3月4日付け朝日新聞朝刊のコラム「天声人語」を一読して、脱力した。
相変わらずの蟻の一穴論。
北朝鮮が3度目の核実験を行った翌日、今年2月13日付けの朝日新聞朝刊2面で加藤洋一編集委員はこう書いていた。
なんで3度目の核実験でようやく「新たな」「認識」に至るのか不思議だし、「真剣に検討すべき段階に近づいた」「認識が必要だ」といった表現ももどかしいが、これでも朝日としてはかなり踏み込んだ書きぶりで、少しは論調も変わるのかなと期待したが、天声人語子の論説委員(福島伸二と冨永格が交替で書いているという)は十年一日のごとき一国平和主義。
「普通に戦争ができる国」になることは「落ち」ることなのか。
では、現在「普通に戦争ができ」ないわが国は、他国に比べて高みにいるということなのか。
戦後、わが国が軽武装路線を維持できたのは、端的に言って米国の傘の下にいたからだ。自力で達成したものではない。
そして、その根拠となっている憲法の戦争放棄は、言うまでもなく押し付けられたものだ。
押し付けられたものをありがたく押し頂いてるにすぎないのに、自らは彼らの及ばぬ高みにいるとは、何か感覚がおかしくないか。奴隷が主人に対して、人間性では自分の方が優っていると内心で慰撫するようなものではないか。
そんなに「先進的な理想主義」が重要なら、わが国は、その持てる経済力を利用して、交戦国や武器輸出国に対して経済制裁を加えるなどして、軍縮や平和を追求してはどうか。
在日朝鮮人に対する処遇をタテに、北朝鮮に核兵器の放棄を迫ってはどうか。
そういった行動に踏み切らないというのは、要するに、きれい事を口にしているだけではないか。
押し付けられた憲法の改正が容易でないからやむを得ず軍を派遣できないと言うならまだしも、それを逆手にとって、自らは手を汚さないことを自慢するとは、どういう神経をしているのか。
湾岸戦争に際してわが国の一国平和主義はさすがに問題視され、PKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣が行われるようになった。あれから20年が経過しているというのに、人語子の頭の中はまるで時計が止まったままのようだ。
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」を、ただ単に、世界の国々は皆平和を愛し戦争など起こすはずはないから、わが国は戦力を放棄することにしたという意味にとらえる向きもあるが、そうではない。
「平和を愛する諸国民」の「国」とは、国際連合の加盟国、つまり第二次世界大戦における勝者である連合国を指している。
大戦に敗れたわが国は平和を愛さない侵略国であったから、武装解除して連合国の庇護下に入ります、その代わり何かあったら守ってくださいね、という意味である。
国際連合憲章に次のようにある。
この憲章第43条が定めるいわゆる国連軍について、吉田茂は、1946年7月4日の衆議院帝国憲法改正案委員会において、首相兼外相として次のように答弁している。
そうしたシステムを前提として、わが国は戦力を放棄した憲法を受忍したのだ。
しかし、その後の冷戦の進行(そして朝鮮戦争という「熱い戦争」の勃発)によって、このような国連軍が成立する見込みはなくなり、わが国は独立後も米国の庇護下に入ることになった。だが、専守防衛のための自前の戦力はやはり必要だろうということで、警察予備隊が発足し、保安隊、自衛隊へと進んだ。
自衛隊は確かに専守防衛をうたっている。しかし、わが国を庇護する米国は先制攻撃をも是としている。そんな国の庇護下にありながら、「誇るべき平和国家のブランド」「世界が追いつくべき」理想とは笑うしかない。
日本は専守防衛を唱えている、ではひとつわが国も、ならわが国もと、追随する周辺諸国がどこにあるというのか。
朝日が、周辺諸国の専守防衛化に在日米軍は邪魔である、米軍はわが国から出て行けと唱えているのなら話はまだわかる。しかし、朝日は「米国との同盟と自衛隊で日本を守る」とし、「日米同盟を使いこな」せと主張しているではないか。
わが国と同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは、戦争責任を認め謝罪してきたとして朝日がしばしば称揚してきた国だが、近年の国外における軍事活動の有り様はわが国とはかなり異なる。
わが国と同様に湾岸戦争での多国籍軍には参加しなかったものの、その後は国連、NATOの一員としてのNATO域外への派兵を容認し、ボスニア紛争には多国籍軍の一員として参加し、コソヴォ紛争ではユーゴスラヴィアへの空爆にまで及んだ。9.11後のアフガニスタン戦争にも参加している。一方で2003年のイラク戦争にはフランスとともに反対しており、対米追従ではない。武器輸出や共同開発が厳しく制限されている様子もない。
最近は、他国への介入がドイツの能力を超えているとして問題視されているとも聞く。確かに介入にはリスクも伴うだろう。安易に派兵しないことによるメリットもあるだろう。しかし、同じ敗戦国でありながらこうまで違うのは何故なのか。
今年1月のアルジェリアの人質事件で、犯人グループはマリに介入したフランス軍の撤退を要求していたが、そのマリでは、フランス軍を歓迎する声が圧倒的だったと朝日新聞も報じていた。
その土地のことはそこに住む人々に任せよう、むやみに介入すべきではないという意見がある。
しかし、ソ連が撤退した後のアフガニスタンをその土地の人々に任せていたら、紛争の末タリバンが跳梁し、アルカイダの温床になったのではなかったか。
このマリのように、人道的に介入すべきケースはあるのではないか。
人語子は集団的自衛権の容認にも否定的らしい。しかし集団的自衛権とは、要するに他国への侵略を自国への侵略と同様と見なして自衛戦争を行う権利のことだ。なるほどこれを認めることによってわが国が戦争に巻き込まれる危険は高まるだろう。しかし、いずれの国もが集団的自衛権を認めなければ、大国が小国を、軍事的強国が弱国を負かし、意のままにするということがまかりとおるのではないか。国連軍の成立が期待できない現在、そのような事態の発生を防ぐために、集団的自衛権は容認してよいのではないか。
そういった言わば汚れ仕事は他国に任せっぱなしで、自らは手を汚していない「世界が追いつくべき」「先進的な理想主義」の具現者であると自賛する。
他国民はこんなたわごとをどう聞くだろうか。
「国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だから」日本も兵器の国際共同開発に加わり、侵略やテロに対処しようとなるのではないか、論理的には。
何故「だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない」となるのか、まるで理解できない。
では中国の台頭、核の拡散、テロの続発に誰がどのようにして対処するのか。それは米国をはじめとする他国に任せておけばよいというのか。他国が兵器開発で競争し、協力するのは別にかまわない、ただ自分の手さえ汚れなければそれでいいというのか。
「現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。」
理想を唱えているだけの、守ってもらっている分際の者が何を言うのか。
そりゃあ世界には様々な国があるから、変な国が一つや二つあってもいいかもしれない。
しかし私は、超大国の庇護下に自らを置き、口では平和平和と唱えるばかりで、その具体化のためには何もせず、経済力に見合った軍事力をも担わず、あげく人類の理想の具現者であると勘違いして悦に入る、そんな情けない国がわが祖国であってほしくはない。
中国の古典は「アリの穴から堤も崩れる」と教える。英語では「小さな水漏れ穴が巨船を沈める」と説くらしい。金科玉条に見えた原則も同じく、一つの例外から滅ぶ▼戦闘機のF35が武器輸出三原則の例外となった。敵レーダーが捉えにくい新鋭機は、日本企業を含む国際分業で生産され、第三国への移転は米国に任される。周辺国と緊張関係にあるイスラエルに日本製部品が渡り、戦争を支えることもあろう▼三原則を緩め、安保で近しい国との共同開発を認めたのは野田内閣だ。安倍内閣は、国際紛争を助長しないという輸出の前提を取り払った。民主と自民の骨抜きリレーに、防衛産業は喜びを隠さない▼安倍首相は憲法を変えて、自衛隊を国防軍にするという。次は集団的自衛権、ついでに非核三原則もという勢いだ。誇るべき平和国家のブランドが色あせていく。このまま「普通に戦争ができる国」まで落ちてしまうのか▼なるほど、大戦の反省から生まれた憲法は普通ではない。だが先進的な理想主義は、世界が追いつくべき「良き例外」である。「米国に押しつけられた」憲法とそれに基づく国是を、「米国と共に責任を果たすため」に改める……一人二役の米国も忙しい▼国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない。現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。がんこ一徹の平和国家が、一つぐらいあってもいい。
相変わらずの蟻の一穴論。
北朝鮮が3度目の核実験を行った翌日、今年2月13日付けの朝日新聞朝刊2面で加藤洋一編集委員はこう書いていた。
「核の脅威」認識転換を
〔前略〕もし本当に核弾頭の小型化に成功し、長距離弾道ミサイルに搭載できるようになったのであれば、アジア太平洋の安全保障環境は根本的に変わる。〔中略〕
日本にとっての脅威はより深刻だ。すでに「100~200基」(英国際戦略研究所)の配備が推定される、ノドンミサイルの射程に入っているからだ。その多くに核弾頭が搭載されたらどうなるのか。〔中略〕
抑止力の強化も考えなければならない。森本敏・前防衛相は「米軍がグアムに(核兵器を搭載できる)戦略爆撃機を展開しているのはそういうことだ」と指摘する。「通常戦力による抑止体制づくりで、日韓が協力しないと万全ではない」とも言う。
さらに、実際に攻撃を受けた場合への備えだ。米国は「弾道ミサイル防衛など何らかの明確な対抗策をとる」(キャンベル米国防次官補)と明らかにしている。森本氏は「日本も日本海上空で、確実に撃ち落とす能力を持たなければならない」と語る。
中国をも巻き込んだ、制裁や非核化の外交努力が第一であることは言うまでもない。しかし、限界があることも事実だ。北朝鮮の「核の脅迫」に屈せず、最悪の場合に自らを守る方策を真剣に検討すべき段階に近づいたという、新たな脅威認識が必要だ。
なんで3度目の核実験でようやく「新たな」「認識」に至るのか不思議だし、「真剣に検討すべき段階に近づいた」「認識が必要だ」といった表現ももどかしいが、これでも朝日としてはかなり踏み込んだ書きぶりで、少しは論調も変わるのかなと期待したが、天声人語子の論説委員(福島伸二と冨永格が交替で書いているという)は十年一日のごとき一国平和主義。
このまま「普通に戦争ができる国」まで落ちてしまうのか
「普通に戦争ができる国」になることは「落ち」ることなのか。
では、現在「普通に戦争ができ」ないわが国は、他国に比べて高みにいるということなのか。
戦後、わが国が軽武装路線を維持できたのは、端的に言って米国の傘の下にいたからだ。自力で達成したものではない。
そして、その根拠となっている憲法の戦争放棄は、言うまでもなく押し付けられたものだ。
押し付けられたものをありがたく押し頂いてるにすぎないのに、自らは彼らの及ばぬ高みにいるとは、何か感覚がおかしくないか。奴隷が主人に対して、人間性では自分の方が優っていると内心で慰撫するようなものではないか。
そんなに「先進的な理想主義」が重要なら、わが国は、その持てる経済力を利用して、交戦国や武器輸出国に対して経済制裁を加えるなどして、軍縮や平和を追求してはどうか。
在日朝鮮人に対する処遇をタテに、北朝鮮に核兵器の放棄を迫ってはどうか。
そういった行動に踏み切らないというのは、要するに、きれい事を口にしているだけではないか。
押し付けられた憲法の改正が容易でないからやむを得ず軍を派遣できないと言うならまだしも、それを逆手にとって、自らは手を汚さないことを自慢するとは、どういう神経をしているのか。
湾岸戦争に際してわが国の一国平和主義はさすがに問題視され、PKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣が行われるようになった。あれから20年が経過しているというのに、人語子の頭の中はまるで時計が止まったままのようだ。
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」を、ただ単に、世界の国々は皆平和を愛し戦争など起こすはずはないから、わが国は戦力を放棄することにしたという意味にとらえる向きもあるが、そうではない。
「平和を愛する諸国民」の「国」とは、国際連合の加盟国、つまり第二次世界大戦における勝者である連合国を指している。
大戦に敗れたわが国は平和を愛さない侵略国であったから、武装解除して連合国の庇護下に入ります、その代わり何かあったら守ってくださいね、という意味である。
国際連合憲章に次のようにある。
第1章 目的及び原則
第1条
国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
第7章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動
第39条
安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。
第41条
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。
第42条
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。
第43条
1.国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ1又は2以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益には、通過の権利が含まれる。
2.前記の協定は、兵力の数及び種類、その出動準備程度及び一般的配置並びに提供されるべき便益及び援助の性質を規定する。
3.前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべくすみやかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない。
この憲章第43条が定めるいわゆる国連軍について、吉田茂は、1946年7月4日の衆議院帝国憲法改正案委員会において、首相兼外相として次のように答弁している。
又御尋ネノ講和条約ガ出来、日本ガ独立ヲ回復シタ場合ニ、日本ノ独立ナルモノヲ完全ナ状態ニ復セシメタ場合ニ於テ、武力ナクシテ侵略国ニ向ツテ如何ニ之ヲ日本自ラ自己国家ヲ防衛スルカ、此ノ御質問ハ洵ニ御尤モデアリマスガ、併シナガラ国際平和国体〔ママ。「団体」の誤記か〕ガ樹立セラレテ、サウシテ樹立後ニ於テハ、所謂U・N・Oノ目的ガ達セラレタ場合ニハU・N・O 加盟国ハ国際連合憲章ノ規定ノ第四十三条ニ依リマスレバ、兵力ヲ提供スル義務ヲ持チ、U・N・O 自身ガ兵力ヲ持ツテ世界ノ平和ヲ害スル侵略国ニ対シテハ、世界ヲ挙ゲテ此ノ侵略国ヲ圧伏スル抑圧スルト云フコトニナツテ居リマス、理想ダケ申セバ、或ハ是ハ理想ニ止マリ、或ハ空文ニ属スルカモ知レマセヌガ、兎ニ角国際平和ヲ維持スル目的ヲ以テ樹立セラレタU・N・Oトシテハ、其ノ憲法トモ云フベキ条章ニ於テ、斯クノ如ク特別ノ兵力ヲ持チ、特ニ其ノ国体〔前同〕ガ特殊ノ兵力ヲ持チ、世界ノ平和ヲ妨害スル者、或ハ世界ノ平和ヲ脅カス国ニ対シテハ制裁ヲ加ヘルコトニナツテ居リマス、此ノ憲章ニ依リ、又国際連合ニ日本ガ独立国トシテ加入致シマシタ場合ニ於テハ、一応此ノ憲章ニ依ツテ保護セラレルモノ、斯ウ私ハ解釈シテ居リマス
そうしたシステムを前提として、わが国は戦力を放棄した憲法を受忍したのだ。
しかし、その後の冷戦の進行(そして朝鮮戦争という「熱い戦争」の勃発)によって、このような国連軍が成立する見込みはなくなり、わが国は独立後も米国の庇護下に入ることになった。だが、専守防衛のための自前の戦力はやはり必要だろうということで、警察予備隊が発足し、保安隊、自衛隊へと進んだ。
自衛隊は確かに専守防衛をうたっている。しかし、わが国を庇護する米国は先制攻撃をも是としている。そんな国の庇護下にありながら、「誇るべき平和国家のブランド」「世界が追いつくべき」理想とは笑うしかない。
日本は専守防衛を唱えている、ではひとつわが国も、ならわが国もと、追随する周辺諸国がどこにあるというのか。
朝日が、周辺諸国の専守防衛化に在日米軍は邪魔である、米軍はわが国から出て行けと唱えているのなら話はまだわかる。しかし、朝日は「米国との同盟と自衛隊で日本を守る」とし、「日米同盟を使いこな」せと主張しているではないか。
わが国と同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツは、戦争責任を認め謝罪してきたとして朝日がしばしば称揚してきた国だが、近年の国外における軍事活動の有り様はわが国とはかなり異なる。
わが国と同様に湾岸戦争での多国籍軍には参加しなかったものの、その後は国連、NATOの一員としてのNATO域外への派兵を容認し、ボスニア紛争には多国籍軍の一員として参加し、コソヴォ紛争ではユーゴスラヴィアへの空爆にまで及んだ。9.11後のアフガニスタン戦争にも参加している。一方で2003年のイラク戦争にはフランスとともに反対しており、対米追従ではない。武器輸出や共同開発が厳しく制限されている様子もない。
最近は、他国への介入がドイツの能力を超えているとして問題視されているとも聞く。確かに介入にはリスクも伴うだろう。安易に派兵しないことによるメリットもあるだろう。しかし、同じ敗戦国でありながらこうまで違うのは何故なのか。
今年1月のアルジェリアの人質事件で、犯人グループはマリに介入したフランス軍の撤退を要求していたが、そのマリでは、フランス軍を歓迎する声が圧倒的だったと朝日新聞も報じていた。
首都バマコ市内では、至るところでフランス国旗が売られ、バイクの後ろに国旗を立てて走る人も多い。
バマコに住むヤヤさん(51)は「全国民が仏軍の介入を喜んでいる」と話す。昨年4月に北部が無政府化した後、なかなか介入の気配がないフランスに「北部を見捨てるな」と不満の声ばかりが聞こえたのとは一転した。
アルジェリアの人質事件のニュースはすでに多くの市民の耳に届いている。ヤヤさんも「戦闘に何の関係もない人々を狙うのは愚かだ。日本人や米国人らはアルジェリアの経済発展に貢献してきた人だ。報復とは、戦闘に直接的に関係している者を狙うものではないか」と憤った。
一方で、「バマコで同じことがあっても驚かない。戦時下にあるのだから、我々はその気構えができている」と話した。
観光業のイブラヒムさん(34)も人質事件について「非常に悲しいことだ。日本人は何も関係ないのに卑劣な犯行だ」と言った。「仏軍はマリ軍や他の西アフリカの軍隊の10倍強い。ずっと介入を祈っていた。仏軍が介入しなければ、武装勢力は今頃、バマコに入っていた」と語った。
その土地のことはそこに住む人々に任せよう、むやみに介入すべきではないという意見がある。
しかし、ソ連が撤退した後のアフガニスタンをその土地の人々に任せていたら、紛争の末タリバンが跳梁し、アルカイダの温床になったのではなかったか。
このマリのように、人道的に介入すべきケースはあるのではないか。
人語子は集団的自衛権の容認にも否定的らしい。しかし集団的自衛権とは、要するに他国への侵略を自国への侵略と同様と見なして自衛戦争を行う権利のことだ。なるほどこれを認めることによってわが国が戦争に巻き込まれる危険は高まるだろう。しかし、いずれの国もが集団的自衛権を認めなければ、大国が小国を、軍事的強国が弱国を負かし、意のままにするということがまかりとおるのではないか。国連軍の成立が期待できない現在、そのような事態の発生を防ぐために、集団的自衛権は容認してよいのではないか。
そういった言わば汚れ仕事は他国に任せっぱなしで、自らは手を汚していない「世界が追いつくべき」「先進的な理想主義」の具現者であると自賛する。
他国民はこんなたわごとをどう聞くだろうか。
国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない。現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。
「国際常識が通じない中国が台頭し、核は拡散、テロも絶えない。だから」日本も兵器の国際共同開発に加わり、侵略やテロに対処しようとなるのではないか、論理的には。
何故「だからといって、日本までが兵器の競争に手を染めることはない」となるのか、まるで理解できない。
では中国の台頭、核の拡散、テロの続発に誰がどのようにして対処するのか。それは米国をはじめとする他国に任せておけばよいというのか。他国が兵器開発で競争し、協力するのは別にかまわない、ただ自分の手さえ汚れなければそれでいいというのか。
「現実に合わせて理想を傷めては、人類の進歩はおぼつかない。」
理想を唱えているだけの、守ってもらっている分際の者が何を言うのか。
がんこ一徹の平和国家が、一つぐらいあってもいい。
そりゃあ世界には様々な国があるから、変な国が一つや二つあってもいいかもしれない。
しかし私は、超大国の庇護下に自らを置き、口では平和平和と唱えるばかりで、その具体化のためには何もせず、経済力に見合った軍事力をも担わず、あげく人類の理想の具現者であると勘違いして悦に入る、そんな情けない国がわが祖国であってほしくはない。