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萩原徹・外務省条約局長の逸話についての疑問

2011-02-02 23:34:50 | 日本近現代史
 昔、無宗ださんのブログの「条約局長 萩原徹氏」という記事で、次のような記述を読んだ。

江藤淳著「忘れたことと忘れさせられたこと」 のp231に次の記述がある。

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 占領中に、日本は「無条件降伏」していないという事実を隠蔽し、封殺しようとする圧力が存在したことについては、証言する人々がある。たとえば、『終戦史録』第六巻の月報に執筆している下田武三氏は、「ポツダム宣言による戦争終結は、無条件降伏ではないと国会答弁で喝破して、条約局長を罷めさせられた萩原徹氏」の例を挙げている。
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探しているのだが、この国会答弁がみつからない。


 私も以前『忘れたことと忘れさせられたこと』を読んだが、そんな記述があったとはすっかり忘れていた。
 確認してみると、たしかにある。

 無宗ださんは、結局国会答弁は見つからなかった、もしかして削除されたのでは? と書いている。

 私もこの記事を読んで探してみたが、やはり見つからなかった。

 こういう時は、江藤が挙げている『終戦史録』第6巻の月報に当たってみるのがいいだろう。
 そう思って、実際に当たってみたが、月報の下田武三の文章には、江藤の引用部分以外に萩原局長に触れている箇所はなかった。
 下田武三(1907-1995)は東京帝大卒の外交官。外務省条約局長、駐ソ大使、外務事務次官、駐米大使、最高裁判事、プロ野球コミッショナーなどを務めた。月報では、萩原のほか、占領期に活躍した何人かの外務省の先輩たちを「立派なサムライ」と讃えている。

 無宗ださんの記事に、たつやさんという方が次のようなコメントを付けている。

以前

萩原氏は、局長辞めさせられたあと、
腑抜けになって、酒ばかり飲んでいた

と、どこかで読みましたよ。


さらに、

ネットのどこかで読みましたが,どこか忘れた。
ある人物(誰か忘れた)が右翼の大物(誰か忘れた)に招かれた。するとその座に,うつろな眼の酒ばかり飲んでいるだらしない男がいた。その場にふさわしくない変なヤツだと,招かれた人物が思うと,大物は取りなすように「アレは,『日本は無条件降伏した訳じゃない』と言って,条約局長をクビになった男だ(そっとしといてやれ)。」と,説明した・・・という話。


と。

 やや古いのだが、秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981)という本に、萩原徹の略歴が載っていた。要約すると、

 明治39年5月生まれ。父親も外交官。東京帝大法学部政治学科卒。昭和2年11月高等試験外交科試験合格。フランス、上海、天津、オランダなどでの勤務を経て、昭和17年2月南洋局一課長、同年11月大東亜省南方事務局政務課長。
 昭和21年2月1日付けで外務省条約局長に任ぜられ、翌22年10月28日付けで免ぜられる(後任は西村熊雄)。
 その後の経歴は、

22.10総務局勤務 23.6兼宮内府事務官 24.6兼総理府事務官・審議室 25.8大使館参事官 25.10外務事務官・パリ在外事務所長 27.4参事官・仏国駐在 27.5特命全権公使・仏国駐箚 27.6スイス駐箚 30.7特命全権大使・スイス駐箚 32.4カナダ駐箚 36.7仏国駐箚 42.8免職 42.10依願本免官 43.1外務省顧問 43.4~46.6日本万国博覧会政府代表

で、昭和54年10月12日に亡くなっている(「駐箚(ちゅうさつ)」とは、辞書によると駐在と同義らしいが、何故上記の経歴で使い分けられているのかはわからない)。

 この経歴は外務官僚として果たしてどうとらえるべきなのか、私には知識不足でよくわからない。
 しかし、

>局長辞めさせられたあと、
>腑抜けになって、酒ばかり飲んでいた

のであれば、十年以上も列国の大使は務まらなかったのではないかと思う。

 なお、上記の秦著によると、後任の西村熊雄は、萩原よりも年長で明治32年1月生まれで、大正10年11月に高等試験外交科試験に合格している。
 また、萩原の前任の条約局長である杉原荒太という人物(昭和20.9.28-21.2.1在任)は、明治32年8月生まれで大正13年1月に高等試験外交科試験に合格している。
 そのまた前任の渋沢信一という人物(昭和20.6.20-20.9.28在任)は、明治31年10月生まれで大正11年10月に高等試験外交科試験に合格している。
 こうして見ると、萩原の条約局長就任がある種の抜擢だったのではないかとも思われる。
(本書は戦前期を対象にしているため、西村より後の条約局長との対比はできなかった)

 といったことを以前無宗ださんの上掲記事にコメントしたが、心覚えのためこちらにも書き写しておく。

 萩原徹について検索してみたところ、Yahoo!掲示板の「萩原徹:外務省条約局長の抗議」というメッセージがヒットした。
 その文中には、

それを聞いた外務省の萩原条約局長は、 「日本は国際法上、条件付休戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。 何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国として無条件降伏をしたわけではない。」 と発言したところ、GHQから左遷を命じられた。


とある。
 ただ、その出典については書かれていない。

 もっとも、このメッセージには次のような記述もあるが、

1945年 (昭和20年) 9月2日、東京湾上のミズーリ艦上で調印した 「休戦協定」 はポツダム宣言を条約化したものであった。

〔中略〕

ミズーリ艦上で日本政府と連合国が調印した 「休戦協定」 は、日本政府が、ポツダム宣言に規定されている条件を飲む 「条件付休戦」 であった。

ところが、GHQが占領統治を開始したとたん、War Guilt Information Programとして、 「日本は無条件降伏した」 と言い始めた。 ミズーリ艦上での調印文書は、 「降伏文書」 とも言い始めた。 「無条件降伏」 とは、国際法上、戦勝国が何でも出来る権利を有する状態である。


ミズーリ号上で調印されたのは「休戦協定」などではもちろんなく、純然たる「降伏文書」であった。当初の日本語訳からしてそうなっている。
 こうした歴史の捏造をいとわないこのメッセージをどこまで信用していいのか疑問である。

 あるサイトには、次のような記述もあった。

 渡部昇一 上智大学名誉教授 WILL 平成19年1月号

 ・当時の外務省の萩原徹条約局長は、ポツダム宣言は明らかに有条件降伏である、と骨のあることを言った。するとマッカーサーは激怒して、萩原さんはすぐに左遷されてしまいました。


 これは、江藤の主張を基にしているのかもしれない。

 「反日タブー情報」というサイトの「占領政策の展開 昭和20年(1945)8月28日~」と題するページには、次のような記述がある。

(2)昭和20年(1945)9月6日: 「降伏後における米国の初期対日方針」 公表
 ※この方針で、GHQはポツダム宣言に定められた条項の実現について日本政府と「協議」するのではなく 「日本政府に対して一方的/無制限に命令を下す」という見解 が 初めて示される
 ※これに対して、外務省条約局長(萩原徹)が条件違反として抗議したが、米側は無視(萩原局長はのちに左遷)


 しかし、上記のように萩原が条約局長に就任したのは1946年の2月1日だから、1945年9月に公表された対日方針に対して抗議したというのはおかしい。
 萩原が無条件降伏ではないと喝破したと聞いて、時期的にこの頃だろうと勝手な想像で述べているのではないか。

 ある掲示板の書き込みには、

GHQの占領の態様

〔中略〕
立法に対しては・・・
鳩山一郎(昭和二十一年五月四日)、石橋湛山(同月十七日)、平野力三(昭和二十三年一月十三日)公職追放ほか、何百人もの政治家、国会議員を排除。
行政内閣に対しては・・・
萩原徹外務省条約局長の更迭(昭和二十年九月十五日)。
内務大臣山崎巌の罷免要求(昭和二十年十月四日)。
それによる東久邇宮稔彦内閣が総辞職。
農林大臣平野力三の罷免要求(昭和二十年十月五日)ほか・・・。


と、まことしやかに日付まで記載されているか、これも同様。
 どうも、虚偽情報が流布されているようだ。

 ただ、だからといって下田武三が書いている内容までが虚偽だとも考えにくい。
 下田がそう書くだけの何らかの根拠があったのだろう。

 この件についての情報をお持ちの方がおられたら、ご教示いただければ幸いです。



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2 コメント

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Unknown (TKK)
2011-02-08 11:51:36
こんにちは

> 探しているのだが、この国会答弁がみつからない。

これは、本当に不思議ですね。
当時2年間ほどの新聞をざっとですが見てみましたが(すでにそこは江藤淳のいう「閉ざされた言語空間」の一つということになるのかもしれませんが)、第1回国会等の記事も通り過ぎて、萩原徹条約局長関連で目に止まったのは次の記事だけでした。

[朝日新聞 昭和22年10月28日 一面最下段]
  外務辞令(二十八日)
△免條約局長(外務事務官)萩原
徹△命條約局長心得(條約局法規
課長)鶴岡千仭


ご本人の著作を読めば何かわかるかと取り合えず下記の2冊を読み始めたところですが、今のところ、罷免に係わるマッカーサー絡みの記述は見当たりません。時期的に或いは当然なのかもしれませんが、マッカーサーに対するマイナスの評価は書かれていないようです。

『大戦の解剖 ─日本降伏までの米英の戦略─ 』(萩原徹著) 讀賣新聞社 昭和25年3月30日発行
『講和と日本』(萩原徹著) 讀賣新聞社 昭和25年7月25日発行

それぞれに「第四章 無條件降伏」「平和條約とは何か( P77-98 P84平和條約と無條件降伏)」という、無条件降伏についての章がありました。
江藤淳が『忘れたことと忘れさせられたこと』を書く前にこの2冊の本を読んだかどうか不明ですが、もし読んでいたとしたら、

> たとえば、『終戦史録』第六巻の月報に執筆している下田武三氏は、「ポツダム宣言による戦争終結は、無条件降伏ではないと国会答弁で喝破して、条約局長を罷めさせられた萩原徹氏」の例を挙げている。

という江藤淳の素っ気ない引用は、まだ先の著作の一部しか読んでいませんが、萩原徹の考えを、あまり正しくは伝えていないように感じます。

取り急ぎ。
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Re:Unknown (深沢明人)
2011-02-09 22:01:18
 こんにちは。
 『大戦の解剖』の無条件降伏の章は私も読みました。
 おっしゃることはわかります。

 この点については、いずれ記事にしたいと考えています。

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