数日前にテレビでこんなニュースを聞いて、ちょっと引っかかるものがあった。
人は、ある国に生まれたことに誇りをもてるものなのだろうか。
首相官邸のホームページにも、安倍首相はこう述べたとある。
検索してみると、昨年9月に自民党総裁に当選した時や、先の衆院選、1月の衆議院本会議など、ずっと繰り返し言ってきたことなんですね。知りませんでした。
「日本に生まれたことに喜びを感じ」
これはわかる。
私も、日本に生まれてよかったなとは思う。
戦乱の絶えない国、飢餓を克服できない国、独裁者の統制の下に呻吟する国などに比べたら。
そして、素朴に、日本はいい国だとも思う。
もっとも、私は他国で生活したことがないから、直接の比較はできない。単なる根拠のない印象にすぎない。
それでも、この国から逃れたいというような不満は全くないし、将来に希望がないとも思えない。
しかし、
「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」
これはよくわからない。
念のため、「誇り」を辞書(デジタル大辞泉)で引くと、
とある。
「誇る」は、
「名誉」は、
とある。
だから、「誇りに思う」とは、その者自身の具体的な長所や美点に対する心理ではないだろうか。
難関大学に合格したとか、勤め先の業績アップに貢献したとか。
顧客に強く満足してもらったとか、ある分野で何らかの賞を授与されたとか。
そういったことなら、「誇りに思う」のは当然だろう。
しかし、「日本に生まれたこと」は、そういったことだろうか。
母校が高名な賞の受賞者を輩出したら、何やら自分までもがその賞の近くに位置するような気がするかもしれない。
知人が高い社会的評価を受けて著名人になったら、何やら自分までもが著名人の仲間になったような気がするかもしれない。
しかし、それは錯覚であり、自分とは何の関わりもないことだ。
日本がいかにすばらしい国であろうと、そこに生まれたことには、自分の力は何ら寄与していない。単なる運にすぎない。
単なる運の良さを、人は「誇りに思う」ことが可能なのだろうか。
宝くじに当たったことを、自分は天から選ばれた人間なのだと「誇りに思う」人間がいるとしたら、その人はどうかしているだろう。
戦後の復興や高度経済成長を支えた世代が、我々が日本をここまでにしたんだと誇るというなら、わからないでもない。
しかし、「生まれたこと」自体は、何ら誇るべきこととは私には思えない。
仮に、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」のなら、他の国に生まれたことは「誇りに思」えないということになる。全ての国がそうでないかもしれないが、少なくともそうした国が存在するということになる。何故なら、上で辞書を引用したように、「誇り」とは他者との比較によって生じる感情だから。
しかし、人は生まれてくる国を選べない。
日本に生まれた子供がそのことを「誇りに思う」とすれば、それは、金持ちの子が、貧乏人の子を蔑むのと同じようなものではないか。
名家に生まれた者が、無名の者に対して、出身を鼻にかけるのと同じようなものではないか。
人として決して誉められた行いではないのではないか。
おそらく、安倍首相らが「日本に生まれたこと」を「誇りに思」える教育をと説く真意は、そういうものではないのだろう。
いわゆる自虐史観、戦前真っ暗史観が未だ払拭されていないのが不満なのだろう。そしてわが国ほど悪い国はこの世にないかのような論評がまかりとおっている現状が歯がゆいのだろう。
わが国にも良い面は多々あるのであり、そうした自覚を子供時代から持たせたいということなのだろう。
だとしても、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」心理とは、突き詰めていけば上記のようなものだろう。ちょっとわが国の伝統的な歴史観、国家観とは異なる気がする。わが国の歴史の悪しき面に通じるような気がする。
日本はこんなにすばらしい、すごいんだ、偉いんだとうつつを抜かしている間に、後発国にあっさり抜かれてしまわないとも限らない。
単に「感じ」「思う」ことによってどうにかなる部分よりも、実際の学力向上、競争力強化に重点を置いていただきたいものだ。
(関連拙記事「誇るべきものとは」)
政府の教育再生実行会議は去年、学校でのいじめを巡る問題が全国で相次いだことを受けて、26日の会合でいじめや体罰への対策を盛り込んだ提言を取りまとめ、安倍総理大臣に提出しました。
これについて安倍総理大臣は「教育再生を果たすためには、子どもたちが日本に生まれたことに喜びや誇りを感じられる教育を実現する必要があり、提言は教育再生を実行する第一歩だ。スピード感を持って取り組むよう下村文部科学大臣に指示したい」と述べました。
人は、ある国に生まれたことに誇りをもてるものなのだろうか。
首相官邸のホームページにも、安倍首相はこう述べたとある。
「ただ今、本会議の第一次提言をいただきましたことに心から感謝し、一言ご挨拶申し上げます。
日本国の最重要課題である教育再生を果たすためには、まず、子供達が日本に生まれたことに喜びを感じ、誇りに思うことができる教育を実現する必要があります。
検索してみると、昨年9月に自民党総裁に当選した時や、先の衆院選、1月の衆議院本会議など、ずっと繰り返し言ってきたことなんですね。知りませんでした。
「日本に生まれたことに喜びを感じ」
これはわかる。
私も、日本に生まれてよかったなとは思う。
戦乱の絶えない国、飢餓を克服できない国、独裁者の統制の下に呻吟する国などに比べたら。
そして、素朴に、日本はいい国だとも思う。
もっとも、私は他国で生活したことがないから、直接の比較はできない。単なる根拠のない印象にすぎない。
それでも、この国から逃れたいというような不満は全くないし、将来に希望がないとも思えない。
しかし、
「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」
これはよくわからない。
念のため、「誇り」を辞書(デジタル大辞泉)で引くと、
誇ること。名誉に感じること。また、その心。「一家の―」「―を傷つけられる」
とある。
「誇る」は、
1 すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する。「技(わざ)を―・る」
2 誇示すべき状態にある。また、そのことを名誉に思う。「輝かしい実績を―・る」「長い歴史と文化を―・る都市」
「名誉」は、
1 能力や行為について、すぐれた評価を得ていること。また、そのさま。「―ある地位」「―な賞」
2 社会的に認められている、その個人または集団の人格的価値。体面。面目。「―を回復する」「―を傷つける」
とある。
だから、「誇りに思う」とは、その者自身の具体的な長所や美点に対する心理ではないだろうか。
難関大学に合格したとか、勤め先の業績アップに貢献したとか。
顧客に強く満足してもらったとか、ある分野で何らかの賞を授与されたとか。
そういったことなら、「誇りに思う」のは当然だろう。
しかし、「日本に生まれたこと」は、そういったことだろうか。
母校が高名な賞の受賞者を輩出したら、何やら自分までもがその賞の近くに位置するような気がするかもしれない。
知人が高い社会的評価を受けて著名人になったら、何やら自分までもが著名人の仲間になったような気がするかもしれない。
しかし、それは錯覚であり、自分とは何の関わりもないことだ。
日本がいかにすばらしい国であろうと、そこに生まれたことには、自分の力は何ら寄与していない。単なる運にすぎない。
単なる運の良さを、人は「誇りに思う」ことが可能なのだろうか。
宝くじに当たったことを、自分は天から選ばれた人間なのだと「誇りに思う」人間がいるとしたら、その人はどうかしているだろう。
戦後の復興や高度経済成長を支えた世代が、我々が日本をここまでにしたんだと誇るというなら、わからないでもない。
しかし、「生まれたこと」自体は、何ら誇るべきこととは私には思えない。
仮に、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」のなら、他の国に生まれたことは「誇りに思」えないということになる。全ての国がそうでないかもしれないが、少なくともそうした国が存在するということになる。何故なら、上で辞書を引用したように、「誇り」とは他者との比較によって生じる感情だから。
しかし、人は生まれてくる国を選べない。
日本に生まれた子供がそのことを「誇りに思う」とすれば、それは、金持ちの子が、貧乏人の子を蔑むのと同じようなものではないか。
名家に生まれた者が、無名の者に対して、出身を鼻にかけるのと同じようなものではないか。
人として決して誉められた行いではないのではないか。
おそらく、安倍首相らが「日本に生まれたこと」を「誇りに思」える教育をと説く真意は、そういうものではないのだろう。
いわゆる自虐史観、戦前真っ暗史観が未だ払拭されていないのが不満なのだろう。そしてわが国ほど悪い国はこの世にないかのような論評がまかりとおっている現状が歯がゆいのだろう。
わが国にも良い面は多々あるのであり、そうした自覚を子供時代から持たせたいということなのだろう。
だとしても、「日本に生まれたこと」を「誇りに思う」心理とは、突き詰めていけば上記のようなものだろう。ちょっとわが国の伝統的な歴史観、国家観とは異なる気がする。わが国の歴史の悪しき面に通じるような気がする。
日本はこんなにすばらしい、すごいんだ、偉いんだとうつつを抜かしている間に、後発国にあっさり抜かれてしまわないとも限らない。
単に「感じ」「思う」ことによってどうにかなる部分よりも、実際の学力向上、競争力強化に重点を置いていただきたいものだ。
(関連拙記事「誇るべきものとは」)