一昨日の記事に対して、コメント欄で次のようなご指摘をいただいた。
《まず、他者の名前には敬称をつけるのが大人のマナーですね。》(「通り係」さん)
《気にくわない相手でも、人の名前を文章にする場合は敬称を付けるか、冒頭に敬称略と明記するのが文章を公表する人間のマナーであると思います。》(「通りすがり」さん)
「冒頭に敬称略と明記」している文章はあまり見ない気がするが、たしかに、新聞や雑誌の記事では、人名には敬称を付けるか、文の途中又は文末で「敬称略」と断るのが普通だろう。
しかし、一昨日の記事で私はずっと「小谷野」と呼び捨てで通していた。
これは別に、「通りすがり」さんが言うように私から見て小谷野が「気にくわない相手」だからではない。
(それどころか、私にとって小谷野は支持できる主張の多い評論家の1人であり、端的に言えば「ファン」である。だからこそ当ブログのブックマークに小谷野のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」を長らく置いているのだ。著書も10冊以上は購入している)。
当ブログの記事をある程度読んでいただいた方にはおわかりと思うが、ある人物を記事中で批判しようが賛同しようが、あるいはそうした判断を加えない場合であろうが、当ブログにおいて、政治家、学者、評論家、クリエイターといった著名人、また新聞記者のようにそれほど知られてはいなくとも要するに「プロ」の方々については、氏名に敬称を付けないのを原則としている。
この点については、読者への説明がないことが少し気になってはいたのだが、これまで書きそびれていたので、この機会に述べておきたい。
これは何も、私が彼らを見下しているからではない。
敬称を省略する理由の1つは、私がふだん頭の中で敬称を付けずに彼らのことを考えており、それを文章化する際に敬称を付けるよう配慮すると、文章のリズムが乱れてしまうからだ。
また、敬称を多用すると、それだけでまだるっこしい文章になってしまう(だからこそ、「敬称略」と断った記事が多く書かれるのだろう)。
たしかに敬称が用いられることは多いが、必ずしも全面的に行われているわけではない。
学術論文では敬称は通常用いられない。芸能人やスポーツ選手についての報道でも用いられない。
個人的なメモに、公人のことを書くからといって、いちいち敬称を付ける人もそうはいないだろう。
ブログは、全世界の人々に対して発信しているという点では新聞や雑誌の記事に近いと言えるが、その読者数は多くの場合新聞や雑誌とは比較にならず、その内容も個人的なメモの延長上にあるものだろう。
新聞記者やライターのブログならともかく、私のような単なる一市民が記事中の敬称使用を心がけたとすれば、なんだかそちらの方がジャーナリストぶって自意識過剰で恥ずかしいように感じる。
ちなみに、当の小谷野のブログにおいても、原則的に敬称は用いられていない。
一方私は、ネット上で見かけるブロガーなどで社会的に無名の(と思われる)人物に対しては、その人物を批判しようが賛同しようが、あるいはそうした判断を加えない場合であろうが、当ブログにおいては原則的に「○○さん」あるいは「○○氏」といった敬称で呼んでいる。
それは、先に述べた著名人のケースとは逆に、ふだん彼らについては頭の中で敬称付きで考えているからだ。
コメントやトラックバックのやりとりをする可能性のある、自分と対等な等身大の人間として考えているからだ。
著名人とは次元が違うと感じているからだ。
一昨日の記事に対して、実名者に対する匿名による批判は
《たとえれば野球場で3階席からヤジを飛ばすのを同じようなもので、同じフィールドには立っていない》(北沢寛さん)
というコメントもいただいたが、まさにそのとおりで、私は同じフィールドに立っているなどとは全く思っていない。
ただ、プロの野球選手たちのさまざまなプレーについて、観客がそれをどうのこうのと語る場があってもいいのではないか。
インターネット上での諸発言とは所詮そうしたものであり、それを一律に実名でないから「卑怯」だなどと「プロ」の側から言われる筋合いなどないというのが私の考えだ。
もっとも、「次元が違う」とはいえ、仮に「プロ」の側から何らかのアクション、例えば事実誤認の指摘や反論などがあれば、その場合は社会常識にのっとった対応をするつもりであるし、当然呼び捨てで応じるような真似はしない。
なお、私は、犯罪被害者やその家族に対しては、仮にその名が広く知られている場合であっても、原則的に敬称を用いている。
それは、彼らは他人の犯罪の結果たまたま著名になったにすぎず、彼ら自身が進んでそのような立場に身を置いたわけではないからだ。その点で、政治家や評論家といった「プロ」の方々とは異なる扱いをすべきだと思う。
異論がある方もおられようが、当ブログにおける敬称の取り扱いは上記のような方針に基づいている。
だからといって、これを他の方に要請あるいは推奨するつもりはないし、他のブログや掲示板などで敬称が用いられるのを否定するつもりもない。
また、こうした方針を将来的に変える可能性もないわけではない。
あくまでも、現時点での私個人の考えだ。
こうした考えを読者に明らかにする機会を設けてくださった「通り係」さん及び「通りすがり」さんに感謝したい。
《まず、他者の名前には敬称をつけるのが大人のマナーですね。》(「通り係」さん)
《気にくわない相手でも、人の名前を文章にする場合は敬称を付けるか、冒頭に敬称略と明記するのが文章を公表する人間のマナーであると思います。》(「通りすがり」さん)
「冒頭に敬称略と明記」している文章はあまり見ない気がするが、たしかに、新聞や雑誌の記事では、人名には敬称を付けるか、文の途中又は文末で「敬称略」と断るのが普通だろう。
しかし、一昨日の記事で私はずっと「小谷野」と呼び捨てで通していた。
これは別に、「通りすがり」さんが言うように私から見て小谷野が「気にくわない相手」だからではない。
(それどころか、私にとって小谷野は支持できる主張の多い評論家の1人であり、端的に言えば「ファン」である。だからこそ当ブログのブックマークに小谷野のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」を長らく置いているのだ。著書も10冊以上は購入している)。
当ブログの記事をある程度読んでいただいた方にはおわかりと思うが、ある人物を記事中で批判しようが賛同しようが、あるいはそうした判断を加えない場合であろうが、当ブログにおいて、政治家、学者、評論家、クリエイターといった著名人、また新聞記者のようにそれほど知られてはいなくとも要するに「プロ」の方々については、氏名に敬称を付けないのを原則としている。
この点については、読者への説明がないことが少し気になってはいたのだが、これまで書きそびれていたので、この機会に述べておきたい。
これは何も、私が彼らを見下しているからではない。
敬称を省略する理由の1つは、私がふだん頭の中で敬称を付けずに彼らのことを考えており、それを文章化する際に敬称を付けるよう配慮すると、文章のリズムが乱れてしまうからだ。
また、敬称を多用すると、それだけでまだるっこしい文章になってしまう(だからこそ、「敬称略」と断った記事が多く書かれるのだろう)。
たしかに敬称が用いられることは多いが、必ずしも全面的に行われているわけではない。
学術論文では敬称は通常用いられない。芸能人やスポーツ選手についての報道でも用いられない。
個人的なメモに、公人のことを書くからといって、いちいち敬称を付ける人もそうはいないだろう。
ブログは、全世界の人々に対して発信しているという点では新聞や雑誌の記事に近いと言えるが、その読者数は多くの場合新聞や雑誌とは比較にならず、その内容も個人的なメモの延長上にあるものだろう。
新聞記者やライターのブログならともかく、私のような単なる一市民が記事中の敬称使用を心がけたとすれば、なんだかそちらの方がジャーナリストぶって自意識過剰で恥ずかしいように感じる。
ちなみに、当の小谷野のブログにおいても、原則的に敬称は用いられていない。
一方私は、ネット上で見かけるブロガーなどで社会的に無名の(と思われる)人物に対しては、その人物を批判しようが賛同しようが、あるいはそうした判断を加えない場合であろうが、当ブログにおいては原則的に「○○さん」あるいは「○○氏」といった敬称で呼んでいる。
それは、先に述べた著名人のケースとは逆に、ふだん彼らについては頭の中で敬称付きで考えているからだ。
コメントやトラックバックのやりとりをする可能性のある、自分と対等な等身大の人間として考えているからだ。
著名人とは次元が違うと感じているからだ。
一昨日の記事に対して、実名者に対する匿名による批判は
《たとえれば野球場で3階席からヤジを飛ばすのを同じようなもので、同じフィールドには立っていない》(北沢寛さん)
というコメントもいただいたが、まさにそのとおりで、私は同じフィールドに立っているなどとは全く思っていない。
ただ、プロの野球選手たちのさまざまなプレーについて、観客がそれをどうのこうのと語る場があってもいいのではないか。
インターネット上での諸発言とは所詮そうしたものであり、それを一律に実名でないから「卑怯」だなどと「プロ」の側から言われる筋合いなどないというのが私の考えだ。
もっとも、「次元が違う」とはいえ、仮に「プロ」の側から何らかのアクション、例えば事実誤認の指摘や反論などがあれば、その場合は社会常識にのっとった対応をするつもりであるし、当然呼び捨てで応じるような真似はしない。
なお、私は、犯罪被害者やその家族に対しては、仮にその名が広く知られている場合であっても、原則的に敬称を用いている。
それは、彼らは他人の犯罪の結果たまたま著名になったにすぎず、彼ら自身が進んでそのような立場に身を置いたわけではないからだ。その点で、政治家や評論家といった「プロ」の方々とは異なる扱いをすべきだと思う。
異論がある方もおられようが、当ブログにおける敬称の取り扱いは上記のような方針に基づいている。
だからといって、これを他の方に要請あるいは推奨するつもりはないし、他のブログや掲示板などで敬称が用いられるのを否定するつもりもない。
また、こうした方針を将来的に変える可能性もないわけではない。
あくまでも、現時点での私個人の考えだ。
こうした考えを読者に明らかにする機会を設けてくださった「通り係」さん及び「通りすがり」さんに感謝したい。
全て読んだわけではありませんが、全く納得。
これからも読ませていただきます。頑張ってください。
よかったらいつでもいらしてください。