先の記事で、無宗ださんのことを取り上げたところ、リンク先の無宗ださんの記事に「補足」として、次のような記述が追加されている。
「こんなことを言っている」とは、私の前回の記事を指すのだろう。
つまり、私は、
「斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人」
だというのだろう。
私が名指しで無宗ださんのことを取り上げているのに対し、「こんなことをいっている人がいる」と匿名で批判するのは何故なのだろう。
「振り向くバカ」とでも言いたいのだろうか。
それはさておき、では、「一生懸命、汗や泥にまみれ」ているのは誰なのだろうか。
田母神か、それとも無宗ださんか。
『正論』などの偏向した論文を無批判に引用するだけの田母神、それにさらに便乗しているだけの無宗ださんが、どんな具合に汗や泥にまみれているというのだろうか。
張作霖爆殺事件がソ連の犯行であるという説については、私は以前、「『マオ』の張作霖爆殺=ソ連犯行説について」という記事で触れたことがある。率直に言って、論ずるに足らないトンデモ説だという印象を持っている。
無宗ださんが、いやそんなことはない、ソ連犯行説にも十分な根拠があると言うなら、私が前掲記事で述べた、瀧澤一郎が、ソ連犯行説は「情報の出所が明示されていない」と述べている点について、その後どのような補完がなされているのか、是非とも御教示願いたい。
これは別に嫌味ではなく、私は『正論』その他いわゆるオピニオン誌の動向にそれほど詳しくはないものの、近現代史には興味があるので、そうした新事実が判明しているなら是非知っておきたいものだと思う。
もっとも、石原慎太郎が東條英機の自決(未遂)は狂言だと主張していると述べているので、私がその根拠を尋ねたところ、私がわざわざ挙げた資料でそう読み取れると述べるばかりで、明確な根拠を挙げられなかった無宗ださん(リンク先記事のコメント欄参照)のことだ、あまり期待はできそうにないが。
さて、私が張作霖爆殺事件はソ連の犯行であるとの説についてそれなりの関心を持っている可能性に全く思い至らず、無宗ださんは
>まあ、所詮、「ざっと目を通した。」だけの人なのだろう。
>斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人
だと批判している。
無宗ださんの姿勢は、基本的にいつもこうだ。
私が東條英機に批判的な言辞を吐いたら、
>個人批判はあっていいです。
>しかし、個人批判で終わってしまうのであれば、あまり意味が無いと思うのです。
>たとえば、東條氏が戦時の首相として無能だったというのであれば、何故、無能な人間に首相を任せる自体になったのかまで考えなければいけないのではないでしょうか?
>東條氏一人を非難して終わりにして良い問題ではありません。
>あの戦争を総括することは必要ですが、それは決して、指導者の誰かに責任を押し付けて終わりにできるようなことではないということです。
↑こんなことを述べる(リンク先記事のコメント欄参照)。
私がいつ、東條1人に責任を押し付けて終わりにしたのだろうか。
この点についてコメントで抗議するも、無宗ださんからの返答はない。
無宗ださんが以前トラバを送ってくれた記事「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意 (2)」は、東條の戦陣訓解釈は通説と異なるという内容のものだった。
さらにその前章に当たる記事「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意」では、ウィキペディアで見たという記述に基づき、
>「生きたまま虜囚になると、(敵から)辱めを受けることになる。だからそんなことにならないようにしましょう」という意味になる。
>×「捕虜となることは恥である」
という価値観はなかったわけである。
>東條英機の自殺未遂に関しては、未遂だったことに関して何かと非難があるが、それは的外れといわざるを得ない。虜囚になること自体は恥ではないのだから。
と述べられていた。
「生きて虜囚の辱を受けず」だから、「虜囚」と「辱」が同義であることは文章から明白だ。
「虜囚」となることは否定しないが辱められることを禁じたのではなく、「虜囚」となること自体が恥辱だと考えられていたと読むべきだろう。
私はそのように「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意 (2)」のコメント欄で述べたが、無宗ださんから以後この点についての言及はなかった。
その後、無宗ださんは、他のコメンターからの示唆を受けて、現在では自説を修正しているようであるが、以前の記事を訂正する気配もなければ、私の以前の指摘に対する反応もないようだ。
再び問う、「一生懸命、汗や泥にまみれ」ているのは誰なのだろうか。
「斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人」とは誰なのだろうか。
いいかげんな珍説、奇説を検証する能力もなく、ただただ自分の望むような説を見かけたら飛びついて、それに乗っかって他人を批判するだけ。
それが後に疑わしいことが判明したとしても、何の弁明もない。
根拠もなく勝手に他人の意図を推測して、それを批判することでその人物の見解をも批判したつもりに勝手になっている人物。
そんな輩が、ネットには少なくとも1人は巣くっているようだ。
ネットでいろいろみていると、上記の
>過去を裁くためには、当時の価値観を用いるべきである。
を受ける形で、
>また、他国の軍閥の首領を爆殺することや、破壊活動を自作自演して軍を進めて傀儡国家を樹立することは、「当時の価値観」によっても反省すべきことではないだろうか。つまり、「当時の価値観」によってもわが国は侵略国家だと言い得るのではないだろうか。
こんなことを言っている人がいた。
>1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言わ
れてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日
本軍がやったとは断定できなくなった。
と論文のp2に書かれているのだが、これに関する言及はなかった。
まあ、所詮、「ざっと目を通した。」だけの人なのだろう。
一生懸命、汗や泥にまみれるのはダサい、、
斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいい
と勘違いしている人々がネットには巣食っている。
「こんなことを言っている」とは、私の前回の記事を指すのだろう。
つまり、私は、
「斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人」
だというのだろう。
私が名指しで無宗ださんのことを取り上げているのに対し、「こんなことをいっている人がいる」と匿名で批判するのは何故なのだろう。
「振り向くバカ」とでも言いたいのだろうか。
それはさておき、では、「一生懸命、汗や泥にまみれ」ているのは誰なのだろうか。
田母神か、それとも無宗ださんか。
『正論』などの偏向した論文を無批判に引用するだけの田母神、それにさらに便乗しているだけの無宗ださんが、どんな具合に汗や泥にまみれているというのだろうか。
張作霖爆殺事件がソ連の犯行であるという説については、私は以前、「『マオ』の張作霖爆殺=ソ連犯行説について」という記事で触れたことがある。率直に言って、論ずるに足らないトンデモ説だという印象を持っている。
無宗ださんが、いやそんなことはない、ソ連犯行説にも十分な根拠があると言うなら、私が前掲記事で述べた、瀧澤一郎が、ソ連犯行説は「情報の出所が明示されていない」と述べている点について、その後どのような補完がなされているのか、是非とも御教示願いたい。
これは別に嫌味ではなく、私は『正論』その他いわゆるオピニオン誌の動向にそれほど詳しくはないものの、近現代史には興味があるので、そうした新事実が判明しているなら是非知っておきたいものだと思う。
もっとも、石原慎太郎が東條英機の自決(未遂)は狂言だと主張していると述べているので、私がその根拠を尋ねたところ、私がわざわざ挙げた資料でそう読み取れると述べるばかりで、明確な根拠を挙げられなかった無宗ださん(リンク先記事のコメント欄参照)のことだ、あまり期待はできそうにないが。
さて、私が張作霖爆殺事件はソ連の犯行であるとの説についてそれなりの関心を持っている可能性に全く思い至らず、無宗ださんは
>まあ、所詮、「ざっと目を通した。」だけの人なのだろう。
>斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人
だと批判している。
無宗ださんの姿勢は、基本的にいつもこうだ。
私が東條英機に批判的な言辞を吐いたら、
>個人批判はあっていいです。
>しかし、個人批判で終わってしまうのであれば、あまり意味が無いと思うのです。
>たとえば、東條氏が戦時の首相として無能だったというのであれば、何故、無能な人間に首相を任せる自体になったのかまで考えなければいけないのではないでしょうか?
>東條氏一人を非難して終わりにして良い問題ではありません。
>あの戦争を総括することは必要ですが、それは決して、指導者の誰かに責任を押し付けて終わりにできるようなことではないということです。
↑こんなことを述べる(リンク先記事のコメント欄参照)。
私がいつ、東條1人に責任を押し付けて終わりにしたのだろうか。
この点についてコメントで抗議するも、無宗ださんからの返答はない。
無宗ださんが以前トラバを送ってくれた記事「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意 (2)」は、東條の戦陣訓解釈は通説と異なるという内容のものだった。
さらにその前章に当たる記事「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意」では、ウィキペディアで見たという記述に基づき、
>「生きたまま虜囚になると、(敵から)辱めを受けることになる。だからそんなことにならないようにしましょう」という意味になる。
>×「捕虜となることは恥である」
という価値観はなかったわけである。
>東條英機の自殺未遂に関しては、未遂だったことに関して何かと非難があるが、それは的外れといわざるを得ない。虜囚になること自体は恥ではないのだから。
と述べられていた。
「生きて虜囚の辱を受けず」だから、「虜囚」と「辱」が同義であることは文章から明白だ。
「虜囚」となることは否定しないが辱められることを禁じたのではなく、「虜囚」となること自体が恥辱だと考えられていたと読むべきだろう。
私はそのように「「生きて虜囚の辱(め)を受けず」の真意 (2)」のコメント欄で述べたが、無宗ださんから以後この点についての言及はなかった。
その後、無宗ださんは、他のコメンターからの示唆を受けて、現在では自説を修正しているようであるが、以前の記事を訂正する気配もなければ、私の以前の指摘に対する反応もないようだ。
再び問う、「一生懸命、汗や泥にまみれ」ているのは誰なのだろうか。
「斜に構えて(無責任な)批判をするのがカッコいいと勘違いしている人」とは誰なのだろうか。
いいかげんな珍説、奇説を検証する能力もなく、ただただ自分の望むような説を見かけたら飛びついて、それに乗っかって他人を批判するだけ。
それが後に疑わしいことが判明したとしても、何の弁明もない。
根拠もなく勝手に他人の意図を推測して、それを批判することでその人物の見解をも批判したつもりに勝手になっている人物。
そんな輩が、ネットには少なくとも1人は巣くっているようだ。