在日コリアンの評論家、河信基が、自身のブログ「河信基の深読み」で、「年金は生活保護でない」と題して、次のように述べている。
《言葉尻を捕らえるわけではないが、今朝、TBSのニュース番組でキャスターが「年金は生活保護みたいなものですからね」と繰り返していたのは聞き捨てならない。
この種の素朴な誤解が「宙に浮いた5000万件の年金問題」を引き起こした根底にあることに、いい加減気付く頃である。
年金は“お上”にいただくものではない。預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のものである。
その点を明確にしておかないと、他人の金をでたらめに扱い、食い潰す年金不祥事はこれからも繰り返されるだろう。》
いや、わが国の年金は「預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のもの」ではない。
年金制度には賦課方式と積立方式がある。河信基の言うのは、積立方式だ。つまり、自分が納めた保険料を、引退してから自分が受けとる。
賦課方式とは、現役世代が、その時点での引退した世代の年金を負担する方式。わが国の年金制度は、積立方式の要素を加味しながらも、賦課方式を基本としている(厚労相年金局の「年金財政ホームページ 用語集」参照)。
高度成長期は、賦課方式で問題なかった。
少子高齢化の進行に伴い、賦課方式では世代間の不公平が著しくなってきた。そのため段階的に積立方式の要素を強化することにより世代間のバランスをとろうとしているんじゃなかったかな。
こんなことは、ド素人の私でも知っていることだがなあ。
ところで、「年金は“お上”にいただくものではない。」と河信基は述べるが、では生活保護なら「“お上”にいただくもの」なのか?
生活保護の原資は税金である。“お上”のポケットマネーではない。富裕層から徴収した税金を、貧困層の生活に充てているわけだ。所得の再分配というやつである。
税金も年金原資も、官僚や政治家にとって「他人の金」であることに変わりはない。どちらも、官僚や政治家が恣意的に運用していいものではない。しかし河信基はこう述べる。
《生活保護は税金から負担する。それはそれで国民の生活権を保障する重要な社会福祉政策である。
だが、自ら預けたカネを返してもらう年金とは性格を異にする。それをごちゃ混ぜにすると、財政倫理が乱れ、双方とも崩壊することになりかねない。》
生活保護と年金とは別の財政倫理を適用すべきなのだそうだ。
生活保護は税金だから少々甘い運用でも可、年金は加入者が返してもらうべきカネだから厳正に運用せよ、ということなのか。
何を言ってるんだろうなあ。
きっと、生活保護は富裕層のカネだし、弱者のためのものだから堅いことは言わないが、年金は自分のカネだから減らすことは許さん!という感覚なのだろう。
河信基が受けとる年金は現役世代が納めたものだから、少子高齢化で減るのはやむを得ないと言われたら、河信基は何と答えるのだろう。「そんなことを了承した覚えはない!」とでも言うだろうか。
最近、河信基のブログを定期的に見ているが、彼の専門である朝鮮問題とは関係のない記事について、しばしば珍妙な主張が見られる。例えば、都会で蚊が増えたのは都市住民が燕の巣を壊したからだとか・・・・・・。(朝鮮問題についてもどこまで信用してよいのか疑問を覚える記事も多いが、ここでは置く)。
著名人がブログを開くメリットというのも、それはそれでいろいろあるのだろう。しかし、あんまりバカげた記事を載せると、かえって自分のバカさ加減を公衆にさらしてしまうというデメリットだけが目立つように思う。
私のような無名の一市民にとって、このように匿名で自分の見解を語ることのできるブログという場は貴重だ。しかし、メディアを利用できる立場にある著名人が、同様の感覚でヨタ話を語っては、かえって自分で自分の首を絞めることになるのではないだろうか。
《言葉尻を捕らえるわけではないが、今朝、TBSのニュース番組でキャスターが「年金は生活保護みたいなものですからね」と繰り返していたのは聞き捨てならない。
この種の素朴な誤解が「宙に浮いた5000万件の年金問題」を引き起こした根底にあることに、いい加減気付く頃である。
年金は“お上”にいただくものではない。預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のものである。
その点を明確にしておかないと、他人の金をでたらめに扱い、食い潰す年金不祥事はこれからも繰り返されるだろう。》
いや、わが国の年金は「預金に応分の利子をつけて返してもらう性格のもの」ではない。
年金制度には賦課方式と積立方式がある。河信基の言うのは、積立方式だ。つまり、自分が納めた保険料を、引退してから自分が受けとる。
賦課方式とは、現役世代が、その時点での引退した世代の年金を負担する方式。わが国の年金制度は、積立方式の要素を加味しながらも、賦課方式を基本としている(厚労相年金局の「年金財政ホームページ 用語集」参照)。
高度成長期は、賦課方式で問題なかった。
少子高齢化の進行に伴い、賦課方式では世代間の不公平が著しくなってきた。そのため段階的に積立方式の要素を強化することにより世代間のバランスをとろうとしているんじゃなかったかな。
こんなことは、ド素人の私でも知っていることだがなあ。
ところで、「年金は“お上”にいただくものではない。」と河信基は述べるが、では生活保護なら「“お上”にいただくもの」なのか?
生活保護の原資は税金である。“お上”のポケットマネーではない。富裕層から徴収した税金を、貧困層の生活に充てているわけだ。所得の再分配というやつである。
税金も年金原資も、官僚や政治家にとって「他人の金」であることに変わりはない。どちらも、官僚や政治家が恣意的に運用していいものではない。しかし河信基はこう述べる。
《生活保護は税金から負担する。それはそれで国民の生活権を保障する重要な社会福祉政策である。
だが、自ら預けたカネを返してもらう年金とは性格を異にする。それをごちゃ混ぜにすると、財政倫理が乱れ、双方とも崩壊することになりかねない。》
生活保護と年金とは別の財政倫理を適用すべきなのだそうだ。
生活保護は税金だから少々甘い運用でも可、年金は加入者が返してもらうべきカネだから厳正に運用せよ、ということなのか。
何を言ってるんだろうなあ。
きっと、生活保護は富裕層のカネだし、弱者のためのものだから堅いことは言わないが、年金は自分のカネだから減らすことは許さん!という感覚なのだろう。
河信基が受けとる年金は現役世代が納めたものだから、少子高齢化で減るのはやむを得ないと言われたら、河信基は何と答えるのだろう。「そんなことを了承した覚えはない!」とでも言うだろうか。
最近、河信基のブログを定期的に見ているが、彼の専門である朝鮮問題とは関係のない記事について、しばしば珍妙な主張が見られる。例えば、都会で蚊が増えたのは都市住民が燕の巣を壊したからだとか・・・・・・。(朝鮮問題についてもどこまで信用してよいのか疑問を覚える記事も多いが、ここでは置く)。
著名人がブログを開くメリットというのも、それはそれでいろいろあるのだろう。しかし、あんまりバカげた記事を載せると、かえって自分のバカさ加減を公衆にさらしてしまうというデメリットだけが目立つように思う。
私のような無名の一市民にとって、このように匿名で自分の見解を語ることのできるブログという場は貴重だ。しかし、メディアを利用できる立場にある著名人が、同様の感覚でヨタ話を語っては、かえって自分で自分の首を絞めることになるのではないだろうか。
たとえsynchronizeしていたとしても、それをもって両者に通謀があると判断するのは、チーム世耕の陰謀を語るおばさんと同レベルになってしまうのではないでしょうか。
同じような物の考え方をする人たちは、同じような主張をしがちだという程度のことだと私は思います。
かのブログのコメント欄を見ると、年金の件にしてもそうですが、時々異論は出ているのですが、あまり建設的な議論になっている様子はないですね。ブログ主自身がコメント欄にほとんど出てこないからかもしれませんが。
>見ている限り、意見の違いを許容できない狭さは、こうした左派・リベラル系のブログに目立ちます。
いや、右派系ブログでも同様の現象は見られますよ。そのへんは、左右関係ないかなというのが私の印象です。
>成田屋古漫堂さん
>自分の納めた分の年金が、将来戻ってくると思ってる年配の人って河氏に限らず結構多いんじゃないでしょうか。
ああ、そうかもしれませんね。
もうかなり昔のことで、記憶が定かでありませんが、「人間交差点」というマンガ(原作・矢島正雄、作画・弘兼憲史)のあるエピソードで、主人公の老人男性が、年金の窓口?で、事務の合理化のために今後は別の窓口に行くようにしてもらえないかと係員に言われたが、「私が払ったものを私が受け取りに来たのだ。私が便利なようにさせてもらう」(うろ覚え)と断るシーンがありました。
また、十数年前のことだと思いますが、朝日新聞の投書欄に、長年年金の保険料を払ってきたが、受け取る段になって、自分が払ったものを受け取るのではないことを初めて知った、そんなことは聞いていない、政府は説明不足ではないかと憤っている投稿がありました。
年配者の感覚は、そんなものかもしれません。
結局河のブログは、逆2ちゃんねると言いますか、批判のコメントを書くと親衛隊とおぼしき連中のコメントラッシュ(しかも人格攻撃までする罵倒)ですから、まず普通の人なら引いてしまう。
必然的に、排外的なブログになり河先生のご意見拝聴ブログになります。
見ている限り、意見の違いを許容できない狭さは、こうした左派・リベラル系のブログに目立ちます。
これでは共感を得るのは困難でしょう。
彼らは、未だに朝日新聞=岩波書店らの権威主義幻想から脱していないのでしょうね。
権威主義者にとって一番畏れることは、個人個人がたとえ拙くとも自ら考え判断し、行動することなのでしょうから。
恐らくカナダの女教師とか韓国の薫女史あたりとは通底しているでしょう。
私は以前から、河が北朝鮮のフロントだと判断しているのは、平壌の意図とブログのエントリーがsynchronizeしているからです。
さすがの河も、北朝鮮や自身の安倍叩きは内政干渉ではないと、最新のエントリーでは歯切れの悪い釈明をしていますがね。
そうしないと日本が北朝鮮のレジームチェンジを狙っていると非難しながら、北朝鮮の日本への情報工作は容認されてしまいダブスタを非難されてしまいます。
河は都知事選挙でも、石原裕次郎未亡人の在日説のエントリーをわざわざ再掲載する工作まがいのことを行っていますから、目は離せませんよ。