玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(8)

2018年03月23日 | 読書ノート

 前に心理小説の特徴として、登場人物を一対一で対決させる場面の多用ということを言った。特にヘンリー・ジェイムズの場合それは『金色の盃』において顕著であり、図式化さえしていたことを思い出してもよい。
『ある婦人の肖像』にも一対一の対決の場面はあるが、それほど多くはない。一対一で登場する場面でもそれがすべて対決の場面というわけではない。ほとんどの場面を一対一の対決として描いた『金色の盃』とは違うのである。
 この小説で一番対決としての緊張感を発揮しているのは、第51章のギルバートとイザベルとの二人だけの場面だろう。ラルフ・タチェットの危篤のためにイギリスへ行くことをめぐってギルバートとイザベルは決定的な対決をする。
 後期三部作でこのような場面は、短めの会話と長大な分析的記述によって特徴づけられていたが、ここにはそうしたものは見当たらない。一般の小説におけるように、地の文と会話文との均衡はほぼ保たれている。
 地の文に分析的記述が入ってくるのは、若いときからのジェイムズの作品の特徴であるが、それがむやみやたらと引き延ばされることはない。だから読みやすいのだが、後期三部作のあの執拗さに馴致された者にはかえって物足りなさが感じられるのである。
 その物足りなさはどこから来るのだろうか。ヘンリー・ジェイムズの執拗な分析的記述には、それが会話と会話の間に侵入してきて会話文の間に、複雑きわまりない緊張感を生み出すという効果がある。
 読者はある会話の表面だけではなく、そこに隠されていること、あるいはそこにほのめかされていること、さらにはその会話が次の会話内容の先回りをして、それを待ちかまえていたり、次の会話のもたらす攻撃に対する防御の役割を担ったりということを、読んでいくのである。
 そこには会話と会話の間をつなぐタイトロープが張られていて、読者はその上をわたっていく。緊張感に満ちた危うい体験を読者は強いられる。
『ある婦人の肖像』ではそのようなことは起こらない。それはある意味で、ギルバートとイザベルが本音で語りすぎてしまっていることに起因している。彼らは後期三部作の登場人物のように、お互いに自分自身を隠しながら相手の腹を探っていくというようなやり方を知らないのである。
 だから第51章のギルバートとイザベルの対決は、全面的衝突を描くだけで、もの足りないということになる。例えば次のような二人のやりとりは、直接的すぎて面白くない。

「しっかりと結びあっているとか、あなたが満足していらっしゃるとか、なぜそんなことが言えるのでしょう? 私の裏切りを非難なさっていて、どうして結びあっているのでしょう? 心のなかにおそろしい疑いしか持っていらっしゃらないのに、どうして満足していらっしゃるのでしょう?」
「そういった欠点はあっても、われわれがちゃんといっしょに暮らしているからさ」
「私たちはちゃんといっしょに暮らしてはおりませんわ」

後期のヘンリー・ジェイムズならためらうことなく、この三つの会話文の間に長大な地の文を挿入するだろう。この部分だけで2から3頁を必要とするだろうし、そのことによって二人の対決の緊張感ははるかに高められるだろう。
私は『ある婦人の肖像』を傑作と認めはするが、やはりまだヘンリー・ジェイムズの特有の手法は現れてはいないという印象を持たざるを得ないのである。

 

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