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小谷野敦「匿名批判は卑怯である」を読んで

2011-07-27 20:40:38 | 珍妙な人々
 21日の記事「小谷野敦への疑問――匿名批評は卑怯か」がBLOGOSに転載されたところ、小谷野徹氏本人の目に触れたようで、氏のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」に「匿名批判は卑怯である」という記事が掲載されている。
 あまり反論する意欲をそそる内容ではないが、後日「こう言ってやったところ、何の返答もなかった」などと総括されるのもどうかと思うので、少し述べておく。

匿名での批判が卑怯であるというのは「常識」である。新聞の投書欄でも、本人のプライヴァシーにかかわるもの以外は、実名になっている。他人を批判するからには、もし実名でするのは嫌だ、というのであれば、公共の場で発言するのを控えるべきである。


 新聞や雑誌の投書欄が実名主義を採っているのは承知している。それが、匿名=卑怯という考えに基づいているのかどうかはともかく、何かをおおやけに述べるからには実名によるべきであるという考え方に立っていることは確かだろう。その割には新聞や雑誌に無署名記事が多数見受けられるのが不思議だが、ともかくそうした実名主義がわが国出版界の趨勢であることは事実だろう。そしてそれはパソコン通信やインターネットが普及する以前からの伝統でもあろう。
 しかし、私は何も、新聞や雑誌において、匿名の投書を大いに採用すべきであると主張しているのではない。
 パソコン通信を経てインターネットが普及した現代において、読者が、読んだ本や記事の感想――あるいは映画でもテレビ番組でもゲームでも何でもいいのだが――をネット上で発言したいと思うことも当然あるはずだが、その際に、そこに批判的内容が含まれているからといって、一律に、匿名批評は卑怯である、実名を出せないなら発言するななどと、作家や評論家といった制作者サイドが発言するのはおかしいのではないか、と言っているのだ。

こういうのは「なぜいじめをしてはいけないのか」というくらいの愚論である。もちろん、世の中には、イスラム教を信奉しない者、ムハンマドを冒涜する者は殺害する、という者らがいる。だから「匿名で批判して何が悪い」というのは、それと同じなのである。


 匿名批評は人を殺害することとは異なるから「それと同じ」などと言われても承服しかねる。
 ただ、「いじめ」に通じるケースはあるかもしれない。これについては後で触れる。

なお私のブログは、少し調べれば私のブログであることは分かるのだから、そのあたりはただのいちゃもんで、どうもこの深沢というのは、匿名の歴史について述べるだけの知見もない者であろう。


 「少し調べれば」わかるという点については私もそう述べている。そして「それを調べる義務が被批判者にあるわけではないこともまた当然である。調べない被批判者にとっては、かのブログの記事は匿名による批判にほかならない。」とも述べている。それが「ただのいちゃもん」か。
 何かのきっかけで、氏のブログの氏名を明記していない記事において、不当な批判をされていると感じた被批判者が、もうそれ以上氏のブログを読んだり調べたりする意欲をなくしてしまうケースも有り得るだろう。そうしたケースでは氏のやっていることは匿名批評と同じではないかと書いたつもりだったのだが、氏はそうしたケースなど全く存在しないはずだと言うのだろうか。
 批判は実名でなければならないと主張するなら、批判記事を多数含むブログも実名で公開すればいいはずである。被批判者に「少し調べ」させる必要などないはずだ。氏がそうしないのは何故なのだろうかと問うているのだが。
 なお、私にはたしかに「匿名の歴史について述べるだけの知見」はない。『名前とは何か』の第6章も冒頭の牛島秀彦と「Q」の論争をはじめ、知らない話ばかりである。しかし、現代社会において匿名批評が「卑怯」か否か、あるいは匿名批評が社会的に是認されるのかどうかを論ずるのに、匿名の歴史についての知見が必要なのだろうか。

 国立大学教授は、かつて国家公務員であった。国家に対する批判は、匿名でも許される。何でそれが理解できないのであろうか。また、大学教員は、大学から給料をもらい身分を保護されているから、匿名で批判されても黙殺すればよろしい。フリーの文筆家は、そうはいかない。簡単なことなのに、なんで理解できないのか、頭が悪いのではないか。


 国立大学教授の主張に対する批判が国家に対する批判か。国立大学教授の主張即ち国家の主張だというのか。国立大学教授の主張はあくまでその教授個人のものであって、国家とは関係ないだろう。国立大学教授にマルクス主義者や無政府主義者がいたことを氏が知らぬはずもあるまい。おふざけもほどほどにしてもらいたい。
 前にも書いたが、氏に従えば、ある人物が国立大学教授である間は匿名による批判は許されて、退官して私立大学の教授になったりフリーの評論家になったりしたら、同じ主張に対しても匿名による批判は許されないというおかしな話になる。氏はそれでいいのだと本気で考えているのか。

 大学教員は身分を保護されているだろうか。不用意な発言が世論のバッシングを受け、降格されたり退職を余儀なくされたりするケースもままあるのではないか。
 フリーの文筆家であるからといって何故批判を看過できないのか。大学教員と違って、書いたものが即収入と直結していて、匿名批評によって評判が落ちて、本が売れなくなったり仕事が来なくなったりすると生活の糧を断たれるからか。
 しかし、大学教員であれフリーの文筆家であれ、書いたものや発言が社会においてさまざまに論評されることは当然のことではないのか。その結果、仕事が続けられなくなったとしてもそれは自己責任というものではないのだろうか。俺はフリーだから、本は買ってもらいたいが、匿名批評はご遠慮願いたいとは虫が良すぎるのではないか。
 もちろん、ネット上では筋違いの批判や事実無根の中傷といったものもあるのだろう。そうしたものには反論すればいいし、反論する価値もなければ黙殺すればいい。実際、多くのフリーの文筆家はそうしているのではないか。そしてそれによって何か問題が起こっているだろうか。不当な匿名批評によってフリーの文筆家が廃業に追い込まれた事例があるのなら教えていただきたい。

 「反論すればいい」というのは、では乙川が林道義を罵った件はどうなるのであろうか。私は当事者ではないわけだし。この人には、他人が他人に暴力を加えているのを黙過できない、という感覚がないのであろうか。現にあそこに書いた後輩の某君にしても、私を罵っていたわけではない。もう少し頭のいいやつ、出てこいや。


 乙川氏の件にしても後輩氏の件にしても、小谷野氏に対する罵倒を氏が問題視したのではないことはわかっているし、そう読めるように書いてある。
 その罵倒がどのようなものだったのか私は知らないが、当事者でないからといって発言できないということはないだろう。好きに発言すればいいのではないか。
 「他人が他人に暴力を加えているのを黙過できない、という感覚」はもちろん私にもある。路上で人が一方的に殴られていれば止めるだろう。しかし殴っている側に対して、「お前はどこそこの何丁目何番地に住んでいる誰々だ!」などと叫ぶ趣味は私にはない。

川上未映子の小説『ヘヴン』に、いじめをして何が悪いか、と開き直る少年が出てくるが、深沢が言っているのはそれと同じだ。もし批判される人に、匿名がいいか実名がいいかと訊いたら、普通は実名のほうがいい、と言うだろう。不快なのだよ。


 『ヘヴン』は未読だが、こう言うからには、氏は匿名批評を「いじめ」と同質のものだと考えているのだろう。
 たしかに、いわゆる学校裏サイトの問題のように、ネットを使って匿名による「いじめ」がなされるケースは存在する。そうしたものは大いに問題だと思っているし、「何が悪いか」などと開き直るつもりなど全くない。
 しかし、ネット上での匿名批評、例えばAmazonのブックレビューや、ホームページやブログのさまざまな文章は、そのような「いじめ」と同質なのだうか。それらの執筆者は、批評対象を「いじめてやれ」と思ってそうしたものを書いているのだろうか。そうではあるまい。、
 実名であれ匿名であれ、何かを社会的に発信すれば、何らかの反応が返ってくるのは当然だろう。その際、実名であればその内容は発信者の社会的評価に直結し、匿名であればそのリスクはない。それを「卑怯」だと感じるのは実名者の心理としては理解できる。
 しかし、実名者は敢えてその道を選んだのだろう。そしてそれだけのメリットもあるのだろう。匿名者が何をどう書こうが、所詮無名人の戯れ言にすぎない。もともと土俵が違うのだ。
 もちろん、筋違いの批判やいわゆる誹謗中傷には反論してもいいし、目に余るものには法的措置だってとればいい。
 だが、そういったものがあるからといって、匿名批評を一律に否定するのは、脅迫に用いられるから手紙をなくせとか、殺人に用いられるから包丁をなくせと言うようなものではないだろうか。

 あと、被批判者にとって匿名による批判が「不快」なのは当然だろうが、私は快・不快の話などしていない。
 「不快」かどうかは、「卑怯」かどうか、社会的に是認されるのかどうかとは別の話だろう。
 氏が「自分にとって不快だから、匿名批評はお断り」と考えるのは氏の自由だが、それは、制作者側のわがままというものではないだろうか。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
社会的に是認などされていません。 (ハタメイコ)
2013-10-09 18:33:47
「小谷野敦」というのは匿名と変わりません。

私は実生活で教師をしていますから、ただでさえ自由な言論活動はできない身です。守秘義務を負っている公の私と、私個人は、完全に分けられるものではありません。また、忙しい身ですので、いろいろ書かれていることも最近知りました。

なのに、刑事告訴され不起訴(起訴猶予)となった腹いせに、自由な言論活動で私の本名を勝手に公に出し、なおかつ私を題材にした小説まで書いて削除しない。警察の取り調べ録音をyoutubeにアップする。

これがいじめ以外の何ですか。

卑怯というより、とうてい社会的に是認などされない。この人とは1度会っただけです。既に顔も覚えていないでしょう。ましてや、10数年前の一件のことなど、この人は何も知らない。

匿名で勝手なこと言う人と何ら変わりません。

以上の理由から私は完全に無視しています。もう書くネタも尽きた頃です。
私の「今」についても何もご存知ではないでしょうし。
乱文失礼しました。では。
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Re:社会的に是認などされていません。 (深沢明人)
2013-10-29 00:16:19
 本当に失礼な乱文だと思いました。

 あなたと小谷野氏の間に何があったのか私は知りませんし、興味もありません。
 あなたが書かれていることも私にとっては意味不明です。そもそも他人に理解させようとする気があなたにあるのか疑問です。
 単に小谷野氏に対する不満を述べたいのであれば、ほかの場所をお使いください。記事の内容に無関係なコメントはご遠慮ください。

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