玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(2)

2018年03月17日 | 読書ノート

『ある婦人の肖像』でヘンリー・ジェイムズが悪役として登場させている二人の人物、ギルバート・オズモンドとセリーナ・マールの役は極めて重要である。特にオズモンドと共謀しながらも、最後は悲惨な末路をたどるセリーナ・マールの役は重要である。
 なぜならマダム・マールはイザベルを騙したように、映画の観客をも騙さなければならないからだ。最初マールはイザベルにとって理想の友人として登場するが、最後は憎むべき人、あるいは哀れむべき人としての姿を晒すのだから。
 オズモンドは硬直した悪人として二面性を持っていなくても構わないが、マダム・マールの方はそうはいかない。単に最後に化けの皮が剥がれる善人を装った悪人であってはいけない。マダム・マールは最後にはオズモンドに捨てられ、実の娘との別れを余儀なくされるのだから。
 この役が最もむずかしい役であり、円熟した女優によって演じられる必要がある。この役はバーバラ・ハーシーが演じているが私はこの女優を知らない。私の要求を満たしてくれているだろうか。
 だからマダム・マールが最初に登場する場面、イザベルの叔母の屋敷に突然現れて、一人でベートーヴェンの曲をピアノで弾いて、イザベルとの出会いを果たす場面は、映画には欠かせないものとなる。これがイザベルの不幸な人生を決定づける第四の人物が登場する場面だからである。
 この場面、マダム・マールは謎めいた魅力的な女性として登場しなければならない。こんな雰囲気を表現できる女優はそうはいないだろう。悪役であってもある悲しみを背負っていなければいけないからだ。しかしこの役は、女優にとって演じがいのある役であるはずだ。この小説の中で最も陰影に富んだ人物だから。
 そしてマダム・マールがギルバート・オズモンドと親しく密談を交わす場面。ここは後にイザベルが二人に騙されたのだということを、その場面の記憶を通じて察知するところであり、単に二人の悪人の謀議ということであってはならない。この場面は映画の一場面としてどう撮るのがいいのか、私には分からない。
 イザベルが二人に騙されたのだと察知する場面も重要になってくる。映画ならイザベルの独白として描くところだろうか。この場面はイザベルがオズモンドと決定的な対決をする場面につながるのであり、彼女の覚醒として描かれなければならない。ニコール・キッドマンはどう演じているのだろう。
 そしてイザベルとオズモンドの対決の場面。お互いの憎悪と憎悪が激突する場面だが、決定的な決裂であってはならず(最後にイザベルはオズモンドのもとへ帰っていくのだから)、なおかつお互いの憎悪は決定的なものでなければならない。
 こんなむずかしい場面をどうしてヘンリー・ジェイムズは書き、映画はそれを再現しようとするのだろう。映画でこの場面は当然必須なものであるが、この激烈でありながら微妙な対決の場面を映画では観たくないという気さえする。
二人の対決は二人の住むローマへ、ラルフ・タチェットの危篤を知らせる電報が来たことによっている。イザベルはオズモンドの強い反対を押し切って、ラルフのもとへ向かうのだが、その前にオズモンドの娘パンジーが入れられた修道院に面会に寄る場面があり、そこでは絶望の底にあるマダム・マールとの出会いが待っている。
 この場面も映画にとって欠かせないのであり、ここではパンジーの実の母であるマダム・マールと、継母であるイザベルとが最後の対決を行う。ここも微妙な場面であり、考えてみればパンジーにすかれ愛されている継母であるイザベルと、実母とは知らずにパンジーに嫌われているマダム・マールとの交差の場面なのである。


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヘンリー・ジェイムズ『ある... | トップ | ヘンリー・ジェイムズ『ある... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書ノート」カテゴリの最新記事