昨日の記事の続き。
無宗ださんは、自身のブログの記事「日本は侵略国家であったのか」で、
>しかし、現在の価値観で、過去を裁いていはいけない。
過去を裁くためには、当時の価値観を用いるべきである。
そして、当時の他国の政策、その他と比較すべきである。
と述べているが、無宗ださんと同じく田母神論文に同調的な産経新聞もまた、今日の社説で同じようなことを述べている(ウェブ魚拓)。
>もちろん、戦争を美化してはならぬが、戦後の価値観で日本の過去を裁くこともしてはならない。当時の国民がどんな価値観をもって行動したかを理解する姿勢が必要である。
そういえば、以前話題になった「つくる会」の歴史教科書も、同様のスタンスだったと記憶している。
当時の価値観をもって考えるのならば、植民地支配は必ずしも悪ではなかった。国際的に非難されるべきことではなかった。
しかしそれは、わが国だけでなく、欧米についてもまた同様だろう。
当時の価値観をもって過去を論ずるならば、欧米のアジア・アフリカ支配もまた肯定されなければならない。
それでこそ、わが国だけが何故一方的に責められなければならないのかという反論が生きてくる。
しかし、田母神論文に見られるような近年の大東亜戦争肯定論者の主張は、欧米の植民地支配は誤りだったが、わが国の植民地支配は正しいというものだ。
そのために、欧米の支配に比べてわが国のそれがいかに穏健で誠実であったかということに重点が置かれることになる。
だが、そんな理屈が、国内はともかく、他国の理解を得られるものだろうか。
なるほど、田母神が言うように、わが国の支配は単なる収奪ではなかっただろう。
しかしそれでも、わが国から見て、朝鮮や台湾は属領であり、満洲国は傀儡国家であったという事実は変わらない。
五族協和、八紘一宇と言いつつも、常にわが国が支配する側、他の諸民族は支配される側にあった。
よりましな支配だったのだから、堪え忍べ、おまけに感謝しろといった主張が、支配された側の理解を得られるものだろうか。
被支配側からすれば、「当時の価値観」をもってしても他国の支配は悪であろうから。
もう少し突っ込んでみたいところだが、時間がないのでここまで。
無宗ださんは、自身のブログの記事「日本は侵略国家であったのか」で、
>しかし、現在の価値観で、過去を裁いていはいけない。
過去を裁くためには、当時の価値観を用いるべきである。
そして、当時の他国の政策、その他と比較すべきである。
と述べているが、無宗ださんと同じく田母神論文に同調的な産経新聞もまた、今日の社説で同じようなことを述べている(ウェブ魚拓)。
>もちろん、戦争を美化してはならぬが、戦後の価値観で日本の過去を裁くこともしてはならない。当時の国民がどんな価値観をもって行動したかを理解する姿勢が必要である。
そういえば、以前話題になった「つくる会」の歴史教科書も、同様のスタンスだったと記憶している。
当時の価値観をもって考えるのならば、植民地支配は必ずしも悪ではなかった。国際的に非難されるべきことではなかった。
しかしそれは、わが国だけでなく、欧米についてもまた同様だろう。
当時の価値観をもって過去を論ずるならば、欧米のアジア・アフリカ支配もまた肯定されなければならない。
それでこそ、わが国だけが何故一方的に責められなければならないのかという反論が生きてくる。
しかし、田母神論文に見られるような近年の大東亜戦争肯定論者の主張は、欧米の植民地支配は誤りだったが、わが国の植民地支配は正しいというものだ。
そのために、欧米の支配に比べてわが国のそれがいかに穏健で誠実であったかということに重点が置かれることになる。
だが、そんな理屈が、国内はともかく、他国の理解を得られるものだろうか。
なるほど、田母神が言うように、わが国の支配は単なる収奪ではなかっただろう。
しかしそれでも、わが国から見て、朝鮮や台湾は属領であり、満洲国は傀儡国家であったという事実は変わらない。
五族協和、八紘一宇と言いつつも、常にわが国が支配する側、他の諸民族は支配される側にあった。
よりましな支配だったのだから、堪え忍べ、おまけに感謝しろといった主張が、支配された側の理解を得られるものだろうか。
被支配側からすれば、「当時の価値観」をもってしても他国の支配は悪であろうから。
もう少し突っ込んでみたいところだが、時間がないのでここまで。