数か月前に発売された小谷野敦の『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』(青土社、2011)を読んでいると、次のような記述があった。
私にはこの、匿名での批判が卑怯であるという理屈、ないし感覚がわからない。
この文が収められている「第6章 匿名とは何か」を読み返してみたが、その理由が明記されている箇所はなかった。小谷野にとっては自明のことだからだろうか。
小谷野は上の引用箇所に続けて、荻上チキというブロガーの実名を示唆した際に、自分が非難されたというエピソードを挙げ「私のような正直者は既に時代に合わなくなっているのかとすら思われる」としている。
このケースでは、荻上の小谷野自身に対する批判はともかく、別の人物(小谷野は実名を挙げている)への「批判は罵倒に近く、私はそれが気になった」ことに加え、荻上の方から小谷野に対し実名を明らかにしたことや、ネット上でも写真が公開されていることなどから、「本気で隠す気があるのかどうか疑わしい」として実名を示唆したというのだが、そういった事情があるにしても、何故実名を晒さなければならないのかがわからない。
小谷野はさらに、
と述べているが、「周囲の人間は」以降の部分はまさにそのとおりで、そんな匿名性の確保に従わなければならない義理は全くないと思うが、それ以外の部分には同意できない。仮に現職の国会議員や高級官僚――いや元職でもいいか――が匿名で見解や論評を発表したとすれば、彼らはそのパブリックな立場故に非難されなければならないのだろうか。
それに、では小谷野が非難するのはそうしたパブリックなケースに限られるのかと言えば必ずしもそうではなく、冒頭で引用した「後輩の大学院生」のようなケースもあれば、
また、
とまで書いているのだから、「一般人」をも含めてやはり匿名による批判自体が「卑怯」と考えているのであって、修論云々は単なる言い訳と見るべきだろう。
あるメールでは次のように述べていたという(太字は引用者による)。
先に述べたように、『名前とは何か』の「第6章 匿名とは何か」には、小谷野が何故匿名による批判を「卑怯」と見るかを述べた箇所は見当たらなかったが、小谷野が何故匿名による批判を忌み嫌うのかが明らかにされている箇所は存在した。
私も、具体的に欠点を指摘したせいかAmazonでレビュー不掲載になった経験があるので、小谷野の言い分の一部はわかる。しかしそれは匿名か実名かという話とは別問題ではないか。
私は西洋のインターネット事情はよく知らないが、小谷野の言うような相違はたしかにあるのかもしれない。わが国ではネット上で実名でのやりとりを忌避する傾向があるようには感じられる。facebookもわが国ではそれほど普及しないだろう。
しかし、実名であれば何故「文明」的で匿名であれば「未開」的なのだろうか。それについての小谷野の言及もない。
続く「ウェブ匿名文化によって、一番被害をこうむるのは、私のような、大学などに所属せずに評論活動をしている者である」というのがまたわからない。
「大学の先生は一般的に、匿名で何か言われても、放置している」
たしかに一般的にはそうした傾向にあるようだ。しかし、それはフリーの評論家にしてもまた同じではないだろうか。
「評論の場合、明らかに具体的な指摘がなかったり、間違いに基づいた誹謗をやられると、不快感が大きい」
それはそうだろう。その不快感に、大学教員もフリーも違いはないのではないか。何故フリーの評論家が「一番被害をこうむる」などと言えるのか。「被害妄想ではなくて」と言うが、被害妄想でしかないのではないか。
別の箇所では、
とあり、前後を読むとどうもその理由は政治家と同様「お上」の一部であるからということのようだが、私立大学でも補助金を受けているのだし、ある学者がある主張について匿名による批判を受けたとしても、国公立大学にいる間はそれを甘受し、私立大学に移れば甘受する必要はなくなるというおかしな話になり、真面目に考えた上で発言しているとは思えない。
そして、「明らかに具体的な指摘がなかったり、間違いに基づいた誹謗をやられる」ことが「放置」できないほど「不快」なのであれば、まずはその内容について反論すべきなのではないか。 その反論に対しさらに筋違いの誹謗中傷を加えたり、明白な誤りを訂正しない、あるいは逃走するといった対応をした場合、はじめてそれは「卑怯」と言うに値するだろう。
しかしそれは、実名の場合でも起こり得ることであり、事実多々起こっているのではないか。
匿名だからといって何故ことさら「卑怯」と言われなければならないのか、私にはやはりわからない。
小谷野としては、要するに、まず、批判は実名で行うべしという(根拠のよくわからない)大前提があり、自分はそれを忠実に守っているのに、他人がそれに従わずに自由に匿名による批判を行っているのが我慢ならないというだけなのではないか。
さらに言えば、批判は全人格をもって行うのが当然であり、批判の対象者からの反論に対しては、訴訟沙汰となることも含めて、あらゆる要求に応じなければならないとでも考えているのだろう(でなければ、オーマイニュースの記者について、反論しようとするのではなく、その住所を教えろという対応になるはずがない)。
小谷野はそれでいいだろう。筆一本で食っている小谷野は、全人格をもって評論活動に従事しているのだろうから。
しかし、誰もが小谷野のようにフリーの評論家ではないし、実名を公表するメリットがあるわけでもない。
私がインターネット上で匿名を使用しているのは、別に暗闇から石を投げるようなことがしたいからではない。プロの物書きでもない私にとって、このような文章が私の手によるものであると公表することは、私の実生活において何のメリットもない。むしろわずらわしいだけだからだ。おそらく、多くの匿名使用者の心理も同じだろう。それを「未開」と非難するのは小谷野の自由だが、私はそうは思わない。肯定されるべきわが国の(あるいはアジアの?)独自性だと考える。
小谷野のような実名で評論活動をしている者が、匿名による批判は卑怯だと感じる心理はわからないでもない。しかし、誰も小谷野に実名で評論活動を行ってくれと頼んだわけではない。小谷野が好きでその道を選んだのだし、そのリスクは自分で背負えばよい。
筋違いな批判や誹謗中傷が放置できないのであれば、その内容について反論すればよいのだし、さらにそれへの対応が目に余ると考えるのであれば、法的措置もとればいいだろう(実際そうしているようだ)。だが、批判の内容以前に匿名であることが許せないという感覚は私には理解できない。
そもそも、そういう小谷野自身、自分のブログでは氏名を公表していないのはどう理解すればいいのだろうか。
時々、文末に「小谷野敦」と書いた記事が載るが、あれは匿名による批判を回避しているつもりなのだろうか。しかしそれを欠く記事でも他者への批判がしばしば見られる。
もちろん、かのブログが小谷野の手によるものであることは少し調べればわかることである。しかし、少し調べればわかることだからといって、それを調べる義務が被批判者にあるわけではないこともまた当然である。調べない被批判者にとっては、かのブログの記事は匿名による批判にほかならない。
ついでに言えば、小谷野の評論家としての知名度はそう低いわけでもないだろうが高いとも思えない。仮に「小谷野敦」による批判だと被批判者が認知したとして、それが誰のことだかわからなければ実名だろうが匿名だろうが同じことだろう。
昔、車道の左側に隣接する歩道を自転車で進行し、対向して来た自転車に対して「左側通行やろ!」と叫んで過ぎ去っていく男を何度か見たことがある。
彼にとって、歩道においては車道と同様自転車も左側通行すべきであり、(自分から見て)左側の歩道を対向して来る自転車は交通違反でありケシカランという認識なのだろう。
しかし、道路交通法上、そんな規定は存在しないのである(自転車は原則車道を走るべきで、その場合は当然左側通行となるが、自転車の通行が許可された歩道を走る際には中央より車道寄りを走るべきとされているのみで、左側通行は義務づけられていない)。
本来存在しない「ルール」が存在すると勝手に思い込み、それを他者に強要してやまない。
小谷野がやっているのもこうしたことではないのだろうか。
(以下2012.8.31追記)
その後小谷野は、ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」のプロフィール欄において、
と明記するようになった。
私はかねて、匿名での批判は卑怯であるから認めないと言っているが、おかげでいろいろな事件が起きた。私が批判されたのではない例としては、私の後輩の大学院生がウェブサイトに匿名の読書日記を開設していて、しばしば、かなり口汚く対象となる本を批判するので、私は、そういうのをやるなら匿名は良くない、と言ったものである。また、そこまでひどいのなら全部読まなければいいではないかとも言ったのだが、彼は、全部読むのが礼儀だという。全部読んで罵倒されるくらいなら途中で放り出して貰ったほうがいいくらいである。それに、批判しているのはみな大物ばかりだ、とも言うが、そうでないのもあった。すると、もしその人から問い合わせがあったら実名を名乗る、と言い、もし実名で開設したら、本当のことが言えなくなる、と言う。それなら言わなければいいではないかと私は言った。
結局私は、彼にそういうことをやめてほしいと思っていたこともあって、ある時私のブログで実名を挙げたら、全部削除されてしまった。その時すぐにではなかったが、最終的には意見の相違から絶交することになったが、彼は最後に、「小谷野さんに匿名批評を批判されたことで周囲からどれほどのことを言われたか」などと言っていたが、何を言われたか知らないが、匿名批判を非難されたのならそれは自業自得である。
これが、現代の匿名者の奇妙な特徴である。往年の匿名時評家も、しばしば実名を暴かれたし、それで少しは困ったかもしれないが、暴いた奴が悪いなどという途方もない居直りはしなかったのである。まったく、正邪善悪が逆転しているとしか言いようがない。(p.182-183)
私にはこの、匿名での批判が卑怯であるという理屈、ないし感覚がわからない。
この文が収められている「第6章 匿名とは何か」を読み返してみたが、その理由が明記されている箇所はなかった。小谷野にとっては自明のことだからだろうか。
小谷野は上の引用箇所に続けて、荻上チキというブロガーの実名を示唆した際に、自分が非難されたというエピソードを挙げ「私のような正直者は既に時代に合わなくなっているのかとすら思われる」としている。
このケースでは、荻上の小谷野自身に対する批判はともかく、別の人物(小谷野は実名を挙げている)への「批判は罵倒に近く、私はそれが気になった」ことに加え、荻上の方から小谷野に対し実名を明らかにしたことや、ネット上でも写真が公開されていることなどから、「本気で隠す気があるのかどうか疑わしい」として実名を示唆したというのだが、そういった事情があるにしても、何故実名を晒さなければならないのかがわからない。
小谷野はさらに、
赤木智弘も私に対して怒っていたし、オーマイニュースとかいう、今ではなくなってしまった、個人が「記者」になる変なネットニュースでも、これまた名前を忘れたが、小谷野氏の行為は許されるものではない、などとあった。後でオーマイニュースに、この記事の責任者はおたくか、書いた者かと問うたら、書いた者だというから、では住所を教えろと言ったら返事がなかった。
「荻上チキ」は匿名ではなく筆名だ、と言う人もあって、もちろんそうだろうが、実名を明らかにされて怒るというのが匿名のしるしなのである。それに、修士課程修了ということは〔引用者注・荻上は著書に東大大学院修士課程修了との経歴を記していたという〕、大学へ行けば修士論文を閲覧できる。卒論はできないのだから、それだけパブリックな学歴だということになるのだが、その学歴を明示しつつ実名を隠蔽するというのはあっていいことなのか。また、周囲の人間は正体を知りつつ「黙っててね」と言われているわけだが、そんな依頼に従う義務など、どこにもないし、私にもないのである。仮に「黙っていてくれれば教えます」と言われて知ったのなら背信行為になるが、それすらないのである。(p.185)
と述べているが、「周囲の人間は」以降の部分はまさにそのとおりで、そんな匿名性の確保に従わなければならない義理は全くないと思うが、それ以外の部分には同意できない。仮に現職の国会議員や高級官僚――いや元職でもいいか――が匿名で見解や論評を発表したとすれば、彼らはそのパブリックな立場故に非難されなければならないのだろうか。
それに、では小谷野が非難するのはそうしたパブリックなケースに限られるのかと言えば必ずしもそうではなく、冒頭で引用した「後輩の大学院生」のようなケースもあれば、
二十一世紀になって、インターネットが普及してくると、これはもう匿名での誹謗中傷の類があちこちに広まることになり、ここで初めて「匿名で何が悪いか」と開き直る連中というのが登場した。(p.177)
また、
ウェブの発達によって、一般人の匿名での発信が可能になると、匿名に関する倫理は崩壊し始めた。(p.179)
とまで書いているのだから、「一般人」をも含めてやはり匿名による批判自体が「卑怯」と考えているのであって、修論云々は単なる言い訳と見るべきだろう。
あるメールでは次のように述べていたという(太字は引用者による)。
私は、インターネットというものは、誰のチェックも入らないままに駄文や誹謗中傷を垂れ流せる、一面で有害なメディアだと認識しております。かつ、もし内容的に正しいものであろうと、他人を批判する場合には本名ないしは世間で通用している筆名の類を明記するのが最低限のルールだと考えております。「名を名乗る」というのが人に挑戦する際の礼儀であって、名を名乗りたくないならあのようなものは書かなければいいのです。内容以前に、匿名批評を私は憎んでおります。〔中略〕私は実名を名乗らず他人を批判する行為をする者を相手に議論する気はありません。
先に述べたように、『名前とは何か』の「第6章 匿名とは何か」には、小谷野が何故匿名による批判を「卑怯」と見るかを述べた箇所は見当たらなかったが、小谷野が何故匿名による批判を忌み嫌うのかが明らかにされている箇所は存在した。
それにしても、自発的に実名で、しかも場合によっては学術論文になるような内容のレビュー〔引用者注・Amazonの〕を書き込む人のいる西洋と、どうやら具体的に欠点を指摘するとレビュー不掲載になってしまうらしい日本とでは、まるで幕末の西洋と日本のように、文明国と未開国のようにずれている。
〔中略〕
私は安易な日本文化論に対して警戒的だが、これは、少なくとも現時点における、日本の、西洋に対する独自性である(あるいはアジア的といえるのかもしれない)。被害妄想ではなくて、こういうウェブ匿名文化によって、一番被害をこうむるのは、私のような、大学などに所属せずに評論活動をしている者である。大学の先生は一般的に、匿名で何か言われても、放置している。小説家もやられるはすだが、小説の場合は、面白いか面白くないか、いいか悪いかというのは主観的な部分もある。対して評論の場合、明らかに具体的な指摘がなかったり、間違いに基づいた誹謗をやられると、不快感が大きい。これは米国のアマゾンでも、フェミニズムがからんだりすると起こるようだ。(p.181-182)
私も、具体的に欠点を指摘したせいかAmazonでレビュー不掲載になった経験があるので、小谷野の言い分の一部はわかる。しかしそれは匿名か実名かという話とは別問題ではないか。
私は西洋のインターネット事情はよく知らないが、小谷野の言うような相違はたしかにあるのかもしれない。わが国ではネット上で実名でのやりとりを忌避する傾向があるようには感じられる。facebookもわが国ではそれほど普及しないだろう。
しかし、実名であれば何故「文明」的で匿名であれば「未開」的なのだろうか。それについての小谷野の言及もない。
続く「ウェブ匿名文化によって、一番被害をこうむるのは、私のような、大学などに所属せずに評論活動をしている者である」というのがまたわからない。
「大学の先生は一般的に、匿名で何か言われても、放置している」
たしかに一般的にはそうした傾向にあるようだ。しかし、それはフリーの評論家にしてもまた同じではないだろうか。
「評論の場合、明らかに具体的な指摘がなかったり、間違いに基づいた誹謗をやられると、不快感が大きい」
それはそうだろう。その不快感に、大学教員もフリーも違いはないのではないか。何故フリーの評論家が「一番被害をこうむる」などと言えるのか。「被害妄想ではなくて」と言うが、被害妄想でしかないのではないか。
別の箇所では、
さて先ほど、政治家や企業なら匿名で批判してもいい、としたが、では、まだ公務員だった時代の国公立大学教授、助教授などは、どうなのであろうか。
政治家であれ企業であれ、事実と違うことを言われたら、それはもちろん訴えたり、抗議したりする権利はあるが、単なる批判であったら、国公立大学教授、助教授の場合は、匿名でも甘受すべし、とするのが理であると思われる。(p.178-179)
とあり、前後を読むとどうもその理由は政治家と同様「お上」の一部であるからということのようだが、私立大学でも補助金を受けているのだし、ある学者がある主張について匿名による批判を受けたとしても、国公立大学にいる間はそれを甘受し、私立大学に移れば甘受する必要はなくなるというおかしな話になり、真面目に考えた上で発言しているとは思えない。
そして、「明らかに具体的な指摘がなかったり、間違いに基づいた誹謗をやられる」ことが「放置」できないほど「不快」なのであれば、まずはその内容について反論すべきなのではないか。 その反論に対しさらに筋違いの誹謗中傷を加えたり、明白な誤りを訂正しない、あるいは逃走するといった対応をした場合、はじめてそれは「卑怯」と言うに値するだろう。
しかしそれは、実名の場合でも起こり得ることであり、事実多々起こっているのではないか。
匿名だからといって何故ことさら「卑怯」と言われなければならないのか、私にはやはりわからない。
小谷野としては、要するに、まず、批判は実名で行うべしという(根拠のよくわからない)大前提があり、自分はそれを忠実に守っているのに、他人がそれに従わずに自由に匿名による批判を行っているのが我慢ならないというだけなのではないか。
さらに言えば、批判は全人格をもって行うのが当然であり、批判の対象者からの反論に対しては、訴訟沙汰となることも含めて、あらゆる要求に応じなければならないとでも考えているのだろう(でなければ、オーマイニュースの記者について、反論しようとするのではなく、その住所を教えろという対応になるはずがない)。
小谷野はそれでいいだろう。筆一本で食っている小谷野は、全人格をもって評論活動に従事しているのだろうから。
しかし、誰もが小谷野のようにフリーの評論家ではないし、実名を公表するメリットがあるわけでもない。
私がインターネット上で匿名を使用しているのは、別に暗闇から石を投げるようなことがしたいからではない。プロの物書きでもない私にとって、このような文章が私の手によるものであると公表することは、私の実生活において何のメリットもない。むしろわずらわしいだけだからだ。おそらく、多くの匿名使用者の心理も同じだろう。それを「未開」と非難するのは小谷野の自由だが、私はそうは思わない。肯定されるべきわが国の(あるいはアジアの?)独自性だと考える。
小谷野のような実名で評論活動をしている者が、匿名による批判は卑怯だと感じる心理はわからないでもない。しかし、誰も小谷野に実名で評論活動を行ってくれと頼んだわけではない。小谷野が好きでその道を選んだのだし、そのリスクは自分で背負えばよい。
筋違いな批判や誹謗中傷が放置できないのであれば、その内容について反論すればよいのだし、さらにそれへの対応が目に余ると考えるのであれば、法的措置もとればいいだろう(実際そうしているようだ)。だが、批判の内容以前に匿名であることが許せないという感覚は私には理解できない。
そもそも、そういう小谷野自身、自分のブログでは氏名を公表していないのはどう理解すればいいのだろうか。
時々、文末に「小谷野敦」と書いた記事が載るが、あれは匿名による批判を回避しているつもりなのだろうか。しかしそれを欠く記事でも他者への批判がしばしば見られる。
もちろん、かのブログが小谷野の手によるものであることは少し調べればわかることである。しかし、少し調べればわかることだからといって、それを調べる義務が被批判者にあるわけではないこともまた当然である。調べない被批判者にとっては、かのブログの記事は匿名による批判にほかならない。
ついでに言えば、小谷野の評論家としての知名度はそう低いわけでもないだろうが高いとも思えない。仮に「小谷野敦」による批判だと被批判者が認知したとして、それが誰のことだかわからなければ実名だろうが匿名だろうが同じことだろう。
昔、車道の左側に隣接する歩道を自転車で進行し、対向して来た自転車に対して「左側通行やろ!」と叫んで過ぎ去っていく男を何度か見たことがある。
彼にとって、歩道においては車道と同様自転車も左側通行すべきであり、(自分から見て)左側の歩道を対向して来る自転車は交通違反でありケシカランという認識なのだろう。
しかし、道路交通法上、そんな規定は存在しないのである(自転車は原則車道を走るべきで、その場合は当然左側通行となるが、自転車の通行が許可された歩道を走る際には中央より車道寄りを走るべきとされているのみで、左側通行は義務づけられていない)。
本来存在しない「ルール」が存在すると勝手に思い込み、それを他者に強要してやまない。
小谷野がやっているのもこうしたことではないのだろうか。
(以下2012.8.31追記)
その後小谷野は、ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」のプロフィール欄において、
小谷野敦(1962- )のブログである
と明記するようになった。
匿名での情報発信をしても一向に構わないと思いますが、その場合の情報の発信力・説得力は便所の落書きと同程度の捉え方をされることは免れないでしょう。
また、あなたが小谷野氏の主張にこれだけ反論をするということは、あなた自身が匿名での情報発信にコンプレックスを抱えていることの表れだと思います。
あなたの文章の中に「私がインターネット上で匿名を使用しているのは、別に暗闇から石を投げるようなことがしたいからではない。プロの物書きでもない私にとって、このような文章が私の手によるものであると公表することは、私の実生活において何のメリットもない。むしろわずらわしいだけだからだ。」とありますが、メリットもなく、煩わしいだけなら公表などせず、自分の中だけで思っていて下さい。
その様な文章を目にしてしまった人間にとってはもっと煩わしく不快な物となります。
小谷野氏がどうゆう人物か、あなたとの関係がどういったものかは勉強不足で分かりませんが、他の人自身やその作品行動などを非難及び評価し、その文章なりを公表する場合は実名ですることがマナーであると思います。
私は小谷野氏のことはよく存じ上げないのですが、一般的に匿名での他者批判は卑怯とまでは表現しないものの、違和感を大いに感じています。
相手が実名なのに、批判するほうが匿名というのは、自分だけ安全な場所に隠れて石を投げているような印象をもつからです。
ほかにたとえれば野球場で3階席からヤジを飛ばすのを同じようなもので、同じフィールドには立っていないと考えます。
とはいえ、この問題は趣味の問題で「匿名はいかん」「匿名で何が悪い」という対立の解消が、少なくとも短期的な文章上のやりとりでは実現しえないと突き放して考えています。
もっとも、個人が名前を出しづらい雰囲気というのは、組織>個人の風潮が強いと思われる日本の社会の構造的特徴ではないかとも私は考えていますが、これ以上展開して駄文が長大化する蓋然性を自制することにいたします。
たいへん失礼いたしました。
つまり、小谷野を批判しているのが匿名の人間だと、発言者の学歴がわからない。そうすると小谷野の自尊心の唯一の拠り所とも言える「東大卒学術博士」の権威に寄りかかって精神的安定を得ることができなくなるわけです。
小谷野は2006年、匿名ブロガー「マサシ」に罵倒されて刑事告訴まで試みたにも拘らず、「マサシ」が高卒と判明した途端に安堵して「高卒じゃしょうがないね。高卒の者の言論相手に裁判起こしたりしないから安心しな。実はぱっと見て怒り狂ったんだけど、本当に高卒だと知って怒りは収まった」と述べたことがあります。こういう摩訶不思議な言動は、上記の仮定に立って初めて説明できるような気がするのです。
2. 他者の書物や言動に対して匿名で批評を行うのは、例えると、頭巾で顔を隠して決闘を挑むようなもので、卑怯者がすることなのは自明のこと。いかなる方式であれ、批評を行うのであれば、実名明記で行うのが当然のマナー。
3. 顔を隠さないと決闘できないのであれば、表に出るな。
4. Amazon.co.jpのレビューの扱いも問題が多いが、マトモな批評が掲載されると役に立たないという反応があるのが極めて日本的。つまらない本・音楽・映画をつまらないと書いて拍手されないのは、日本において健全な批評精神が育っていないことの証左。
>便所の落書きと同程度の捉え方をされることは免れない
私はこのブログをその程度のものと見ています。だからこそ、こんなブログ名にしているのです。
もっとも、私が見るところでは、実名であっても説得力を欠くブログは多々ありますし、匿名であっても強い説得力を覚えるブログも少数ですが存在します。
>あなたが小谷野氏の主張にこれだけ反論をするということは、あなた自身が匿名での情報発信にコンプレックスを抱えていることの表れ
匿名批評は「卑怯」だという主張に対して、匿名批評をしている者がそうは思わないと述べているだけなのですが、批判の原動力はコンプレックスだと言うのですか。
不思議なことをおっしゃいますね。
では、現在脱原発を唱える者は、実は原発の安全性や有用性を十分理解していて、代替エネルギーが到底それにかなわないことへのコンプレックスから、脱原発を唱えていると言うのですか。
北朝鮮の独裁を批判する者は、本当は独裁が民主制に比べて優れた政治体制だと考えていて、それがわが国では実現されていないことへのコンプレックスから、批判していると言うのですか。
凶悪殺人犯を非難する者は、実は自分もそうした犯罪をやってみたいと思っていて、それを実行に移せないことへのコンプレックスから、非難していると言うのですか。
被批判者にだけ都合のいい、愚劣な論法ですね。
その論法からすると、小谷野氏が匿名批評をこれほど敵視するのは、実名での批評にコンプレックスを抱いているからだということになりますね(笑)。
ところで、そういうアナタは何故実名で書き込まないのですか?
「気にくわない」どころか、私にとって小谷野氏は支持できる主張の多い評論家の1人です。著書も10冊以上は購入しています。
だからといって、その主張の全てに賛同しているわけではありません。
>メリットもなく、煩わしいだけなら公表などせず、自分の中だけで思っていて下さい。
文字は読めても文章の読解力に欠ける、お気の毒な方でしょうか?
一応説明しますが、「このような文章が私の手によるものであると公表すること」つまり、私の実名を明らかにすることは、「プロの物書きでもない私」「の実生活において何のメリットもない。むしろわずらわしいだけだ」と書いたのです。
また、「このような文章」というのは、この小谷野氏に関する記事1本だけではなく、このブログのすべての記事のことを指します。
それらを匿名で発表できることは、当然私にとってメリットがあります。
>他の人自身やその作品行動などを非難及び評価し、その文章なりを公表する場合は実名ですることがマナーであると思います。
小谷野氏もそうおっしゃっているわけですが、その根拠については本書で触れられていません。
アナタはそれを説明できますか?
そして、そういうアナタは何故実名で書き込まないのですか?