山と道・野の花のこと

揺れずに咲く花がどこにあるだろうか
この世のどんなに美しい花も揺れながら咲くのだ
<ト・ジョンファン>

西穂独標@上高地~西穂独標☆昭和33年11月

2019-12-18 | 昭和時代の記録
焼岳小屋から割谷山を越えて
西穂山荘までの写真は残っていません。
西穂山荘の辺りから
焼岳を振り返った写真です。

左奥は乗鞍岳です。

ウィキペディアの写真とほぼ同じ構図で
ここまで来ると
現在とほとんど変わりありません。
もう少し登ったところの写真には
大正池が写っていました。

(拡大すると)

大正池は現在より大きく見えます。

樹木の生長により
山の上からの眺めは時間を感じさせる
変化がありました。
西穂独標より見る西穂高岳山頂

撮影場所がわかるものは
ケルンしか写っていないので
断定はできませんが
撮った写真と
ネットで確認した画像比較により
西穂独標から撮影したものと
推定しました。
*
今年、上高地や焼岳に行ったことで
古い写真の整理が進みました。
新潟も暖冬のため
雪かき作業も少なそうです。
次はどこの整理をするか迷っています。
end

立ち枯れた樹木・焼岳小屋@上高地~西穂独標☆昭和33年11月

2019-12-16 | 昭和時代の記録
現在の西穂高岳の玄関である
新穂高ロープウェーは
昭和45年(1970年)開業で、
昭和33年には
まだ計画すらありませんでした。
上高地から登るのが主なルートです。
山のひだやに泊まったとすると
河童橋を通って中尾峠まで
南西にまっすぐ進んだのだと思います。

大正池は少しそれるので
帰りに寄ったのかも知れません。
登り始めは
普通の森が広がる風景ですが

*

雲間から大正池
*
焼岳小屋の周辺は
立ち枯れた樹木が林立し
異様な世界が広がっています。


初代焼岳小屋は昭和3年(1928年)開業。
中尾峠付近にありました。

 (部分を拡大)


(部分を拡大)

昭和37年(1962年)6月の水蒸気爆発により
小屋は大破し、4名の負傷者が出ました。
現在の小屋は新中尾峠にあります。

今年登った焼岳頂上から
見下ろした焼岳小屋です。
現在、周囲には森や草原が広がり
立ち枯れた当時の名残はありません。
西穂独標へつづく

河童橋・明神池・大正池@上高地~西穂独標☆昭和33年11月

2019-12-14 | 昭和時代の記録
昭和時代は戦後に登山が流行し、
大勢が山に向かいましたが
カメラは高級品で
すべてマニュアル操作の複雑なメカでしたから
その当時の山の写真は貴重だと思います。
ブローニーのネガのデジタル化は
手間がかかって大変ですが、
戸棚に眠らせておくのはもったいないので
冬の休眠期に、少しずつ整理を進めます。
上高地に大正池ができたのが
大正4年(1915年)です。
その頃の火山活動は
東京まで火山灰を飛ばすほど
活発だったようです。
昭和33年は西暦1958年です。
今から61年前のこと。
深田久弥さんの日本百名山は
初刊が1964年7月ですので
まだ発売されていません。
河童橋は、川上と川下の両方から
写真が撮ってあり、

*

欄干の形に面影があります。
60年前の11月ということで
人影もまばらな景勝地です。

明神池にて、山のひだや

昭和28年7月より
ユースホステル(国民宿舎)として始まり
今も営業されている
人間でいえば還暦超えの木造山荘です。
明神岳と明神橋

水蒸気のようなものが吹き上がっています。
明神池には行ったことがないので
ネットで検索した結果で
そのように判断しました。
大正池


他にも池の写真はあるのですが
どこのものか判別できません。
梓川沿いの遊歩道は昔から
手軽に楽しめる親水地だったのですね。
噴火の直後に撮ったような風景です。

ひと際、劣化の激しい写真で、
展示されていた写真のようなものを
撮影したのかもしれません。
まったく同じ構図で撮った写真です。

渡っている丸太橋は
学生さんの通学路でしょうか?
周りの樹木などの風景が違うので
最初の写真とは
やっぱり年代が違うようです。
焼岳小屋につづく