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満洲事変は侵略ではないのか(1) 満洲は中国でないか(前)

2008-11-25 23:23:09 | 日本近現代史
 以前の記事でも取り上げたことだが、私が田母神論文がらみで無宗ださんの記事を

また、他国の軍閥の首領を爆殺することや、破壊活動を自作自演して軍を進めて傀儡国家を樹立することは、「当時の価値観」によっても反省すべきことではないだろうか。つまり、「当時の価値観」によってもわが国は侵略国家だと言い得るのではないだろうか。

と批判したのに対し、無宗ださんは、

>1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言わ
れてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日
本軍がやったとは断定できなくなった。

と論文のp2に書かれているのだが、これに関する言及はなかった。
まあ、所詮、「ざっと目を通した。」だけの人なのだろう。

と応じている。

 「他国の軍閥の首領を爆殺すること」つまり張作霖爆殺事件にはソ連犯行説で対抗できるというのだが、「破壊活動を自作自演して軍を進めて傀儡国家を樹立すること」つまり満洲事変については、何の言及もなかった。
 無宗ださんは、満洲事変についてどう考えているのだろうか。

 無宗ださんのブログの記事「日本は侵略国家であったのか」での2008/11/8(土) 午前 11:41のコメントで、馬太郎さんという方が次のように述べている。

でもさ、たとえば侵略っていうけれど、清国って
満州民族が漢民族を侵略していた国なんだよね。

 無宗ださんにはこれに対して、2008/11/9(日) 午前 10:26のコメントで、

そうそう。
万里の長城は、そこを区切っていたんですよね。
満州は、もともと中国ではなかった。

と応じている。

 また、最近の記事「侵略国家」というレッテル」のコメント欄では、無宗ださんは、他の方のコメントに対し、

>台湾と朝鮮は日本の植民地で中国を植民地化しようとしました

うーん。
植民地という言葉でいっしょくたにしてしまうこと
満州も中国と考えることにちょっと抵抗があります。

と述べている。

 無宗ださんは、満洲は中国ではないという説をもって、満洲事変は侵略であるとの主張に対抗できると考えているのだろうか。

 無宗ださんの真意はよくわからないが、満洲は歴史的に中国ではない、だから中国が満洲事変を侵略と非難するのは筋違いだといった主張は、例えば渡部昇一など、右派の論客にしばしば見られるものである。
 実はこれは、戦前にも石原完爾などが満洲領有の根拠として主張していたものだ。

 現代でも大東亜戦争肯定論者が時々この種の主張をするのを目にすることがああるが、以下に述べるような理由で、私はこの説に反対である。
 ちょっと、この機会に書き留めておきたい。

 まず、満洲事変当時、満洲の住民の大多数は漢民族だったということを無視しているということ。

 満洲がもともと満洲民族の居住地であり、中国の漢民族の王朝がその地を支配したことはなかったというのは歴史的な事実だ。
 だからといって、満洲事変当時、満洲の住民の大半が満洲民族だったわけではない。
 清朝末期には満洲への漢民族の流入が始まっており、中華民国となってからその流れはさらに高まり、満洲国建国当時、住民の大多数は漢民族だったという。
 
 この点については、大杉一雄(1925-)による次のような簡明な解説があるので、引用する。


 日本が「満州国」という国家を独立せしめ、つづいて清朝最後の皇帝を擁立したので、満州国は満州族――漢民族とは異なる南方ツングース族――が大多数を占める民族国家として建設された、すなわち民族自決主義に基づき独立したと理解されがちである。しかしそれはまったくの誤りである。当時満州の人口は約三千万といわれたが、その九割、二千七百万弱は漢民族であり、満州族は二百万たらず、その他、朝鮮民族百万、日本人二十万、ロシア系十万で、満州族は一割にも満たなかった。これは戦前の資料によるが、戦後の研究では「漢民族に対抗すべき満州族はすでに存在しなかった。ただ同系統のものが、満州の奥地で、小さな集団をつくって狩猟をしていただけである」(平凡社『世界大百科事典』一九八五年度版、旗田巍「満州族」)といわれている。
 なぜこのようになったかというと、まず第一に満州族は彼らが中国本土に進出して清朝を開いてから、民族移動を行って満州を去って漢民族と同化し、彼ら固有の言語、文字は忘れ去られ、弁髪を強制したことはあるものの、独自の風俗は消滅していった。空洞化した満州の地は他民族の流入が禁止された時代が一時続いたが、その後やがて漢民族の流入が始まった。中華民国となってから、とくに一九二七年以降、山東省をはじめとして河南・河北省などから、年百万を超えたこともあるほどの人口移動が行われ、満州の地には漢民族が充満することとなってしまった。すなわち満州とはたんに地名を意味するようになり、そこには満州族は存在しなくなっていた。満州はすでに漢民族の土地であって、満州族の住むところではなかったのである。
 ただし満州がかつて満州族の土地であり、漢民族の支配が及びにくかった「化外」の地であったことは確かであった。(大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書、1996)p.105~106(注)

満州国は満州族の「民族自決」で建設されたのではなかった。まさに満州族不在の「偽国家」であった。このことは戦前満州に住んでいた日本人には分かっていたことなのだが、そうでない人々には必ずしも認識されておらず、誤解もされてきたようなので、あえてふれた次第である。(同書p.107)

 渡部昇一編『全文 リットン報告書』(ビジネス社、2006)を立ち読みしてみると、渡部による解説には、やはり歴史的に満洲はシナではないとの主張があるが、当時の住民の大多数が漢民族だったという点については触れていない。

 2002年8月18日に放送された「サンデープロジェクト」で、田原総一朗が高市早苗に対して、満洲事変以後の戦争は自存自衛の戦争だと思うかと尋ね、高市がそれを肯定したのに対し、満洲事変は明らかに侵略戦争だなどと述べて批判したことがあった。これについて『諸君!』同年11月号に「「サンデープロジェクト」田原氏 「満洲事変以後は侵略戦争」のウソっぱち」と題する岡崎久彦と渡部昇一の対談が掲載された。ここでも渡部は同様の持論を展開しているが、やはり当時の住民の大多数が漢民族だったという点については触れていない。

 この点に触れずに、ただ歴史的に満洲はシナではなかったと述べることで、当時の満洲の住民の多くは満洲民族であり、満洲国建国は彼らによる自決権の現れであったかのような印象を与える渡部らの態度はアンフェアであろう。

続く

注 「十五年戦争」という用語に抵抗を覚える方もおられるかと思うが、大杉自身はこの「十五年戦争」の用語に否定的である。副題は「なぜ戦争は長期化したか」。平和への努力は何故実を結ばなかったのかという視点から、満洲事変から日中戦争への歴史の見直しを試みている。私は良書だと思う。現在、講談社学術文庫でも『日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』と改題されて出版されている。タイトルとしてはこちらの方がふさわしいだろう。