前回の記事で取り上げた長谷部・杉田対談の末尾。
現状追認のための改憲もまかりならんとおっしゃっている。
こうした主張はこの両教授だけでなく、安倍首相が加憲論を主張しだしてからの、朝日新聞の論調でもある。
首相のビデオメッセージを受けて、5月4日付の社説「憲法70年 9条の理想を使いこなす」は早速こう批判した。
さらに、5月9日付の社説「憲法70年 9条改憲論の危うさ」はこう踏み込んだ。
だが、どちらの社説も、首相がビデオメッセージで述べた次の太字の部分に触れていない。
そのとおりではないかと思う。
多くの憲法学者や一部の国政政党が今なお自衛隊違憲論を唱える中、明文化するのは十分意義のあることではないか。
一昨年の安保法制の議論の中、憲法学者の多数が、安保法案のみならず、自衛隊をも違憲と見ていることを紙面で報じなかった朝日新聞にとっては、直視したくない事実かもしれないが。
私が、小学生の頃、憲法について学び、そして自衛隊についても知ったとき、まず思ったのは、これは憲法違反の存在ではないかということだった。
実際、私が通った小中高の教師は現場でそのように教えていたと記憶している。
純真な私は、憲法に反する自衛隊はケシカラン、自分が裁判官になったら、違憲の判決を出してやるのになどと思ったものだ。
やがて、年を経て、冷戦の現実や、解釈改憲の経緯などの知識が増えるにしたがい、自衛隊はあっていい、それをあいまいにしている憲法こそ改正すべきだと思うようになった。
それは今も変わっていない。
というより、非武装中立論を唱えた社会党が健在ならいざしらず、野党第一党が自衛隊合憲論に転じてもう長らく経つというのに、未だにその程度の改正すらできないことに一国民として情けなく思う。
何故なら、それは、国民が憲法と実態の乖離を容認しているということだからだ。
国民主権の法治国家として恥ずかしい状態であることに気づいていないということだからだ。
北朝鮮や中国のように 憲法が飾りであってもかまわないと考えているということだからだ。
自衛隊を憲法に明記すべきだという考えは、これまでにも多くの心ある方々が唱えてきたことだ。
例えば、舛添要一は、東京都知事に当選した頃に出版した『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)で、日本国憲法改正草案(2012)を批判しながらも、
と述べていたし、民進党の野田佳彦幹事長も、民主党への政権交代の直前に出版した『民主の敵』(新潮新書、2009)で、
と述べている。
民主党政権で内閣官房長官など要職を歴任した社会党出身の仙谷由人も、2004年の講演では次のように述べていた(太字は引用者による)。
鳩山由紀夫も、2005年に出した「新憲法試案」では
とする一方で
と、自衛「軍」の保持を明記していたし、民主党の政権下野後の2013年に枝野幸男・元内閣官房長官が公表した改憲試案でも、現行の9条はそのままに、9条の2と9条の3を追加して、自衛権を行使する実力組織(名称は明記していない)の保有と国連平和維持活動への参加協力を明記するとしていた。
朝日新聞や長谷部・杉田両教授をはじめ、安倍政権批判者はよく「立憲主義」を口にするが、立憲主義とは、単に彼らが言うように、国民が憲法によって国家権力を縛ることだけを指すのではない。国民が制定した憲法に従って国家が運営されることが立憲主義である。
自衛隊のような最強の実力組織が、憲法に明記されていないなどということがあってはならない。何故なら、それこそいっときの多数派によって、恣意的な運用がなされてしまうおそれがあるからだ。
なのに、朝日のような大新聞が、第2次安倍内閣発足以後、安全保障や憲法に関して何とも時代錯誤的な論調をとり続けていることに、私はひどく失望している。
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杉田 現憲法の「個人」を「人」に変えた自民党憲法改正草案はその意図を如実に示しています。ただ安倍首相は草案を勝手に棚上げし、9条に自衛隊の存在を明記する加憲を主張し始めた。自衛隊を憲法に明確に位置づけるだけで、現状は何も変えないと。
長谷部 首相はそう言い張っていますが、自衛隊の現状をそのまま条文の形に表すのは至難の業というか、ほぼ無理です。そもそも憲法改正は現状を変えるためにやるものでしょう。現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。
杉田 憲法に明記されることで、自衛隊はこれまでのような警察的なものではなく、外国の軍隊と同じようなものと見なされ、性格が大きく変わるでしょう。首相が最近よく使う「印象操作」という言葉は、この加憲論にこそふさわしい。だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければなりません。=敬称略(構成・高橋純子)
現状追認のための改憲もまかりならんとおっしゃっている。
こうした主張はこの両教授だけでなく、安倍首相が加憲論を主張しだしてからの、朝日新聞の論調でもある。
首相のビデオメッセージを受けて、5月4日付の社説「憲法70年 9条の理想を使いこなす」は早速こう批判した。
安倍首相はきのう、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と語った。
首相は改正項目として9条を挙げ、「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」と語った。
自衛隊は国民の間で定着し、幅広い支持を得ている。政府解釈で一貫して認められてきた存在を条文に書き込むだけなら、改憲に政治的エネルギーを費やすことにどれほどの意味があるのか。
安倍政権は安全保障関連法のために、憲法解釈を一方的に変え、歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。自衛隊を明記することで条文上も行使容認を追認する意図があるのではないか。
9条を改める必要はない。
戦後日本の平和主義を支えてきた9条を、変えることなく次の世代に伝える意義の方がはるかに大きい。
さらに、5月9日付の社説「憲法70年 9条改憲論の危うさ」はこう踏み込んだ。
国民の間で定着し、幅広い支持を得ている自衛隊の明文化なら理解が得やすい。首相はそう考えているのかもしれない。
だが首相のこの考えは、平和国家としての日本の形を変えかねない。容認できない。
自衛隊は歴代内閣の憲法解釈で一貫して合憲とされてきた。
9条は1項で戦争放棄をうたい、2項で戦力不保持を定めている。あらゆる武力行使を禁じる文言に見えるが、外部の武力攻撃から国民の生命や自由を守ることは政府の最優先の責務である。そのための必要最小限度の武力行使と実力組織の保有は、9条の例外として許容される――。そう解されてきた。
想定されているのは日本への武力攻撃であり、それに対する個別的自衛権の行使である。ところが安倍政権は14年、安全保障関連法の制定に向けて、この解釈を閣議決定で変更し、日本の存立が脅かされるなどの場合に、他国への武力攻撃でも許容されるとして集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。
改めるべきは9条ではない。安倍政権による、この一方的な解釈変更の方である。
安倍政権のもとで、自衛隊の任務は「変質」させられた。その自衛隊を9条に明記することでこれを追認し、正当化する狙いがあるのではないか。
自民党は12年にまとめた改憲草案で2項を削除し、集団的自衛権も含む「自衛権」の明記などを提言した。その底流には、自衛隊を他国並みの軍隊にしたいという意図がある。首相はきのうの国会審議でも、草案を撤回する考えはないとした。
草案に比べれば、首相がいう「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という案は一見、穏当にもみえる。
だが1項、2項のもつ意味と、集団的自衛権の行使に踏み込む自衛隊とは整合しない。日本の平和主義の基盤を揺るがしかねず、新たな人権を加えるような「加憲」とは質が違う。
だが、どちらの社説も、首相がビデオメッセージで述べた次の太字の部分に触れていない。
例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。
私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。
もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。
そのとおりではないかと思う。
多くの憲法学者や一部の国政政党が今なお自衛隊違憲論を唱える中、明文化するのは十分意義のあることではないか。
一昨年の安保法制の議論の中、憲法学者の多数が、安保法案のみならず、自衛隊をも違憲と見ていることを紙面で報じなかった朝日新聞にとっては、直視したくない事実かもしれないが。
私が、小学生の頃、憲法について学び、そして自衛隊についても知ったとき、まず思ったのは、これは憲法違反の存在ではないかということだった。
実際、私が通った小中高の教師は現場でそのように教えていたと記憶している。
純真な私は、憲法に反する自衛隊はケシカラン、自分が裁判官になったら、違憲の判決を出してやるのになどと思ったものだ。
やがて、年を経て、冷戦の現実や、解釈改憲の経緯などの知識が増えるにしたがい、自衛隊はあっていい、それをあいまいにしている憲法こそ改正すべきだと思うようになった。
それは今も変わっていない。
というより、非武装中立論を唱えた社会党が健在ならいざしらず、野党第一党が自衛隊合憲論に転じてもう長らく経つというのに、未だにその程度の改正すらできないことに一国民として情けなく思う。
何故なら、それは、国民が憲法と実態の乖離を容認しているということだからだ。
国民主権の法治国家として恥ずかしい状態であることに気づいていないということだからだ。
北朝鮮や中国のように 憲法が飾りであってもかまわないと考えているということだからだ。
自衛隊を憲法に明記すべきだという考えは、これまでにも多くの心ある方々が唱えてきたことだ。
例えば、舛添要一は、東京都知事に当選した頃に出版した『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)で、日本国憲法改正草案(2012)を批判しながらも、
私は、憲法改正の眼目は、9条2項だと思っている。たしかに、現行憲法は国民の権利・義務などをはじめ、完成度が高くよくできた内容だと思う。しかし、変化する国際情勢に対応して、日本の平和と独立、国民の安全を守るために軍隊を持つ(現実に自衛隊が存在している)ことを明記すべきである。その改正こそが急がれている。(p.7、太字は原文のまま)
と述べていたし、民進党の野田佳彦幹事長も、民主党への政権交代の直前に出版した『民主の敵』(新潮新書、2009)で、
やはり、実行部隊としての自衛隊をきっちりと憲法の中で位置づけなければなりません、いつまでたってもぬえのような存在にしてはならないのです。(p.134、太字は原文では傍点)
と述べている。
民主党政権で内閣官房長官など要職を歴任した社会党出身の仙谷由人も、2004年の講演では次のように述べていた(太字は引用者による)。
問い
「創憲」と言っていますが、民主党は2006年に憲法の草案を出せますか。先送りか。その間に既成事実が進み、実質的な変更が進むのではないかという危惧をもつが、
答え
では聞くが、9条を変えるのを心理的にいやだというのは、自衛隊が合憲の存在だと認めながら、これを憲法上、表現する、書くということをいやだということになる。たぶん合憲かどうかを国民アンケートにすれば、否定する人が今どれくらいいるか。もし合憲的存在だというのなら、なぜこれを憲法に書くのがいけないというのか、この理由を考え出すことは難しいですよ。法律論としては、そして憲法論としては。さらに政治論としても。運動論としてとか政局論としてはある、自民党に引っ張られるとかいう議論はある、軍国主義大国化する、あるいはアメリカとなんでもかんでもいっしょにやりだすのではないかとか。でも今は憲法を変えてないけど、アメリカとなんでもかんでもいっしょにやっているじゃないか。
ということとの関係で、その問題をさておいて、自民党が9条以外にどんな憲法改正を持ち出すと予測するか、そのことがどのくらい皆さん方が反対しなければならないとか賛成しなければならないものと予測されますか。
そこを一般的・抽象的に憲法改正論に引っ張られずるずるずると悪の道に入っていくというイメージで語る人が多いのだけれど。僕は自民党をよいといっているのではない、憲法調査会の議論をきいていると、古色蒼然として古すぎる人はいる、明治憲法体制下の国に帰そうという雰囲気の人や、権利規定が多すぎて義務の規定が少なすぎるとか、憲法の成り立ちを勉強してないのかと思うような人はいます。しかし、小泉構造改革であれ、橋本6大改革であれ、本来、改革マターというのは、構造的な改革をするならこれは憲法的マターですよね。これを国家論として、憲法論としてやってこないのが無理があるので、もし、国家の姿として「何とか基本法」を作ったときは一番大事なエキスだけを憲法に書き込むのが正しい姿であると思うけれど。そうであるとすると、では自民党がどういう憲法改正をしようとしているのか、9条、安全保障、自衛隊、有事非常事態を別途議論するとして、では他のことで自民党がどれだけ斬新な国民が希望持てるようなそういう憲法論を出せるのか、そこが大問題だ。つまりいまだに、どんなに思想があっても、政治家として靖国神社に行くという計算がどこにあるのかと思う。そういう国柄なのか、そういう総理をいただく国が、アジアの中で生きていくという国家論戦略論をどうやって出すのか、本当に見てみたい、
〔中略〕
「国のかたち」とか、地方政府の形とか、そこに生きている国民の権利とかをけじめをつけて変えていかないで、制度としてもたてまえとして変えないことに安心感があって、実態はずるずる変わっていくのをよしとするこの風潮は本当によくない。
鳩山由紀夫も、2005年に出した「新憲法試案」では
第○章 平和主義及び国際協調
第○条(侵略戦争の否認)日本国民は、国際社会における正義と秩序を重んじ、恒久的な世界平和の確立を希求し、あらゆる侵略行為と平和への破壊行為を否認する。
2 前項の精神に基づき、日本国は、国際紛争を解決する手段としての戦争および武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する。
とする一方で
第○章安全保障
第○条(自衛権)日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する。
2 自衛軍の組織及び行動に関する事項については、法律で定める。
と、自衛「軍」の保持を明記していたし、民主党の政権下野後の2013年に枝野幸男・元内閣官房長官が公表した改憲試案でも、現行の9条はそのままに、9条の2と9条の3を追加して、自衛権を行使する実力組織(名称は明記していない)の保有と国連平和維持活動への参加協力を明記するとしていた。
朝日新聞や長谷部・杉田両教授をはじめ、安倍政権批判者はよく「立憲主義」を口にするが、立憲主義とは、単に彼らが言うように、国民が憲法によって国家権力を縛ることだけを指すのではない。国民が制定した憲法に従って国家が運営されることが立憲主義である。
自衛隊のような最強の実力組織が、憲法に明記されていないなどということがあってはならない。何故なら、それこそいっときの多数派によって、恣意的な運用がなされてしまうおそれがあるからだ。
なのに、朝日のような大新聞が、第2次安倍内閣発足以後、安全保障や憲法に関して何とも時代錯誤的な論調をとり続けていることに、私はひどく失望している。
関連記事
国民の不可解な憲法意識(2013)