4日の朝日新聞朝刊文化面に、いれずみについての記事が載っていた。
以下の記事を要約するとこんな感じ。
・熊本保健科学大学の小野友道学長は(皮膚科学)は1970年、返還前の沖縄で、何人ものお年寄りの女性の手の甲に美しいいれずみがあるのを発見した。魔よけや願掛けなどの針突き(はづき)という広く行われた習俗だったという。
・小野は熊本県でも、手首に小さな点をいれずみしている高齢の女性を診察することがある。イグサ刈りで手を痛め、ツボに針を入れる治療のための印、あるいは治療済みである確認のためだという。
・小野は古今の記録を調べて一昨年『いれずみの文化誌』を出版。日本最古のいれずみの記録は『魏志倭人伝』にある。
・橋下は「公務員のいれずみ=許されない」という得意の〈単純化〉で、「いれずみ職員は民間へ」と促す。だが、人はなぜ体に墨を入れるのか。小野氏によれば①他者を脅すという以外に②江戸時代の遊郭で始まった男女の愛の誓い③犯罪者への刑罰④絵柄自体の美しさに魅了(谷崎潤一郎『刺青』)⑤治療や癒しなど理由は多岐にわたる。「そのほかに自傷行為の場合もある。リストカットと同じ。いれずみは自分を助けてほしいという心の泣き声」と小野は言う。
・政治家のいれずみも珍しくない。チャーチルやF・D・ルーズベルト、スターリンにも見られた。小泉純一郎の祖父で逓信相だった又二郎にもあったとされる。
・ケンブリッジ大図書館日本部長の小山騰(のぼる)は、英王室を中心にヨーロッパ貴族社会で起きたいれずみブームを研究、『日本の刺青と英国王室』を一昨年出版した。明治初期、日本政府は野蛮な習俗としていれずみを禁止したが、逆に文明国の貴族には憧れの対象。わざわざ日本で彫るいれずみは大変な熱狂状態と報じられた。のちのジョージ5世とアルバート王子も1881年の来日時に彫っている。「いれずみを入れる、入れないは全く個人のこと。公務員がいれずみを入れているかどうかで大騒ぎするのは大人げない」と小山は言う。
記事には、デンマーク国王フレデリック9世の上半身裸の写真が載っている。様々なデザインのいれずみがいくつも彫られている。1951年に米誌『ライフ』に掲載されたものだという。
終わりの方の原文を引用する。
なかなかよくできたいれずみ公務員擁護論だ。
確かに、魏志倭人伝にいれずみの記述があった記憶はある。おそらくは、人類の歴史と共にいれずみはあったのだろう。「いれずみは文化だ」というのもそのとおりだろう。
だが、それが何だと言うのか。
問題なのは、現代の公務員、それも大阪市のような巨大都市の公務員に、いれずみが許されるかどうかという話ではないのか。
そして、橋下が問題視しているいれずみは、小野が紹介しているような習俗としてのいれずみとは別種のものではないか。
一般に、いれずみを施している者が社会的にどのような部類の人間として扱われているかは、わざわざ説明するまでもなく明らかであり、橋下が言っているのもまさにその点ではないか。
公僕であり、税金で食べている市職員には、その地位にふさわしい身だしなみや対応が求められるのは当然だろう。
窓口に何かの相談で訪れた市民に、対応した職員の袖口や首周りから刺青が見えたとしたら、恐ろしくて相談事などまともにできないのが普通の感覚ではないか。
バスの運転手然り、ごみ収集車然り。
そして、なぜこんな奴らを税金で食わせてやらねばならないのかと思うのが、普通の納税者の感覚ではないか。
「若いときに悩んで入れ、苦労してようやく正業に就けたのが市職員、というケースもあろう」
そりゃああるかもしれない。
しかし、だからといって市民がそれを容認し、いれずみを見た時の恐怖感あるいは不快感を忍従しなければならないのか。
そもそもそうした人間は市が雇うべきなのか。
「若いときに悩んで入れ」たのなら、その決断を一生を終えるまで背負い続け、然るべき世界で生き続ければよいのではないか。
欧米ではどうだった、文化的にはどうだったと昔のことを持ち出すのもおかしな話で、肝心なのは現代のことではないのか。
チャーチルやルーズベルトよりもキャメロンやオバマはどうなのかを、小泉又二郎よりも純一郎や進次郎がどうなのかを論ずるべきではないのか。
いれずみは文化だというなら、麻薬はどうか。
アヘンやコカインはかつては嗜好品として広く普及していた。シャーロック・ホームズはコカインを常用し、アヘン窟にも出向いていた。作者のコナン・ドイルもまたコカイン常用者だったという。
麻薬もまた、人類の歴史と共にあった文化であることは言うまでもない。だったら、公務員がオフで麻薬を常用していても、仕事に支障がなければそれは非難されるに当たらないと朝日は言うのか。
麻薬は有害の度が過ぎるというなら、タバコはどうか。
わが国の公共空間で禁煙が常識となったのは、健康増進法が施行されてからのほんのここ十数年のことにすぎない。それまではタバコがあることがむしろ常態だった。
タバコもまた文化を築いてきた。だから一概に否定せず、喫煙の自由を大いに尊重すべきと朝日が説いたことがあるか。
おまけに、
「自傷行為」
「自分を助けてほしいという心の泣き声」
「弱さの象徴」
ときた。
いれずみをした者を、神聖不可侵な弱者サマの座に置いて批判を封じようという、いかにも朝日的な手法だ。
では、朝日は、記者にいれずみを推奨してはどうか。
あるいは、いれずみで苦労している者を記者に採用して、取材に当たらせてはどうか。
心ならずも取材に応じさせられた 記者の意に沿うような発言を強要されたといった苦情がきっと出てくるだろう。
あるいは、新聞販売店の拡張員にそうした者を雇えば、どういうことになるか。
まあ、古くは羽織ゴロという言葉もあるように、元々新聞などというものは堅気の商売ではないのだもの、そうした擁護論に立つのもうなずける。
小野や朝日が、いれずみを「入れてしまった人の側に立ちたい」のは彼らの自由だ。
しかし、、いれずみを「入れてしまった人」によって脅かされる人々もいる。
威圧感、あるいは恐怖感を覚え、心ならずも理不尽な要求に屈せざるを得ないこともあるだろう。
そこまで至らずとも、不快感、嫌悪感を覚えることは多々あるだろう。
私は、そうした大多数の普通の感覚の人々の側に立ちたい。
いれずみに限らない。
社会生活を送っていれば、さまざまな自称または他称「弱者」による理不尽な行動にさらされることがままあるはずだ。
まっとうに生きているはずの私が、何故こんな目に遭わなければならないのだろう。いったいどちらが真の「弱者」なのだろうか。
そうした思いにとらわれることもあるのではないか。
いれずみが「自分を助けてほしいという心の泣き声」なら、親の子に対する虐待はどうか。
DVはどうか。ストーカーはどうか。酔った上での暴行や痴漢はどうか。
先の亀岡での暴走や難波での通り魔はどうか。
あれらもまた「自分を助けてほしいという心の泣き声」のあらわれではないのか。
だが、ならばそれらの被害者や遺族の「心の泣き声」はどうなる。
私は、自分の弱さから平気で他者を傷つけ、迷惑をかけ、不快にさせる者の側よりは、そうした行為を否定し、そうした者を糾弾する側に立ちたい。
付記
いれずみで検索していたら、興味深い記事を見つけた。英誌エコノミストからの翻訳。
「日本の入れ墨事情:大阪の将軍」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35344
刺青 長く深く浸透
魔よけの習俗 愛の誓い 欧州王族にブーム
「TATTOO〈刺青〉あり」の公務員はありえない? 大阪市の橋下徹市長は、いれずみやファッションタトゥーを入れているか、回答義務つきで市職員に調査、配置転換も検討している。倶利伽羅紋々で人を脅す公務員など論外なのは言うまでもない。しかしいれずみ文化史は、意外に長くて広くて深かった。
以下の記事を要約するとこんな感じ。
・熊本保健科学大学の小野友道学長は(皮膚科学)は1970年、返還前の沖縄で、何人ものお年寄りの女性の手の甲に美しいいれずみがあるのを発見した。魔よけや願掛けなどの針突き(はづき)という広く行われた習俗だったという。
・小野は熊本県でも、手首に小さな点をいれずみしている高齢の女性を診察することがある。イグサ刈りで手を痛め、ツボに針を入れる治療のための印、あるいは治療済みである確認のためだという。
・小野は古今の記録を調べて一昨年『いれずみの文化誌』を出版。日本最古のいれずみの記録は『魏志倭人伝』にある。
・橋下は「公務員のいれずみ=許されない」という得意の〈単純化〉で、「いれずみ職員は民間へ」と促す。だが、人はなぜ体に墨を入れるのか。小野氏によれば①他者を脅すという以外に②江戸時代の遊郭で始まった男女の愛の誓い③犯罪者への刑罰④絵柄自体の美しさに魅了(谷崎潤一郎『刺青』)⑤治療や癒しなど理由は多岐にわたる。「そのほかに自傷行為の場合もある。リストカットと同じ。いれずみは自分を助けてほしいという心の泣き声」と小野は言う。
・政治家のいれずみも珍しくない。チャーチルやF・D・ルーズベルト、スターリンにも見られた。小泉純一郎の祖父で逓信相だった又二郎にもあったとされる。
・ケンブリッジ大図書館日本部長の小山騰(のぼる)は、英王室を中心にヨーロッパ貴族社会で起きたいれずみブームを研究、『日本の刺青と英国王室』を一昨年出版した。明治初期、日本政府は野蛮な習俗としていれずみを禁止したが、逆に文明国の貴族には憧れの対象。わざわざ日本で彫るいれずみは大変な熱狂状態と報じられた。のちのジョージ5世とアルバート王子も1881年の来日時に彫っている。「いれずみを入れる、入れないは全く個人のこと。公務員がいれずみを入れているかどうかで大騒ぎするのは大人げない」と小山は言う。
記事には、デンマーク国王フレデリック9世の上半身裸の写真が載っている。様々なデザインのいれずみがいくつも彫られている。1951年に米誌『ライフ』に掲載されたものだという。
終わりの方の原文を引用する。
米国でも軍人や警察官などのいれずみは珍しくない。橋下氏のもう一つの得意技〈グローバル化〉の中で考えると、いれずみ調査自体が相当異質だろう。
弱さの象徴、糾弾意味ある?
前出の小野さんは、いれずみを消す手術も数多くした。「体に異物を入れるいれずみは健康上よくない場合もあるので、医師としては決して勧めない」としたうえで、「いれずみは文化だ」とも断言。「単純化には意味がない。若いときに悩んで入れ、苦労してようやく正業に就けたのが市職員、というケースもあろう。今、糾弾する意味があるのだろうか。いれずみは人間の弱さの象徴。私は、入れてしまった人の側に立ちたい」と話した。 (近藤康太郎)
なかなかよくできたいれずみ公務員擁護論だ。
確かに、魏志倭人伝にいれずみの記述があった記憶はある。おそらくは、人類の歴史と共にいれずみはあったのだろう。「いれずみは文化だ」というのもそのとおりだろう。
だが、それが何だと言うのか。
問題なのは、現代の公務員、それも大阪市のような巨大都市の公務員に、いれずみが許されるかどうかという話ではないのか。
そして、橋下が問題視しているいれずみは、小野が紹介しているような習俗としてのいれずみとは別種のものではないか。
一般に、いれずみを施している者が社会的にどのような部類の人間として扱われているかは、わざわざ説明するまでもなく明らかであり、橋下が言っているのもまさにその点ではないか。
公僕であり、税金で食べている市職員には、その地位にふさわしい身だしなみや対応が求められるのは当然だろう。
窓口に何かの相談で訪れた市民に、対応した職員の袖口や首周りから刺青が見えたとしたら、恐ろしくて相談事などまともにできないのが普通の感覚ではないか。
バスの運転手然り、ごみ収集車然り。
そして、なぜこんな奴らを税金で食わせてやらねばならないのかと思うのが、普通の納税者の感覚ではないか。
「若いときに悩んで入れ、苦労してようやく正業に就けたのが市職員、というケースもあろう」
そりゃああるかもしれない。
しかし、だからといって市民がそれを容認し、いれずみを見た時の恐怖感あるいは不快感を忍従しなければならないのか。
そもそもそうした人間は市が雇うべきなのか。
「若いときに悩んで入れ」たのなら、その決断を一生を終えるまで背負い続け、然るべき世界で生き続ければよいのではないか。
欧米ではどうだった、文化的にはどうだったと昔のことを持ち出すのもおかしな話で、肝心なのは現代のことではないのか。
チャーチルやルーズベルトよりもキャメロンやオバマはどうなのかを、小泉又二郎よりも純一郎や進次郎がどうなのかを論ずるべきではないのか。
いれずみは文化だというなら、麻薬はどうか。
アヘンやコカインはかつては嗜好品として広く普及していた。シャーロック・ホームズはコカインを常用し、アヘン窟にも出向いていた。作者のコナン・ドイルもまたコカイン常用者だったという。
麻薬もまた、人類の歴史と共にあった文化であることは言うまでもない。だったら、公務員がオフで麻薬を常用していても、仕事に支障がなければそれは非難されるに当たらないと朝日は言うのか。
麻薬は有害の度が過ぎるというなら、タバコはどうか。
わが国の公共空間で禁煙が常識となったのは、健康増進法が施行されてからのほんのここ十数年のことにすぎない。それまではタバコがあることがむしろ常態だった。
タバコもまた文化を築いてきた。だから一概に否定せず、喫煙の自由を大いに尊重すべきと朝日が説いたことがあるか。
おまけに、
「自傷行為」
「自分を助けてほしいという心の泣き声」
「弱さの象徴」
ときた。
いれずみをした者を、神聖不可侵な弱者サマの座に置いて批判を封じようという、いかにも朝日的な手法だ。
では、朝日は、記者にいれずみを推奨してはどうか。
あるいは、いれずみで苦労している者を記者に採用して、取材に当たらせてはどうか。
心ならずも取材に応じさせられた 記者の意に沿うような発言を強要されたといった苦情がきっと出てくるだろう。
あるいは、新聞販売店の拡張員にそうした者を雇えば、どういうことになるか。
まあ、古くは羽織ゴロという言葉もあるように、元々新聞などというものは堅気の商売ではないのだもの、そうした擁護論に立つのもうなずける。
小野や朝日が、いれずみを「入れてしまった人の側に立ちたい」のは彼らの自由だ。
しかし、、いれずみを「入れてしまった人」によって脅かされる人々もいる。
威圧感、あるいは恐怖感を覚え、心ならずも理不尽な要求に屈せざるを得ないこともあるだろう。
そこまで至らずとも、不快感、嫌悪感を覚えることは多々あるだろう。
私は、そうした大多数の普通の感覚の人々の側に立ちたい。
いれずみに限らない。
社会生活を送っていれば、さまざまな自称または他称「弱者」による理不尽な行動にさらされることがままあるはずだ。
まっとうに生きているはずの私が、何故こんな目に遭わなければならないのだろう。いったいどちらが真の「弱者」なのだろうか。
そうした思いにとらわれることもあるのではないか。
いれずみが「自分を助けてほしいという心の泣き声」なら、親の子に対する虐待はどうか。
DVはどうか。ストーカーはどうか。酔った上での暴行や痴漢はどうか。
先の亀岡での暴走や難波での通り魔はどうか。
あれらもまた「自分を助けてほしいという心の泣き声」のあらわれではないのか。
だが、ならばそれらの被害者や遺族の「心の泣き声」はどうなる。
私は、自分の弱さから平気で他者を傷つけ、迷惑をかけ、不快にさせる者の側よりは、そうした行為を否定し、そうした者を糾弾する側に立ちたい。
付記
いれずみで検索していたら、興味深い記事を見つけた。英誌エコノミストからの翻訳。
「日本の入れ墨事情:大阪の将軍」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35344
「窓口に何かの相談で訪れた市民に、対応した職員の袖口や首周りから刺青が見えたとしたら」って、実際見えた事例って、あったっけ? 長袖着れば大丈夫、というイメージがありますけど。
「麻薬」→入れ墨って、どれだけ体に良くないのかしら(麻薬同様なのか)? それを書かないのでは卑怯だね、でおしまい。
「いれずみを推奨」の義務、朝日にはないけど(入れ墨が職務遂行能力の一要素ならば別)、何か?
やかましい感情論でしたね。
体に良い悪いは問題にしていません。いれずみが文化なら麻薬もタバコも文化だよと指摘しているだけです、でおしまい。
義務があるなんて書いてませんしもちろん思ってもいません。そんなに擁護するならおたくの記者もやってみたら? 世間からどう見られるか実感できるんじゃないか? と言ってるだけですが、何か?
つまらない茶々入れでしたね。