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マルティン・ニーメラーの詩について 反共は戦争の前夜か

2016-05-23 06:18:23 | 現代日本政治
 今年3月に、共産党を破防法の調査対象団体であるとする政府答弁書を批判するしんぶん赤旗の記事をBLOGOSで読んだ。

   「2016 とくほう・特報/「破防法」答弁書 市民が批判/時代錯誤 安倍政権/「共産党への攻撃は市民への脅し」「反共は戦争の前夜」 識者も指摘」(2016年3月26日付)

 記事の一部を引用する。

 「共産支持者ではないが、共産党に破壊(活動)防止法適用のニュースには怒りを感じる。国民の支持を受ける公党への誹(ひ)謗(ぼう)とうつる」、「自民党こそ、日本の平和を破壊しようとしている」。党本部への電話・メールやツイッターなどの投稿で、こんな批判が広がっています。

国民は分かっている

 法政大学元教授(政治学)の五十嵐仁氏は、閣議決定に対し「古色蒼然(そうぜん)です。共産党は暴力的な方法で政権転覆を考えていないし、暴力革命を方針としていないことは多くの国民はわかっています」と指摘します。

〔中略〕

 五十嵐氏は共産党へのデマによる誹謗は戦争前夜の声であると指摘します。

 「戦前日本もドイツも、戦争へと突入できるようにするために、もっとも頑強に戦争に反対した共産党を弾圧しました。ナチスは国会議事堂放火事件をでっち上げ、それを口実に共産党を弾圧し、ヒトラーの独裁体制を確立しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大し、ドイツは世界を相手に戦争をする国になっていったのです。同じように、安倍政権は、共産党を狙い撃ちにした攻撃によって戦争をする国づくりをすすめようとしています」と戦前と共通の危険性を語ります。

 まさに「反共は戦争の前夜」との指摘です。


 これは、共産党への弾圧を危険視する際によく引用されるマルティン・ニーメラーの詩を念頭に置いているのだろう。

 五十嵐氏は、自身のブログの4月29日付の記事「再びかみしめるべき「反共は戦争前夜の声」という言葉」でも、この詩を持ちだして次のように述べている。

 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

 これは、マルティン・ニーメラー牧師の有名な詩です。今また、これと似たような状況が生まれつつあります。再び「反共は戦争前夜の声」という言葉をかみしめなければなりません。
 安倍政権は閣議決定した答弁書によって、共産党が破壊(活動)防止法の適用対象だと回答しました。普通に活動して多くの支持を得ている天下の公党に対するこのような攻撃は古色蒼然たるもので荒唐無稽ですが、まさに「ナチスの手口」に学んだものでもあります。
 戦前の日本もドイツも、戦争準備の過程で頑強な反対勢力であった共産党を弾圧しました。やがてその弾圧は自由主義者やカトリックへと拡大していきます。同じように、安倍政権は共産党を狙い撃ちにして、戦争する国づくりをすすめようとしているわけです。

 悪質なデマまで使って攻撃するのは、野党共闘の強力な推進力となった共産党を排除できなくなったからです。その力を恐れているからこそ目の敵にしているわけで、共産党が手ごわい政敵になったと自民党が太鼓判を押したようなものです。
 これは安倍政権の弱さと焦りの現れでもあります。市民から大きな声を上げて糾弾しなければなりません。「最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった」という間違いを繰り返さないために。そして、後になって「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という状況を生まないためにも……。


 この詩は共産党擁護によく持ち出されるので以前から知っていたが、出典は何なのだろうとふと気になった。
 ネットで検索してみると、ブログ「世に倦む日々」の4月27日付の記事「「結末を考えよ」 - ニーメラーの教訓と弱すぎる戦争への危機感」に、この詩をわが国で広く紹介したのは政治学者の丸山眞男(1914-1996)であるとの主張があった。

ニーメラーはルター派教会の牧師で、ナチスに抵抗して1937年に強制収容所に入れられ、生還後にこの悔恨の言葉を残した。ところで、今日、この言葉は政治に関心を持つ現代人の常識の範疇となっているけれど、出典は何で、どこから広く知られるようになったのだろうか。実は、この痛切な反省を日本に紹介したのは、丸山真男の『現代政治の思想と行動』である。1961年の論文「現代における人間と政治」の中に、ミルトン・マイヤーの著書からの引用として紹介されている。原文を日本語に翻訳したのは丸山真男だ。

この言葉を日本の政治学の一般知識にしたのは丸山真男である。が、このニーメラーの警句を説明するWiki情報には、なぜか丸山真男についての言及がなく、この国の政治学で最も多く読まれてきた古典的著作で紹介しているという記述がない。この事実はきわめて不審で、偶然だとすれば奇妙であり、何か動機があって悪意で丸山真男を捨象したのではないかという疑いを禁じ得ない。丸山真男の『現代政治の思想と行動』というのは万事がこんな感じで、ビートルズの名曲のように「これがあれだったのか」と既視感の衝撃を覚える発見が随所に散らばっている。アクトンの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の言葉(P.444)もそうだし、トクヴィルの回想録の「ひとが必要欠くべからざる制度と呼んでいるものは、しばしば習慣化した制度にすぎない」の一節(P.576)もそうだ。まさに政治学の宝石箱。


 そこで、丸山の『現代政治の思想と行動』に収録された「現代における人間と政治」という文を読んでみると、次のようにあった。

ニーメラーの次のような告白を見よ――
  「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた」(Mayer,op.cit.,pp.168-169)
 こうした痛苦の体験からニーメラーは、「端初に抵抗せよ」(Principiis obusta)而して「結末を考えよ」(Finem respice)という二つの原則をひき出したのである。彼の述べているようなヒットラーの攻撃順序は今日周知の事実だし、その二原則も〔中略〕言葉としてはすでに何度も聞かされたことで、いささか陳腐にひびく。けれどもここで問題なのは、あの果敢な抵抗者として知られたニーメラーさえ、直接自分の畑に火がつくまでは、やはり「内側の住人」であつたということであり、しかもあの言語学者がのべたように、すべてが少しずつ変つているときには誰も変つていないとするならば、抵抗すべき「端初」の決断も、歴史的連鎖の「結末」の予想も、はじめから「外側」に身を置かないかぎり実は異常に困難だということなのである。しかもはじめから外側にある者は、まさに外側にいることによつて、内側の圧倒的多数の人間の実感とは異ならざるをえないのだ。(丸山『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964、p.475-476、原文中の傍点は引用ではゴシック体に変更した)


 さて、では心ある国民は、五十嵐氏やしんぶん赤旗が言うように、共産党が破防法の調査対象団体とされていることを「弾圧」であり「戦争の前夜」だととらえて、安倍政権を「大きな声を上げて糾弾しなければな」らないのだろうか。
 私にはそうは思えない。
 破防法の調査対象団体とされていることは、何ら結社の自由を害するものではないということもあるが、それより何より、共産党が政権を獲得した場合、ナチスと同じことをする恐れが多分にあり、実際に共産党政権の国々ではそうしたことが行われてきた以上、共産党がこんな詩を持ち出して危険性を煽っても全く説得力を覚えないからだ。

 1917年のロシア革命では、皇帝が退位した後、臨時政府とソビエトの二重権力となった。ソビエトを基盤としたボリシェビキのレーニンは武装蜂起してケレンスキーの臨時政府を打倒し、社会革命党左派と組んでソビエト政権を樹立した。
 憲法制定会議の普通選挙が行われたが、ボリシェビキは議席の4分の1しか得られず、社会革命党が過半数を獲得した。自由主義者の政党である立憲民主党も議席を得たが、ソビエト政権により解散させられ、メンバーは逮捕されるか亡命した。憲法制定会議は開かれたが、少数派であるボリシェビキと社会革命党左派は権力をソビエトに委ねるよう求め、否決されると退場した。翌日会場は軍により封鎖され、ソビエト政権は会議の解散を命じた。監禁されていた廃帝ニコライ2世とその一家は1918年7月にソビエトの秘密警察により銃殺された。
 松田道雄は『ロシアの革命』でその後の状況を次のように描いている。

 ボリシェヴィキが権力を奪取してしばらくは、他の政党も合法的に存在していた。〔中略〕
 一九二〇年の第八回ソヴィエト大会には、社会革命党もメンシェヴィキも、その代表を公然と出席させることができた。一九二一年になると事態はかわってきた。メンシェヴィキの指導者たちは、国外に亡命しなければならなくなった。メンシェヴィキはまだ亡命できたが、社会革命党は、それさえできず、一九二二年には、指導者たちは反革命のかどで裁判され、処罰されなければならなかった。それ以後、共産主義者でないものには結社をつくる自由はなくなった。
 しかし、ボリシェヴィキ党のなかでは、反対派は自由に意見をのべることはできた。ブレスト・リトフスクの講和を受諾するかどうかでは、レーニンは数からいえば自分より多い反対派を説得しなければならなかった。
 一九二〇年の第九回党大会は、反対派がもっとも自由に発言できた最後の機会であった。〔中略〕第九回党大会は、左翼反対派の意見を反映して、ことなった意見のゆえに党員にどんな圧迫もくわえてはならないむねの宣言さえした。(松田道雄『ロシアの革命』河出文庫、1990、p.350-352)


 だが、革命軍の内部からソビエト政権に抵抗するクロンシュタットの反乱が起きると、第10回党大会で分派活動は禁止された。
 1924年にレーニンが死ぬと、後継者争いにスターリンが勝利し、敗れたトロツキーは国外追放された。1930年代にはいわゆる大粛清が行われ、多数のオールド・ボリシェヴィキが処刑された。トロツキーも1940年にメキシコで暗殺された。
 これらは政治家の話であって、一般国民に対してどれほど苛烈な弾圧が加えられたか、ここで詳述する余裕はない。

 ニーメラー、あるいは丸山に倣うなら、次のような詩も成り立つのではないだろうか。

 共産主義者が皇帝や貴族を襲ったとき、私はやや不安になった。けれども自分は皇帝でも貴族でもなかったので何もしなかった。
 それから共産主義者は富農や資本家を攻撃した。私は不安はやや増大した。けれども自分は富農でも資本家でもなかったので、やはり何もしなかった。
 それから共産主義者の攻撃の手は社会主義者やアナーキスト、さらに共産主義者内部の反対派へと伸び、私の不安はそのたびに増大したが、私は社会主義者でもアナーキストでも共産主義者内部の反対派でもなかったので、なおも何もしなかった。
 そして共産主義者の攻撃の手は彼らの政府に忠実な一般国民にまで伸びてきた。私は一般国民であったから何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。

 ソ連に限らず、中国でも北朝鮮でもベトナムでも、共産党政権の下では同じようなことが行われてきた。
 現在の日本共産党は、ソ連型の社会主義建設は行わないと主張している。しかし、元々ボリシェビキが世界革命のために設立したコミンテルンの日本支部として誕生し、マルクス=レーニン主義を理論的基礎とし(現在の日本共産党は「科学的社会主義」と称しているが、これは単なる言い換えである)、レーニンの党組織原理である民主集中制を未だ放棄していない日本共産党が、単に行わないと宣言しても、何の説得力があるだろうか。

 私は、思想・信条の自由や結社の自由は、民主制の下で何よりも尊重されなければならないと思っている。
 だから、共産主義を信奉する自由も、共産党を組織する自由も認められるべきだと思う。
 しかし、かつて武装闘争を行った結社が、破防法の調査対象とされることもまた当然だと考える。調査は結社の自由を侵すものではないし、それが「弾圧」だとも「戦争前夜」だとも思えない。
 また、「端初に抵抗せよ」と言うなら、かつて武装闘争路線を採った日本共産党に対しても、その行動を調査し、共産主義が国民への独裁である危険性を指摘することは何ら否定されるべきではないのではないか。

 反共が必ず戦争を起こすというものでもあるまい。スペインのフランコやチリのピノチェトは共産党が参加した政権を打倒し、インドネシアのスハルトは共産党によるクーデターを鎮圧してそれぞれ権力を握ったが、別に侵略戦争に手を染めたことはない。
 第二次世界大戦はナチス・ドイツとソ連が密約を交わして起こしたものだから、言わばソ連は共犯である。戦後も朝鮮戦争をはじめ共産党政権が戦争を起こすことはしばしばあったことも思い起こすべきだろう。

 なお、上で引用した丸山眞男の「現代における人間と政治」は、六〇年安保闘争を振り返ってその翌年に書かれたもののようである。
 当時はまだ民主主義の敵と言えばナチスという印象が濃厚だったのだろう。
 しかし、文化大革命やカンボジア大虐殺やソ連崩壊を経て、共産党政権の様々な害悪が広く明らかになったこんにち、未だに半世紀前と同様にニーメラーの詩でおどかす手法が通用すると思っている時代錯誤にはあきれるほかない。

 ニーメラーの詩については、以下の2つの記事が興味深い内容だった。

   はてなキーワードの「マルチン・ニーメラー」

   愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt) マルチン・ニーメラーが本当に言ったことと、リベラルな人の嘘

 また、丸山の「現代における人間と政治」については、これをドイツ文学者の西義之(1922-2008)が批判的に取りあげていたことを思い出した。私はこの批判に共感する。
 当ブログの記事
   53年前の「おどかし屋」――特定秘密保護法案騒動と60年安保騒動
を参照。


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