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日本共産党の「社会主義」と「共産主義」は同じ?

2018-09-11 09:03:14 | 日本共産党
 共産党千葉県中部地区委員会地区委員である大野たかし氏のこんなツイートを見た。

ブログを更新しました。「日本共産党が目指す共産主義社会について」
http://korede.iinoka.net/?p=1227
「共産主義」に対して悪印象を持つ人は少なくありませんが、日本共産党の目指す共産主義は、そのような先入観と全く異なるものです。その違いを日本共産党綱領を元に書きました。


 そしてこんな画像が貼ってある。



 「日本共産党が目指す共産主義社会」では
・私有財産は保証される。
・反対政党を含む政治活動の自由を保証。
・労働時間の短縮・社会の全ての構成員の人間的発達を保障。
とある。

 すごいこと言うなあ。党綱領のどこにそんなことが書いてあるんだろうか。党規違反じゃないか。

 大野氏のリンク先のブログを読んでみると、さらにこんなことが書かれている。

(※日本共産党綱領では、目指すべき未来社会を「社会主義・共産主義」もしくは「社会主義」という言葉を使っていますが、本稿では便宜上「共産主義」と表現します。意味に違いはありません。)


これはひどい。綱領上、社会主義社会と共産主義社会は異なる。共産主義社会の第1段階が社会主義社会じゃないのか。

 と思ったが、綱領を確認してみると、「共産主義」の語が用いられているのは「社会主義・共産主義」としてだけで、単独では用いられていない。
 何と、2004年の第23回党大会で採択された現綱領で、共産主義社会の第1段階を社会主義社会とする規定は改められたのだそうだ。
 同大会での不破哲三・中央委員会議長の「綱領改定についての報告」で詳しく述べられている。長くなるが引用する。

レーニンに由来する国際的な“定説”の全面的な再検討

 第二に、現代の諸条件のもとでの社会主義・共産主義の社会への道を探究するためには、科学的社会主義の先人たちのこの分野での理論的な遺産を発展的に整理し、とりいれることが必要でした。

 この分野は、率直に言って、国際的にみても遅れた理論分野の一つでした。とくにソ連が「社会主義社会の完成」を宣言した後には、この分野でのマルクス、エンゲルスの理論的遺産の研究も本格的にはおこなわれませんでした。未来社会の理論として支配的だったのは、レーニンがマルクスの「ゴータ綱領批判」をよりどころに、著作『国家と革命』のなかで展開した共産主義社会の二段階発展論でした。

 この二段階発展論というのは、未来社会を、生産物の分配という角度から、“能力におうじてはたらき、労働におうじてうけとる”という原則が実現される「第一段階」と、“能力におうじてはたらき、必要におうじてうけとる”という原則が実現されるようになる「高い段階」とに分けるもので、通例、この「第一段階」が社会主義社会、「高い段階」が共産主義社会と呼ばれてきました。

 この二段階発展論は、とくにスターリン以後、国際的な運動のなかでも、未来社会論の“定説”とされてきました。とくにソ連では、この“定説”には、社会主義の立場を踏み外して別の軌道に移ったソ連社会の現状を、そのときどきに、「社会主義社会はついに完成した」とか、「さあ、共産主義社会の移行の時期が始まった」とか、そういう合言葉で合理化する役割さえ与えられました。

 しかし、科学的社会主義の学説をつくりあげた先人たちの未来社会論は、この“定説”の狭い枠組みには到底おさまらない、はるかに豊かな内容をもっています。私たちがその全内容を発展的に受けつごうとするならば、レーニンのマルクス解釈の誤りを是正することを含め、従来からの国際的な“定説”を根本的に再検討することが、避けられない課題となってきます。

 この問題を全面的に探究するなかで明らかになった主な点は、つぎの諸点であります。

 第一点。生産物の分配方式――まず「労働におうじて」の分配、ついで「必要におうじて」の分配、こういう形で生産物の分配方式のちがいによって未来社会そのものを二つの段階に区別するという考えは、レーニンの解釈であって、マルクスのものではありません。マルクスは、「ゴータ綱領批判」のなかで、未来社会のあり方を分配問題を中心において論じる考え方を、きびしく戒めています。

 第二点。マルクスもエンゲルスも、未来社会を展望するさいに、特定の形態を固定して、新しい社会の建設に取り組む将来の世代の手をそれでしばってしまう青写真主義的なやり方は、極力いましめました。彼らは、分配方式の問題もその例外とはしませんでした。

 第三点。マルクスが、党の綱領に書き込むべき社会主義的変革の中心問題として求めたのは、分配問題ではなく、生産様式をどう変革するか、でした。それは具体的には、生産手段を社会の手に移すこと、すなわち、「生産手段の社会化」という問題でした。「生産手段の社会化」は、この意味では、未来社会を理解するキーワードともいうべき意義をもっています。

 第四点。マルクスもエンゲルスも、未来社会を人類の「本史」――本来の歴史にあたる壮大な発展の時代としてとらえました。だから、「必要におうじて」の分配という状態に到達したら、それが共産主義社会の完成の指標になるといった狭い見方をとったことは、けっしてありませんでした。マルクス、エンゲルスが、その未来社会論で、社会発展の主要な内容としたのは、人間の自由な生活と人間的な能力の全面的な発展への努力、社会全体の科学的、技術的、文化的、精神的な躍進でありました。

 以上のような理論的な準備にたって、私たちは第五章の作成にあたりました。

未来社会の呼称について

 順を追っての解説はしませんが、改定した綱領案のいくつかの中心点についてのべます。

 綱領改定案の未来社会論にもりこんだ新しい見地の大要はつぎのとおりであります。

 第一は、未来社会の呼び名の問題です。

 改定案では、これまでの綱領にあった社会主義社会、共産主義社会という二段階の呼び名をやめました。マルクスやエンゲルスの文献では、未来社会を表現するのに、共産主義社会という言葉を使った場合も、社会主義社会という言葉を使った場合もあります。しかしそれは、高い段階、低い段階という区別ではなく、どちらも同じ社会を表現する用語として、そのときどきの状況に応じて使ったものであります。

 改定案は、その初心にかえる立場で、呼び名で段階を区別することをやめ、未来社会をきちんと表現するときには、「社会主義・共産主義社会」と表現することにしました。

 このことは、社会主義、あるいは共産主義という呼び名を、今後単独では使わないということではありません。綱領の改定案そのものにも、「社会主義」という表現を単独で使っている場合が少なからずあります。

 この呼び名の問題をめぐっては、今後のことを考えても、かなり複雑な状況があります。

 古典でも、マルクスの『資本論』では、未来社会は「共産主義社会」と表現されています。エンゲルスの『空想から科学へ』や『反デューリング論』では「社会主義社会」と表現されています。さきほども言いましたように、二つの呼び名は同じ意味で使われています。

 また、日本でも世界でも、両方の呼び名が使われる状態が続くでしょうが、おそらく多くの場合、従来型の解釈で、未来社会の異なる発展段階を表すものとされる場合が多いでしょう。

 そういうなかで、日本共産党綱領が、未来社会について、「社会主義・共産主義社会」と二つの呼び名を併記する表現を使うことは、私たちが「社会主義」も「共産主義」も同じ未来社会の表現だという新しい立場――もともとは一番古い立場なのですが、その立場にたっていることを明示するという意味をもちます。

 ここに主眼があるわけですから、共産党員が議論する場合、どんな場合でも、二つの言葉を並べて言わないと綱領違反になるということではないことを、理解してほしいと思います。(拍手)

 なお、“定説”とされてきた二段階発展論をやめたということは、未来社会がいろいろな段階をへて発展するであろうことを、否定するものではありません。

 マルクスが、未来社会とともに、人類の「本史」が始まるとしたことはすでにのべました。この「本史」は、彼らの予想でも、それまでの人類の歴史の全体をはるかにこえる長期の時代となるものでした。当時は、太陽系の寿命が数百万年程度に数えられていた時代でしたが、エンゲルスは、ほぼそれに対応するものとして、人類の「本史」を「数百万年、数十万年の世代」にわたって続くものとして描き出しています。現在、人間がもっている自然認識によれば、人類の未来を測る時間的なものさしは、当時よりもはるかに長い、数字のケタが二ケタも三ケタも違うものとなるでしょう。

 当然、そこで展開される人類の「本史」には、いろんな段階がありうるでしょう。いまからその段階についてあれこれの予想をしないというのが、マルクス、エンゲルスの原則的な態度でした。私たちも、この点は受けつがれて当然の態度だと考えています。


 そして、しんぶん赤旗は2004年の記事でこう書いている。

社会主義と共産主義の違いは?

 〈問い〉 社会主義と共産主義の違いについて教えてください。(愛知・一読者)

 〈答え〉 日本共産党は今年一月の第23回党大会で綱領を改定し、社会主義社会と共産主義社会を区分してとらえる、二段階論はとらず、一つの社会の連続的な発展としてとらえる立場を明確にしました。

 未来社会について、これまでは、生産物の分配の仕方を基準にして、「能力に応じて働き、労働に応じて受けとる第一段階」=社会主義と、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」という「高い段階」=共産主義という区分でとらえることが国際的な“定説”でした。

 しかしこれは、科学的社会主義の学説をつくりあげたマルクスやエンゲルスの考え方ではなく、レーニンが『国家と革命』のなかで展開したもので、のちにスターリンらによって、ソ連社会を美化する道具だてとして最大限に利用されました。

 マルクスやエンゲルスが、未来社会の中心的問題としたのは、分配問題ではなく、生産様式の変革=「生産手段の社会化」にありました。

 日本共産党は、今回の綱領改定にあたり、「レーニンのマルクス解釈の誤りを是正することを含め、従来からの国際的な“定説”を根本的に再検討」(「綱領改定についての不破議長報告」)し、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と、明確に記しました。

 マルクスやエンゲルスは、用語上も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、状況に応じて使っていました。日本共産党も今後は、「社会主義」「共産主義」の二つの用語を同じ意味で使うことにし、未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現することにしています。(湯)

 〔2004・5・29(土)〕


 いや、こんなことになってるとは知らなかった。
 私は2年ほど前、共産党が破防法の調査対象とされていることを批判したのをきっかけに、現綱領を真面目に読んでみたのだが、この点には不覚にも気づかなかった。

 マルクスやエンゲルスが「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、ねえ。
 だったら、『共産党宣言』は、社会党宣言でもよかったのだろうか。
 「共産党」という党名はレーニン時代に設けられたコミンテルンの支部を意味するものだから、日本共産党も、別に「日本社会党」に改称しても差し支えないことになるが、どうか。

 仮に、マルクスやエンゲルスが「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で使っていたとして、だから日本共産党も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で使うことにするというのは、まあわかる。
 しかし、「未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現する」というのは、理解できない。何故なら、マルクスやエンゲルスはそんな珍妙な表現をしていないからである。マルクスやエンゲルスがやったというように、状況に応じて使い分ければよい。そうしないのは、上記の理由のほかに、もっと別の意図があるからではないだろうか。

 それにしても、こんな珍論が何の抵抗もなく受け入れられ、それが十数年も続いている(もっと続くのだろう)。つくづく、異様な政党であると思う。

(続く)



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