(承前)
続いて、後半の「平和国家論」を紹介する。
まず矢内原は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」という講演を紹介する。これは、ナポレオン戦争に敗れたドイツで、国民の士気を鼓舞するために行われた著名な講演。フィヒテは、ドイツは敗れたが、ドイツ国民は優秀であり、武器による戦は終わったが、これから徳の戦が始まる、ドイツ国民はこれに勝たなければならないと説いたという。そのため、敵国にあなどられないために、自国の戦争責任者を感情的に非難しないよう、また自国の思想を捨てて外国にへつらわないよう主張し、民族の復興を唱えたという。
第一次世界大戦の敗北後に興隆したナチスにはフィヒテの主張に似た面もあるが、何よりフィヒテが排斥してやまなかった利己心に拠った点でフィヒテとは大いに異なるという。日本はフィヒテ、ナチス、どちらの道を歩むのか。
さらに矢内原は、カントの『永久平和論』を紹介する。そして、平和国家というものは利益の問題ではなく義務の問題として考えるべきだと説く。
そして、日本の新しき教育の目標、新しき人を造るということを考えるに当たって、
《然らば日本人の特色を為す徳はどこにあるか。若し今日迄の日本人の精神教育が全部間違っていたのでないならば、二千六百年の歴史的背景の中で之こそ日本的な徳であるとして示し得るものは、忠君愛国の精神じゃないか。天皇を西洋人の考えるような専制君主としてでなく、我々の国民生活の中心として、民族の宗家として尊み又親しむ。そういう意味の忠君愛国の心。之は日本的である。確かにそれは日本的であるのです。何故それを今日発揮しないか。西洋人が天皇制をどうこうと言えば、日本人迄も天皇を一つの制度と考えてかれこれ議論する。併し、天皇は制度ではない。日本人の国民的感情の中心である。日本に於て、日本の国の事を一番本気に、一番真面目に、一番私心なく考えて、心配して行動せられたのは天皇御自身だ。本当に陛下はお気の毒だ。あんなに一生懸命になっておられて、という国民的感情をば、なぜ泣いて率直にそのまま披瀝しないのか。我々の血液の中に流れているところの、天皇に対する言うに言われない尊敬と愛著の気持は、封建制であるとか神話的であるとか浅薄な批評によって片付けてしまうことの出来ないだけの、我々の民族的意識の中に深く根をもっている感情であると私は信じている。》(p.92~93)
と述べる。
前回、矢内原が日本精神を嗣ぐ者は基督教であると述べていることを取り上げたが、だからといって矢内原は単純な欧化主義者ではない、むしろ天皇崇拝者であることがわかる。
そして矢内原は、新しき人を造るということは、平和人を造ることであると説く。何故なら日本は武装を解除され、今後も武装をもつことができないとされたのだからと。
《それ故に我々にとって武装か平和かは選択の問題ではない。我々には平和あるのみ。平和は絶対的要請であります》(p.94)
では平和人とは何であるか。それは、闘争を本義とせず平和を本旨として生きる者だという。言い換えれば、愛の人だという。
ここに至り、俄然話は宗教じみてくる。
矢内原は、カントの『永久平和論』と、日本の置かれた条件の違いを指摘する。
曰く、カントは将来の戦争に対する資材の放棄をうたっているが、これは日本だけのことで、他国は皆将来の戦争に備えている。また、カントは内政干渉を廃しているが、日本は大いに干渉を受けている(占領下なのだから当然だろう)。
しかしそれでも、日本は平和国家として歩むべきだと矢内原は言う。
《他国の政策、世界の現実はどうであろうとも、わが国は平和を性格とする国であるべきだ。否、苟しくも国というものは、平和を理想とすべきものだ。〔中略〕たとい世界の現実は戦争状態であるか、或いは戦争と平和との交替であるとしても、理念としては平和こそ国の国たる生命である。この信念を確立する国家が平和国家であります》(p.99~100)
《人或いは言うでありましょう。他の国々が軍備を拡張する中にあって、日本の国だけが武装を失って、平和国家の確立に専念することは実行不可能の事であるし、又非常に危険な事である。日本の国は平和国家であろうと欲しても、他の国々はそうではないのである。他の国々は平和を唱えつつ、実際は武力と財力とによって世界を支配しようとしている。之ではいつ迄たっても日本は頭が上らない。外国の好きなようにされてしまう。そんな危険極まることは、日本の国の永久的国是として真面目に考えることは出来ないと、そういう風に考える者があるでしょう。
併し、平和が国の理想である、国は平和を以て完成せられるのであるという理念を我々が有つならば、他国はどうあろうとも我が国は平和国家でなければならない。国家の正しき貌、完成すべき貌が平和であるからして、我こそこの国家の理念を忠実に守って世界の光となろう。世に国々は多いけれども、こういう意味に於て平和国家を本気に考え、本気に努力した国は未だ曾てなかった。平和という語は従来単なる戦争の息抜きとして、或いは武力を以て世界を征服するものの口実として用いられたに過ぎない。併し我が国は国家の理想は平和に在ることを信じて、忠実に此の理想に生きんとする最初の国である。そういう国として人類文化の進歩に寄与しよう。どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない、それが国是であるということになります。》(p.102~103)
「どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない」と言うなら、平和国家の理想を掲げつつも、武装することは許されるのかと思いきや、矢内原の真意はそんなものではないらしい。
《膨大な軍事費の不生産的な負担がなくなり、人民の気持はのびのびと明るくなり、平和的生活の中に独創力を発揮し、親和して物質的にも精神的にも豊かな幸福な生活を営み得るのだ。デンマルク国のような先例がそのことを証明する。之が一つの議論であります。
併し、となおも心配性の人は言いましょう。今日の国際情勢に於いて、非武装国たる日本は外国から軍事的に侵略せられる。又は現在よりももっとひどい内政干渉を受けて、属国にされてしまうことはないか。こういう風に心配する議論もあるだろう。そこになって見ると、平和国家を利益問題として考えることは不徹底である。平和国家になった方が経済的生活がより豊富になり、国民が経済的にも富む事が出来るという様な利益論でなくて、平和国家は義務の問題である。宗教的に言えば神に対する義務の問題である。真理の問題である。真理の問題であるが故に、斯る理想に忠実に生きる国民が滅ぶということはあり得ない。若しも世に真理というものがあって、真理は凡てのものに越えた力であるとすれば、真理に忠実に生きるものが滅びるということはない。之は一つの信仰であります。神は必ず之を守り給う。個人の生活で見ましても、真理に忠実に生きるものを神が捨て給うことはない。時には苦難を受けるだろう。時には世の中から迫害を受けるだろう。けれども、神が永久的に彼を捨て給うことはない。必ず守り給うのである。》(p.105)
《併し疑う人は更に言うだろう。そうでないこともあるじゃないか。忠実に真理に事えた者が結局貧乏の中に死んでしまうこともあるじゃないか。悪人が贅沢の中に一生を終ることもあるじゃないか。それはそういう事もあります。けれども人間の幸福とか品位とかいうことを、地上に於ける若干年の物質的生活とか社会的名誉とかで量らないで、永遠の生命、永遠的価値という標準で量るならば、真理に忠実にしてその為め苦難の中に世を去る人は、真理に背いて物質的繁栄の中に此の世を去る人よりも、いくら幸福であり、いくら価値ある生涯を送ったかわからない。国の問題にしても同じであります。〔中略〕かかる国民は、此の世に於ける制度としての国家が敵に滅されることが万々一仮にあったとしても、国民としての生命は永遠に其の光を放つのである。》(p.106)
そして、日本の歴史上も、例えば天照大御神が岩戸に隠れたエピソードを、無抵抗主義による平和の態度だとして、日本国民にとって平和国家の理想は決して縁もゆかりもないものではないとする。
《日本は武装を棄てました。デンマルクやスイスのような小国は別として、大国にして完全に武装を有たぬ国は世界歴史上ドイツを除いて他に例を見ないのでありまして、我が国は其のような国となったのであります。武装を有ちながら唱える平和論は不徹底であります。武装のない国にして始めて平和国家ということを純粋且つ真剣に考え、又その実現に努力し得る立場に置かれたのであります。》(p.113)
《平和国家は民主主義以上であります。民主主義国でも戦争をします。侵略的でもあり得ます。民衆は時には君主以上に暴君的であり、非合理的であります。之に反し平和国家は神の御心の行われる国である。日本は平和国家として生きてゆく外なき状態に置かれました。そういう国として神が日本を選び給うたのです。之を止むを得ざる運命として諦めたり、或いは敵に対する憎悪とか復讐とかを心に蔵しつつ不平不満を以て屈従したりするのではなく、神が我が国に課し給うた特別の光栄ある使命として受けるならば、本当に日本は世界に光となることが出来るのです。》(p.114)
矢内原は、クリスチャンとしての立場から、平和国家であることを神から課せられた日本の使命として受け入れるよう訴えている。
昔のアニメ「新造人間キャシャーン」の「キャシャーン無用の街」(第14話)というエピソードを思い出した。
(ストーリーを紹介しているブログがあったので、未見の方は参考にしてください。
http://blog.livedoor.jp/luna_kozuki/archives/715246.html
http://plaza.rakuten.co.jp/catrice/diary/200510040000/ )
無抵抗主義を貫き、自分は間違っていないと言い残して死んでいく市長。当人はそれでいいかもしれないが、市民は果たしてそれに納得していただろうか。
個人の信念として無抵抗主義をもつのは一向にかまわないと思うが、それは国家に適用すべきことだろうか。
また、前回紹介した「日本精神への反省」では、矢内原は日本精神の非合理性を批判していたが、この「平和国家論」では、自ら、平和国家は利益問題ではない、神が課された義務であるとしている。矛盾しているのではないだろうか。
「平和国家論」もまた、安易な現状是認論にすぎないのではないだろうか。
(本書では旧かなづかい、旧漢字が用いられているが、全て新かなづかい、新漢字に直した。また赤字による強調は引用者による)
続いて、後半の「平和国家論」を紹介する。
まず矢内原は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」という講演を紹介する。これは、ナポレオン戦争に敗れたドイツで、国民の士気を鼓舞するために行われた著名な講演。フィヒテは、ドイツは敗れたが、ドイツ国民は優秀であり、武器による戦は終わったが、これから徳の戦が始まる、ドイツ国民はこれに勝たなければならないと説いたという。そのため、敵国にあなどられないために、自国の戦争責任者を感情的に非難しないよう、また自国の思想を捨てて外国にへつらわないよう主張し、民族の復興を唱えたという。
第一次世界大戦の敗北後に興隆したナチスにはフィヒテの主張に似た面もあるが、何よりフィヒテが排斥してやまなかった利己心に拠った点でフィヒテとは大いに異なるという。日本はフィヒテ、ナチス、どちらの道を歩むのか。
さらに矢内原は、カントの『永久平和論』を紹介する。そして、平和国家というものは利益の問題ではなく義務の問題として考えるべきだと説く。
そして、日本の新しき教育の目標、新しき人を造るということを考えるに当たって、
《然らば日本人の特色を為す徳はどこにあるか。若し今日迄の日本人の精神教育が全部間違っていたのでないならば、二千六百年の歴史的背景の中で之こそ日本的な徳であるとして示し得るものは、忠君愛国の精神じゃないか。天皇を西洋人の考えるような専制君主としてでなく、我々の国民生活の中心として、民族の宗家として尊み又親しむ。そういう意味の忠君愛国の心。之は日本的である。確かにそれは日本的であるのです。何故それを今日発揮しないか。西洋人が天皇制をどうこうと言えば、日本人迄も天皇を一つの制度と考えてかれこれ議論する。併し、天皇は制度ではない。日本人の国民的感情の中心である。日本に於て、日本の国の事を一番本気に、一番真面目に、一番私心なく考えて、心配して行動せられたのは天皇御自身だ。本当に陛下はお気の毒だ。あんなに一生懸命になっておられて、という国民的感情をば、なぜ泣いて率直にそのまま披瀝しないのか。我々の血液の中に流れているところの、天皇に対する言うに言われない尊敬と愛著の気持は、封建制であるとか神話的であるとか浅薄な批評によって片付けてしまうことの出来ないだけの、我々の民族的意識の中に深く根をもっている感情であると私は信じている。》(p.92~93)
と述べる。
前回、矢内原が日本精神を嗣ぐ者は基督教であると述べていることを取り上げたが、だからといって矢内原は単純な欧化主義者ではない、むしろ天皇崇拝者であることがわかる。
そして矢内原は、新しき人を造るということは、平和人を造ることであると説く。何故なら日本は武装を解除され、今後も武装をもつことができないとされたのだからと。
《それ故に我々にとって武装か平和かは選択の問題ではない。我々には平和あるのみ。平和は絶対的要請であります》(p.94)
では平和人とは何であるか。それは、闘争を本義とせず平和を本旨として生きる者だという。言い換えれば、愛の人だという。
ここに至り、俄然話は宗教じみてくる。
矢内原は、カントの『永久平和論』と、日本の置かれた条件の違いを指摘する。
曰く、カントは将来の戦争に対する資材の放棄をうたっているが、これは日本だけのことで、他国は皆将来の戦争に備えている。また、カントは内政干渉を廃しているが、日本は大いに干渉を受けている(占領下なのだから当然だろう)。
しかしそれでも、日本は平和国家として歩むべきだと矢内原は言う。
《他国の政策、世界の現実はどうであろうとも、わが国は平和を性格とする国であるべきだ。否、苟しくも国というものは、平和を理想とすべきものだ。〔中略〕たとい世界の現実は戦争状態であるか、或いは戦争と平和との交替であるとしても、理念としては平和こそ国の国たる生命である。この信念を確立する国家が平和国家であります》(p.99~100)
《人或いは言うでありましょう。他の国々が軍備を拡張する中にあって、日本の国だけが武装を失って、平和国家の確立に専念することは実行不可能の事であるし、又非常に危険な事である。日本の国は平和国家であろうと欲しても、他の国々はそうではないのである。他の国々は平和を唱えつつ、実際は武力と財力とによって世界を支配しようとしている。之ではいつ迄たっても日本は頭が上らない。外国の好きなようにされてしまう。そんな危険極まることは、日本の国の永久的国是として真面目に考えることは出来ないと、そういう風に考える者があるでしょう。
併し、平和が国の理想である、国は平和を以て完成せられるのであるという理念を我々が有つならば、他国はどうあろうとも我が国は平和国家でなければならない。国家の正しき貌、完成すべき貌が平和であるからして、我こそこの国家の理念を忠実に守って世界の光となろう。世に国々は多いけれども、こういう意味に於て平和国家を本気に考え、本気に努力した国は未だ曾てなかった。平和という語は従来単なる戦争の息抜きとして、或いは武力を以て世界を征服するものの口実として用いられたに過ぎない。併し我が国は国家の理想は平和に在ることを信じて、忠実に此の理想に生きんとする最初の国である。そういう国として人類文化の進歩に寄与しよう。どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない、それが国是であるということになります。》(p.102~103)
「どれだけ実行出来るか出来ないかは別問題と致しまして、志はそこになければならない」と言うなら、平和国家の理想を掲げつつも、武装することは許されるのかと思いきや、矢内原の真意はそんなものではないらしい。
《膨大な軍事費の不生産的な負担がなくなり、人民の気持はのびのびと明るくなり、平和的生活の中に独創力を発揮し、親和して物質的にも精神的にも豊かな幸福な生活を営み得るのだ。デンマルク国のような先例がそのことを証明する。之が一つの議論であります。
併し、となおも心配性の人は言いましょう。今日の国際情勢に於いて、非武装国たる日本は外国から軍事的に侵略せられる。又は現在よりももっとひどい内政干渉を受けて、属国にされてしまうことはないか。こういう風に心配する議論もあるだろう。そこになって見ると、平和国家を利益問題として考えることは不徹底である。平和国家になった方が経済的生活がより豊富になり、国民が経済的にも富む事が出来るという様な利益論でなくて、平和国家は義務の問題である。宗教的に言えば神に対する義務の問題である。真理の問題である。真理の問題であるが故に、斯る理想に忠実に生きる国民が滅ぶということはあり得ない。若しも世に真理というものがあって、真理は凡てのものに越えた力であるとすれば、真理に忠実に生きるものが滅びるということはない。之は一つの信仰であります。神は必ず之を守り給う。個人の生活で見ましても、真理に忠実に生きるものを神が捨て給うことはない。時には苦難を受けるだろう。時には世の中から迫害を受けるだろう。けれども、神が永久的に彼を捨て給うことはない。必ず守り給うのである。》(p.105)
《併し疑う人は更に言うだろう。そうでないこともあるじゃないか。忠実に真理に事えた者が結局貧乏の中に死んでしまうこともあるじゃないか。悪人が贅沢の中に一生を終ることもあるじゃないか。それはそういう事もあります。けれども人間の幸福とか品位とかいうことを、地上に於ける若干年の物質的生活とか社会的名誉とかで量らないで、永遠の生命、永遠的価値という標準で量るならば、真理に忠実にしてその為め苦難の中に世を去る人は、真理に背いて物質的繁栄の中に此の世を去る人よりも、いくら幸福であり、いくら価値ある生涯を送ったかわからない。国の問題にしても同じであります。〔中略〕かかる国民は、此の世に於ける制度としての国家が敵に滅されることが万々一仮にあったとしても、国民としての生命は永遠に其の光を放つのである。》(p.106)
そして、日本の歴史上も、例えば天照大御神が岩戸に隠れたエピソードを、無抵抗主義による平和の態度だとして、日本国民にとって平和国家の理想は決して縁もゆかりもないものではないとする。
《日本は武装を棄てました。デンマルクやスイスのような小国は別として、大国にして完全に武装を有たぬ国は世界歴史上ドイツを除いて他に例を見ないのでありまして、我が国は其のような国となったのであります。武装を有ちながら唱える平和論は不徹底であります。武装のない国にして始めて平和国家ということを純粋且つ真剣に考え、又その実現に努力し得る立場に置かれたのであります。》(p.113)
《平和国家は民主主義以上であります。民主主義国でも戦争をします。侵略的でもあり得ます。民衆は時には君主以上に暴君的であり、非合理的であります。之に反し平和国家は神の御心の行われる国である。日本は平和国家として生きてゆく外なき状態に置かれました。そういう国として神が日本を選び給うたのです。之を止むを得ざる運命として諦めたり、或いは敵に対する憎悪とか復讐とかを心に蔵しつつ不平不満を以て屈従したりするのではなく、神が我が国に課し給うた特別の光栄ある使命として受けるならば、本当に日本は世界に光となることが出来るのです。》(p.114)
矢内原は、クリスチャンとしての立場から、平和国家であることを神から課せられた日本の使命として受け入れるよう訴えている。
昔のアニメ「新造人間キャシャーン」の「キャシャーン無用の街」(第14話)というエピソードを思い出した。
(ストーリーを紹介しているブログがあったので、未見の方は参考にしてください。
http://blog.livedoor.jp/luna_kozuki/archives/715246.html
http://plaza.rakuten.co.jp/catrice/diary/200510040000/ )
無抵抗主義を貫き、自分は間違っていないと言い残して死んでいく市長。当人はそれでいいかもしれないが、市民は果たしてそれに納得していただろうか。
個人の信念として無抵抗主義をもつのは一向にかまわないと思うが、それは国家に適用すべきことだろうか。
また、前回紹介した「日本精神への反省」では、矢内原は日本精神の非合理性を批判していたが、この「平和国家論」では、自ら、平和国家は利益問題ではない、神が課された義務であるとしている。矛盾しているのではないだろうか。
「平和国家論」もまた、安易な現状是認論にすぎないのではないだろうか。
(本書では旧かなづかい、旧漢字が用いられているが、全て新かなづかい、新漢字に直した。また赤字による強調は引用者による)
ただ、私は、こうした考え方には反対ですがね……。
矢内原は、要するに、非武装の平和国家は神がこれを守り給うし、万一滅ぼされたとしても、真理に忠実だった者としてその光は永遠に放たれる、と述べています。
これは、9条の精神とは要するに信仰としてしか有り得ないということを如実に示していると思います。
そして、真理に忠実なら滅びてもかまわないというような考えは、戦中期の一億玉砕といった思想と何が違うのかとも思います。
私は、一個人についてなら、信念に殉ずるとか、殉教するといったことがあってもいいと思います。私もそういうことをすることがあるかもしれません。
しかし、国家や民族といったもの、要は多数の人間の集合体においては、そういうことを志向してはいけないと思います。卑俗な言葉ですが、「命あっての物種」です。滅びの道とわかっていて、国家や民族をそれに導く権利など、指導者にはありません。それならば、指導者の座を辞すべきなのです。
矢内原は、再軍備にも批判的だったと聞きます。こうした人物が、単にクリスチャンとしてではなく、東大総長としても影響力を行使したであろう戦後日本という時期は、やはりずいぶんと回り道をしたものだと思いますし、そういう意味で「戦後レジームからの脱却」といった現首相のスローガンは決して誤ってはいないと思います。
終戦後わずか2ヶ月。「バスから神社に目礼」から たったの2ヶ月で、このような日本批判ができたということに驚きました。文字通り、時代が激変したのですね。
>「平和国家論」
私も、いつか世界は武器を捨てて、国境や民族の壁を越えて、平和に共存共栄していくべきだという理想を持っているお花畑… じゃない、理想主義者なので、意外と? 嫌いではないです。
ただ、肝心のところを省略したり、「それはそういう事もあります。けれども」と、ある意味、開き直りというか、投げやりというか、わかる奴と社民党だけついて来いというか…
理想主義者が現実主義者と議論をするときに見せる態度に似ていて、「残念だなぁ~」と思いました。こうも同意できる点とできない点が半々に混在する主張も珍しいです。