵も揺るがない。それは彼がすでに〝生きること〟を放棄しているからであって、そんな人間にとって世界がおよぼす脅迫などは、何物でもないからである。
 さて、決闘開始の前にカスパルは次のような質問をアクセルに対して発している。

「わたしは何処にゐるのか、そして君は何者なのか。」

 この質問は軽薄な人物としてのカスパルにしては本質的なものであって、むしろアクセルに真実を語らせるべく、作者が用意した質問だといえる。カスパルは「何処にゐるのか?」

「――君は夜がその百里を蔽い包むたぐひなき「森」の中にゐる。その森には危険な騎兵銃をもつ二萬の森林看守が住んでゐて、――彼等は先祖代々わが家に忠節を尽した血から生れ、かつては兵士であつた。――わたしはその中心となり、すでに三度、敵の包囲を却けた、いと古りし石造の館にあつて、見張りをしてゐる。」

 むしろ問いは「アクセルは何処にゐるのか?」であってもよかったであろう。アクセルは広大な森に守られた石造の館に住んでいる。その森は国家の包囲をも却けることができる。つまり広大な森と石造の館は、アクセルの自意識を守る強固な要害の隠喩なのであって、それを文字通りに読むことはできない。アクセルは本質的な質問に真正面から答えているのである。
 そして「アクセルとは何者なのか?」

「《わたし》の方はどうかと申せば、相当に御し難き夢想家だ、とごく簡単に言つて置かう、(中略)――多分君も聞いたことがあると思ふ……人呼んで「世界の屋根」といふかのシリア山上に築かれた、アラモン城の奥深くから、遙かな諸国の王者をして来賓の余儀なきに至らしめてゐた、遠い昔の一青年のことを。その人物は、たしか、「山の老翁」と呼ばれてゐたと思ふが。……ところで、このわたしは、「森の老翁」だ。」

 訳者注によれば「山の老翁」というのは、回教の一派イスマエル教の創始者、ハッサン・イプン・サバー(1050-1124)で、彼は「難攻不落の城塞に拠り、神秘的方法によって多数の刺客を服従せしめ、1107年「シリア暗殺団を組織、諸国の王を脅かしたという伝説的超人」であるという。今日で言えばイスラム国の指導者のようなものか。
 その前にアクセルは「相当に御し難き夢想家」であるのだが、その辺の詳しい説明はなされない。カスパルに聞かせても分かりはしないだろうが、もう少し披瀝して欲しかった。しかし、その点についてはアクセルとその師ジャニュス先生との対話や、大団円におけるサラとの対話の中で十分に展開されていると言うこともできる。
 アクセルは何者にも屈することのない御し難き夢想家である。今はそれをアクセルを規定する言葉だとしておこう。
 この後予定通り決闘が行われ、カスパルはアクセルの剣に心臓を刺し貫かれて死ぬ。カスパルは死ぬ前にアクセルの本質的な言葉を聞いたのである。

 

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