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靖国神社と新追悼施設に思うこと(上)

2009-09-06 00:22:00 | 靖国
 先月16日付けの産経新聞朝刊が社説(産経では「主張」と言う)で、麻生首相の靖国神社不参拝を批判し、新たな国立追悼施設建設への反対を表明していた。

【主張】8月15日の靖国 代替施設では慰霊できぬ

 64回目の終戦の日を迎え、東京・九段の靖国神社には炎暑の中、今年も多くの国民が参拝に訪れた。高齢者の遺族や戦友たちにまじって、親子連れや若いカップルが年々増え、この日の靖国詣でが広く国民の間に浸透しつつあることをうかがわせた。

 だが、閣僚では、野田聖子消費者行政担当相がただ一人参拝し、麻生太郎首相ら他の閣僚は参拝を見送った。予想されたこととはいえ、寂しい限りだ。

 麻生首相は「(靖国神社は)もっと静かに祈る場所だ」といっており、自分が参拝することで靖国の政治問題化を避けたとみられる。だが、首相が国民を代表して、国のために亡くなった人たちを慰霊することは、一国の指導者としての務めである。参拝見送りは残念な判断である。

 野田氏は「閣僚であろうとなかろうと、この日を大事に思っている」と述べ、「国務大臣」と記帳したことを明らかにした。野田氏の行動を評価したい。

 終戦の日の閣僚による靖国参拝は、以前は半ば慣例になっていた。だが、平成4年の宮沢内閣で12人の閣僚が参拝したのをピークに減少に転じた。中国や韓国との外交問題化を恐れたためとみられるが、情けないことだ。首相をはじめ閣僚が、普通に参拝する光景が早くよみがえってほしい。

 一方、民主党の鳩山由紀夫代表は「靖国には天皇陛下も参拝されない。心安らかに行かれる施設が好ましい」と述べ、靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設の建設に意欲を示した。岡田克也幹事長も、民主党政権になれば、それを検討する有識者懇談会を設置する方針を示した。

 小泉内閣でも同じような懇談会が設けられ、いったんは国立追悼施設建設の方向性が打ち出されたものの、「税金の無駄遣い」「靖国神社の存在をおとしめるもの」などの批判が相次ぎ、棚上げになった。それをあえて蒸し返そうという考えは極めて疑問だ。

 日本の戦没者慰霊の中心施設は靖国神社であり、鳩山氏らが構想する国立追悼施設はそれを形骸(けいがい)化するものだからだ。

 鳩山代表は「(首相になっても)靖国神社に参拝するつもりはない。閣僚にも自粛していただきたい」とも述べ、岡田幹事長もこれに同調した。民主党首脳の靖国問題をめぐる発言については、今後も直視していきたい。
 同じ朝刊に、阿比留瑠比記者の次のような記事も掲載されていた(タイトルはウェブ版のもの。紙面とはおそらく異なる)。

古くて新しい追悼施設構想 「鎮魂を風化させるのか」

 長く「戦没者慰霊の中心施設」とされてきた靖国神社だが、衆院選後にその位置づけを危うくされかねない状況にある。

 15日の戦没者追悼式を欠席した民主党の鳩山由紀夫代表は記者会見で「戦争で亡くなられた方の追悼に関して、必ずしも大きく争点化はしたくない」と述べた上で、矛盾する言葉を付け加えた。

 「天皇陛下が安らかに参拝していただける施設が必要ではないか。国立の宗教性のない追悼施設を視野に入れながら、党として取り組んでいくべきではないか。粛々と行いたい」

 民主党では岡田克也幹事長も熱心な追悼施設推進派で、政策集「INDEX2009」でも宗教性を持たない新施設の設置に取り組むことをうたっている。

 とはいえ、宗教性がなく「魂」の存在しない追悼施設がどれだけ国民の心を慰め、誰が喜んでそこに行くというのだろうか。

 国立・無宗教の新施設構想は、福田康夫前首相の官房長官当時の私的懇談会も平成14年に建設を提言したが、自民党内で猛反発を受けつぶれた経緯がある。

 だが、実はこの構想は、「A級戦犯分祀論」と並び、それ以前から何度も浮上しては消えた「亡霊」のようなアイデアなのだ。故藤波孝生元官房長官はかつてこの構想について次のように語っていた。

 「中曽根内閣のときも非公式に検討したが、それでは解決にならない。鎮魂は国家の基本だが、国民は靖国こそが戦没者追悼の中心施設だと思っている」

 15日に靖国神社境内で開催された戦没者追悼中央国民集会では、民主党の新施設構想の批判が続出。日本会議の三好達会長(元最高裁長官)はこう訴えた。

 「『靖国で会おう』と誓い合った英霊の心を踏みにじるもので、言語道断だ」

 一方、鳩山氏はこの日発表した「終戦の日にあたって」との談話で、先の大戦について「悲惨で愚かな戦争」と簡単に総括し、「民主党は過去の歴史と正面から向き合い…」と記した。

 安倍晋三元首相は15日の参拝後、「英霊に尊崇の念を表するためにお参りした」と語ったが、鳩山氏の言葉には、中国や韓国への配慮はあっても英霊への思いはうかがえない。新施設建設の安易な推進は、日本のために一身をささげた英霊の鎮魂を国民の目から遠ざけ、風化させることにつながりかねない。(阿比留瑠比)

 3年前にも書いたが、私は、国立の新たな追悼施設を建設するという案に賛成である。

>宗教性がなく「魂」の存在しない追悼施設がどれだけ国民の心を慰め、誰が喜んでそこに行くというのだろうか。

 そうだろうか。
 少なくとも私は行く。

 広島の平和記念資料館は、言うまでもなく無宗教の施設である。しかし、訪れる人は絶えることがない。

 こうした施設にとって、宗教性が大事なのだろうか。
 国家が戦死者を追悼するということ自体が大事なのではないだろうか。

 中曽根康弘は首相在任中、靖国神社のような施設なくして、誰が国のために命を捧げるかという趣旨の発言をしたと記憶している。
 追悼施設があろうがなかろうが国のために命を捧げることは必要ではないかと思うが、国のために命を捧げた者に対して国家がこれを顕彰するのは当然だという点では共感できる。
 ただ、それが神社である必然性はどこにあるのか。

 靖国神社の前身である東京招魂社は1869年(明治2年)に設立された。もともとは、戊辰戦争の新政府軍側の戦死者をまつる施設として発足したのだろう。それが何故神社というかたちをとったのか。それは要するに、明治新政府によるわが国が「神の国」であったからにすぎない。国家神道の産物にすぎない。
 わが国が現在も「神の国」であるなら、靖国神社を国家の追悼施設としてもいいだろう。しかし、そうではない。
 国家施設としての靖国神社など、長大なわが国の歴史の中で、たかだか100年にも満たない期間存続したにすぎない。
 時代に合わせた追悼の仕方があっていいのではないか。

 産経は8月12日の「主張」でも、麻生首相の靖国不参拝方針を批判している。それによると、麻生は不参拝の理由をこう説明したという。

>「(靖国神社は)最も政治やマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ。もっと静かに祈る場所だ」

 そして、上記の阿比留記者の記事中の鳩山由紀夫の発言。

>「天皇陛下が安らかに参拝していただける施設が必要ではないか」

 そのとおりではないか。

 16日の「主張」は言う。

>日本の戦没者慰霊の中心施設は靖国神社であり、鳩山氏らが構想する国立追悼施設はそれを形骸(けいがい)化するものだからだ。

 そうだろうか。
 戦前はたしかに靖国神社が公式の追悼施設だった。しかし占領下でそれが許されなくなり、靖国神社は一宗教法人と化すことで生きながらえた。そして独立回復後もそれが続いてしまった。
 本来は独立回復後に靖国神社の立場を明確にし、非宗教的な追悼施設に転身すべきだったのだと思う。いわゆる靖国神社国家護持の動きにその可能性があったのだが、靖国神社自身やその支持者が非宗教化を受け入れなかった。
 そして、A級戦犯合祀の発覚により、事態はいよいよこじれた(この件については次回以降に触れる)。

 「日本の戦没者慰霊の中心施設は靖国神社であ」るとしても、憲法の政教分離の原則にのっとるならば、産経は、麻生の言うように、靖国神社の非宗教法人化を訴えるべきではないだろうか。
 本来国家が担うべき戦死者追悼の任務が靖国神社という一宗教法人に委ねられたままだということが、事態を複雑にし、解決困難なものにしているとは言えないだろうか。

 なお、付言すれば、

>日本の戦没者慰霊の中心施設は靖国神社であり、

という表現には欺瞞的なものを覚える。

 「戦没者」とは普通、民間人の犠牲者も含む。東京大空襲や原爆投下などで亡くなった人々を含む概念である。政府が毎年8月15日に行っている「全国戦没者追悼式」に言う「戦没者」もそれを指している。
 しかし、靖国神社は、あくまで国のために尽くして亡くなった人々を神としてまつる施設である。一般の民間人の犠牲者をまつっているわけではない。
 靖国神社は、「戦死者」、つまり戦って亡くなった人の慰霊の中心施設であるとは言えるだろうが、「戦没者」の慰霊施設であるとは言えない。
 産経はこの点をごまかして、靖国が一般人の犠牲者をも追悼する施設であるかのように印象づけようとしている。

続く

(関連記事「戦没者と戦死者」)


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