旧愚だくさんブログ

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金剛界礼懺

2012年11月23日 | 仏教・仏像

真言宗智山派伝法院の「常用経典」の講座は、先月今月の2回続きで「金胎礼懺(こんたいれいさん)だった。


礼懺は「礼拝」と「懺悔」の略称で、金剛界と胎蔵界の二種があり、それぞれ①懺悔②礼仏③嘆徳(諸尊の仏徳を讃嘆する)④発願⑤結偈(結びの文)の五つにより構成される。
真言行者は、金剛界胎蔵界曼荼羅の諸尊を礼拝することにより自己のあまねく罪業を除き、心身の状態を調える。
(テキスト抜粋)

そして、前回は胎蔵界礼懺、今回は金剛界礼懺の講義。

以前、「金剛頂経」講座を聴講したら益々ややこしくなった曼荼羅が、この金剛界礼懺経ではすっきりと理解出来た・・・いや、それは言いすぎか、何せ曼荼羅だなからなぁ・・・アウトラインをガッツリと掴んだとでも言うか・・・いや、それも言いすぎか・・・と、まぁ、吹聴は出来ないまでも自分なりに分かったのだった(汗


金剛界曼荼羅のキーワード、それは相互供養!


Namu7

(↑金剛界の中心、成身会の図)


<金剛界五仏>
大日如来
①阿閦如来
②宝生如来
③阿弥陀如来
④不空成就如来

大日如来の徳を四如来がそれぞれ分割して持っている。
つまりは、大日=阿閦、大日=宝生、大日=阿弥陀、大日=不空成就

画像の赤い線は大日如来が四如来を供養することを表し、線の先には供養のためのみ仏が存在する。
青い線は四如来が大日如来を供養することを表し、線の先には供養のためのみ仏が存在する。

赤コーナー
①内四供養菩薩
②四摂菩薩
青コーナー
③四波羅蜜
④外四供養菩薩
⑤大日如来&四如来
⑥四如来をそれぞれに取り巻く眷属(有名どころは金剛薩埵)である十六尊
の合計三十七尊が相互供養の下に展開されているんだわねぇ。
そして、その三十七尊を礼拝するのが金剛界礼懺、と。

そして、三十六尊は等しく大日如来であり、逆もまた然り。
大乗仏教の基本「仏性」を密教的に説いたのが金剛界曼荼羅で、曼荼羅に存在する末端のみ仏も大日如来と同一の存在、まさに個々の仏性。

ちなみに、金剛界を英訳するとdiamond worldだそうだけど、胎蔵界や金剛界の「界」の意味はworldではなく、「身」「舎利」「要素」「性(仏性)」とかなり内面的な世界となるそう。


以上、忘れないうちにザッとまとめてみた。


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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
曼荼羅は西が上だったのですか! (水道ネコ)
2012-11-24 21:31:45
曼荼羅は西が上だったのですか!
生まれ育ちが香川だと、小さい頃から曼荼羅を目にする機会が多く、門前の何とやらで金剛界とか胎蔵界とかいう言葉も知っていたのですが、西が上というのは初めて知りました。言われてみれば確かにそうだなーと納得出来るのですが、結構トリビアであります。
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水道ネコさん (カメ)
2012-11-24 23:03:36
水道ネコさん

香川生まれ
良いな~
それだけで憧れる~
しかも、小さい時から金剛界・胎蔵界曼荼羅を見知っていたなんて~

ところで、水道ネコさんは「上から」と思うから西が上に位置するのが不思議なのでは?
「手前から」と思えば東が手前になるので、手前から東、続いて西南北、でオッケーのような・・・

いや、でも、もっと深い意味があるのかも。
例えば中国に倣って西が上になったとか、色々と。

うーむ・・・
その辺は分かりません。
m(_ _)m スイマセン
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曼荼羅は本来、床に壇を作って描いたものです。 (ナムナム)
2012-11-25 22:35:25
曼荼羅は本来、床に壇を作って描いたものです。
え~、まず、自分が北に向かって立っていると思って下さい。
自分の右(東)に胎蔵曼荼羅、左(西)に金剛界曼荼羅が平らな状態であると思って下さい。
右手で胎蔵曼荼羅の向こう側(東の端)を持って、左手で金剛界曼荼羅の向こう側(西の端)を持って、そのまま持ち上げて、左右の壁に掛けたと思ってください。
胎蔵曼荼羅の上は東、金剛界曼荼羅の上は西になります。
その2つの曼荼羅の上を持ったまま、自分の前の壁に持ってきて並べて下げた、と思ってください。
ほ~ら、両界曼荼羅になったでしょう?
分かりました?
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カメ様 (薬師寺小学校生徒)
2012-11-26 14:33:30
カメ様

 ご存知だったらゴメンナサイ。
 神奈川県立金沢文庫月例講座「第四期・日本仏教史講座(講師:文庫長・永村眞先生)」の紹介です。

 第一回:12月16日、「空海と東寺」
 第二回:1月31日、「真雅と貞観寺」
 第三回:2月3日、「益信と仁和寺」
 第四回:3月10日、「聖宝と醍醐寺」

 7・8年前迄の金沢文庫連続講座の聴講者は、女性1割未満、平均年齢は60歳後半でした。しかし、称名寺所蔵【大威徳明王】の作者が運慶最晩年の真作と判明し、又、女子大教授の永村眞先生が<文庫長>に就任されて以来、聴講者の女性比率は3・4割になり、女子大生・学生が急増しています。講義開始30分前には、シーンとなりレジメを捲る紙の音だけとなる雰囲気が好きです・・・、でも女性比率がアップするようになり多少変わりつつある・・・。

 金沢文庫の講座は、宛も宗教法人主催の講座かと思えるようなものです。とても公立博物館の講座とは思えぬようなモノです。一度覗かれては如何ですか。
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ナムナムさん (カメ)
2012-12-01 19:31:20
ナムナムさん

ありがとうございます。

本来、床に描いた・・・から始まる曼荼羅の東西南北は、遠い記憶をたどれば、NHK学園仏教美術スクーリングにて東寺の後七日御修法を見学した際に教わったのでした。

まったく何もかも忘れてしまって、困ったものです(沈
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薬師寺小学校生徒さん (カメ)
2012-12-01 19:40:21
薬師寺小学校生徒さん

このシリーズには非常に興味があります。
特に「真雅と貞観寺」。
空海の実弟である真雅は、その時代に活躍しながらも空海の陰に隠れてしまうかのように、その人物像はあまり伝えられておりません。

当寺は、この辺では珍しい真雅開山と伝えられているので今以上に真雅のことを知りたいと願うところです。
特に、その足跡を知りたい。

金沢文庫は遠いですが、がんばって聴講に出向きたいと思っています。
貴重な情報をありがとうございます。
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カメ様の御寺は真雅僧正が開山でしたか! (薬師寺小学校生徒)
2012-12-03 15:06:12
カメ様の御寺は真雅僧正が開山でしたか!

 「南河内町史・資料編2古代中世」(現金沢文庫長永村眞先生の執筆・編集?)からの孫引きです。

東大寺要録巻五・別当章
第二十三僧正真雅 承和十四年(847)任
 寺務四年 承和十四、嘉祥元(848)、二,三 
 嘉祥元年法花会、新物不備、停他寺聴衆
 同年十一月三日官符云、
 下野薬師寺、准大宰観音寺例、擇東大寺戒壇院十師、宛任授戒阿闍梨者

 嘉祥元年(848)十一月三日官符とは、続日本後紀に記載の件です。下野国から、下野薬師寺は「体製巍巍としてあたかも七大寺の如く、資財亦た巨多なり」ながら三師七証の僧がいないので、何とかしてくれと「望み請うらくは、大宰府観音寺になずらえて、戒壇十師のうち智行具足し衆として推す所の者を簡択しして、講師に充て任じ、便に阿闍梨となさんことを」との要請を受け、朝廷はこの日此れを了とした一件です。

 以下は、小生のトンデモ空想です。失礼の段ありましたら、御海容ください。

 法相宗陸州徳一菩薩は、新興勢力の天台・真言両宗の坂東以北進出を阻止すべく、三乗一乗論争で最澄が死ぬまで激論を闘わし彼を苦しめ、最澄没するや矛先を空海に向け「真言宗未決文」で迫った。徳一菩薩の死後も法相宗VS天台・真言宗の法戦は坂東の地で続いた。
 承和14年(847)4月15日、下野国分寺で、円仁入唐中の留守を守る第4代天台座主安恵と下野薬師寺別当僧智公は大論戦をした。安恵は相当口惜しかったようで、反論すべきだったことを「愍諭辯惑章」に書き残している。一方、智公も同年9月の円仁帰国・天台東漸に危機感を持ち、下野国守を通じ下野薬師寺論陣強化策として講師派遣要請をした。
 この時、官寺を総覧する立場にあった【東大寺23世別当・真雅】これをキカとし、己の高弟を下野薬師寺に送り込んだ。この真雅高弟達が、法相宗退潮・天台宗隆盛の地に真言宗の楔を打つことになった。カメ様の御寺も真雅高弟達が・・・。

 別件ですが
 金沢文庫月例講座の申し込み締め切りHPで確認して下さい。

 それから、真岡市遍照寺の補足です。
 「足利尊氏展」に遍照寺の大日如来坐像(大仏師法印康誉作)、宝冠釈迦如来坐像が出展されておりました。図録が参考になりますね。
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薬師寺小学校生徒さん (カメ)
2012-12-04 22:34:13
薬師寺小学校生徒さん

トンデモ空想(!)を非常に興味深く拝読いたしました。

私事ではありますが、当寺は大正の大火災にて建造物はおろかご本尊さま、過去帳までも焼失し、寺伝を手繰ろうにもその糸先がつかめぬままの状態です。
そんな中でもかとうじて分かっているのは、
・真雅開山であること
・日光山輪王寺管主の隠居寺であったこと
・金堂、講堂、僧坊、鐘楼堂があり、三文は四足門で菊の御紋が入っていたこと
・我が在住市では「広済寺」に次いで二番目に古いこと
・・・と、それくらいであります。

歴史は古いものを守り伝えるだけでなく、新しきものを生み出して後世に伝えるものであると思います。
大火災以降、編み出されることがなかった当寺の寺伝・・・今こそそれを編んで後々まで伝えて行きたいと願うものの、如何せん真雅の資料が少なくて難儀いたしておりました。

その点で、薬師寺小学校生徒さんのご推察には非常に感じ入るところ多々あります。
確かに真雅ではなく真雅の高弟の開山かと思われます・・・どう考えても、この界隈に真雅の足跡は見当たらないのですから。

それと、当寺界隈から福島県にかけて徳一開山の寺が多く、そのせいか「最澄との論争敗れて追われた徳一上人、可哀想」なる風潮色濃く、どちらかと言えば徳一贔屓です。
しかし、そのような土着的歴史観(?)を覆すようなご高察には、ただただ脱帽です。

金沢文庫月例講座は往復はがきでの申し込みだそうで、遅かりしながら本日はがきを投函しました。
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 東密正統空海嫡流・真雅 (薬師寺小学校生徒)
2013-03-10 20:07:12
 東密正統空海嫡流・真雅
 ・・・再び金沢文庫から・・・

 本日、金沢文庫月例連続講座「日本仏教史入門」(講師:文庫長永村眞先生)最終回(第四回)【聖寶と醍醐寺】がありました。
 第二回【真雅と貞観寺】の続きもありましたので、その概要をご報告します。

 ◎先月27日、文部科学相宛文化審議会答申により国宝指定になる「醍醐寺文書聖教」の概要紹介。
  古文書が一括して国宝に指定されているのは、東大寺文書・東寺文書・島津家文書(東大史料編修所)・上杉家文書(米沢市上杉博物館)に続き、醍醐寺文書は5番目であり、金沢文庫文書聖教は6番目の指定を目指し、解読整備を進めている。
 ◎聖寶の生涯と醍醐寺の概要紹介。
 ◎真雅が真言密教の正統を継承したことを保証した後醍醐天皇宸筆国宝「天長印信」(天長3年・西暦826年)について。
 空海の生まれ変わりであり、転輪聖王として聖俗両界の帝王たる後醍醐天皇が延元4年(西暦1339)に書写し、この経緯を護持僧・文観が奥書したことにより、空海真筆ではないと言われる偽文書「天長印信」は偽文書でなくなり、真雅が間違いなく空海より印信を授与されたこととなった。

 概ね以上のような講義でした。
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薬師寺小学校生徒さん (カメ)
2013-03-11 12:24:14
薬師寺小学校生徒さん

重ね重ねありがとうございます。

「真雅と貞観寺」のレジュメを見ますと、天長印信の信憑性は疑問視と書かれていますが、調査によりその疑問視がなくなったのでしょうか。

薬師寺小学校さんのこのコメントをコピーしてレジュメに貼り付けておきます。
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