民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

正月の終わり

2017-01-10 16:31:20 | 民俗学

 成人の日をいれた3連休に、東京から長男が帰省しました。妻は週末は実家で介護があるので不在。よって、土曜は私が何か料理し、日曜は妻の実家へみんなで行く予定にしていました。ところが、おばあちゃんが熱を出してしまい、医者に行くとインフルエンザだとのこと。移るといけないから来ないほうがいいと妻から連絡があり、日曜も買い出しをして私が料理することになりました。土曜は刺身とお惣菜などを買ってきました。そして、日本酒1本とカンビールいくつか、ワイン1本を3人で飲みました。翌日は、アンコウ鍋にし、ワイン4本カンビール数本、ウィスキーほぼ1本をあけました。3人で飲んだとはいえ、翌日は完全なる二日酔いでした。これで私の正月は終わったわけですが、昔の正月は長かった。今は、3が日か長くとも七草で正月気分とはおさらばですが、昔は少なくともコショウガツまでは、何となく正月が続きました。14日には餅をついたり、ワカドシだからといって、何かちょっとしたごちそうを食べたものです。三九郎があって、子供たちはその後お楽しみ会がありました。炊き込みご飯を作ってもらうことが多かったような気がします。

 信濃毎日の記者さんにも話しましたが、今は小正月がほとんど祝われなくなり、小正月だという意識もなくなってしまいました。月の満ち欠けで暦を決めていた古い時代には、1月の満月の日が年の初めだったはずです。その名残の小正月の諸行事がなくなり、作物の豊作は祈られることがなくなってしまいました。人々は農業から遠く離れた場所へ行き着いてしまったのです。


天龍村向方の湯立神楽ー承前

2017-01-06 09:11:49 | 民俗学

 舞を見ながら考えたことを書いてみます。

1 宮人の秘密結社か
 前回書きましたが、宮人の伝承の厳格さ、具体的にはどのような厳しさがあったのかわかりませんが、伝承を重んじることや長幼の序だろうと想像されます。親沢の人形三番叟の伝承がそうであったように。それがいやで、やめてしまったといいますから大変なものだったのでしょう。おそらく、神楽に関する伝承は部外秘で村人であっても宮人以外は知らない、知らせてはならないという、秘密結社のようなものではなかったかと思います。そうすることで、ムラ内におけるある種の特権というかプライドを手に入れていた。プライドをもつほどに、修練も重ねていたことと思います。神楽に関しては口伝であったそうです。文字による記録は近代以降のものしかないのです。それで、何年かに一度しかやらないオキヨメマツリノの内容、とりわけ演目の中で「うたぐら(歌詞)」を伴うものを伝承してきたのは驚きです。現在では「うたぐら」は文字起こしした台本のようなものを演者が持っています。数百年にわたる伝承ですから、微妙に変化しているとは思いますが。現在、舞を奉納している芸能部の方は、10時までには舞を終わりにしてくれというムラの要請があり、遅くなれば観客の村人は舞をやっていても帰ってしまい、ご苦労様だとか、しっかり頼むだとかもいわれない。ムラ人の関心が薄いと嘆いていました。おそらく、宮人が舞っていたときから今も、どんな舞を舞っているのかムラの人々は知らないといいます。神楽に対してムラとしての一体感がないのです。特別な人たちがやるものだという意識でしょうか。演者と観客がムラの祭りなのに最初から分離していたのです。それは舞の見方にもあり、遠山では神楽殿で演者のすぐ近くで観客は見ますし、鬼の舞と一体になって鬼を受け止めたり押し戻したりして楽しみます。坂部では、観客は神楽殿に上がることはできませんが、舞に掛け声をかけたりして励まします。ここでは、無言で見なければならないのです。

2 伝承とはなにか
 向方では神楽は口伝だということで、古文書といえるような文字記録はありません。演者が持っているのは 覚えのために書かれた、「うたぐら」の冊子です。そこにもないようなことを調べるには、あるいは舞の順序を確認するにはどうするかといえば、国の補助を受けて天龍村が作成した分厚い報告書を開くことです。今回も見ている範囲では、2度ほど報告書を持ち出して開き、確認をされていました。ムラの人にも定かでない所作が報告書にはあり、書かれた内容が舞を作っていくのです。つまり、報告書が原点となったのです。一時、調査被害ということがいわれました。調査者が作り出した、あるいは都合よく選択した行為や伝承があたかも、その土地に古くからおこなわれていたような幻想を与えて、民俗を創作あるいは変形させてしまうことだと理解します。この場合も、報告書が定番となりあたかも虫ピンで標本を止めるように民俗を固定してしまうのですが、それがなければ完全に祭りは廃絶されてしまいます。歴史の中で民俗が変化したり忘却されていくことは当然なのですが、無くなるのを座視してよいかは別の問題です。記録保存と復元とをどのようにとらえたらよいのか。神に仕える宮人が厳格な伝承に基づいて行っていた神楽と、宮人以外の人が芸能として行う今の神楽を同じものとしていいのか。それは、遠山の霜月祭りの仮面を外部に持ち出して、祭り以外の目的で文化会館などで舞っていいのか、と古風な地元の人が悩んだのと同じ問題です。とにかく続けること、多くの人に見てもらってその価値を認めてもらうことが大事だと今はなっているのですが。

 

 


天龍村向方の湯立神楽(お潔祭)

2017-01-05 14:50:21 | 民俗学

 1月3日から4日にかけて行われる、天龍村向方の湯立神楽を見に行ってきました。この祭りも本来は霜月まつりと同様、旧暦の霜月、つまりは太陽の力が最も弱まるときに行われた湯立神楽ですが、今は遠山地域や同じ天竜村の他地区などとの日程調整や、外部に出た人も帰ってきて参加できる日程ということで、3日しかなくて決めたものだといいます。また、祭りの呼び名としては「お潔め祭」といっていますが、本当は「オキヨメマツリ」とは、臨時に行われる願掛け祭で、改元や災害、戦争などに際して世の中全体をキヨメル意味で行われたものだそうです。例祭では、その一部を行うもので、忘れないための練習といった意味合いもあるようです。

 神楽を舞うことができる人は、昔は宮人(ミョウド)だけだったそうです。宮人とは、病弱などのため丈夫に育つように神に願をかけたり、戦争から無事戻るようにと願をかけたり、自分は一生神仕えると決意を固めたような人が、願ってなるものでした。宮人の神へのつとめや上下関係は厳格なものでしたが、宮人以外の人々に対しては、少なくとも祭りの場では特権的な振る舞いが認められていたようです。ところが、昭和30~40年代ころには宮人としての厳しい務めを嫌って宮人となる人がいなくなり、このままでは神楽の伝統が途絶えると心配して、若い人が改革を唱えましたが年寄りは受け付けず、宮人であった人までも、宮人をやめてしまい。一時舞の伝統は途切れてしまいました。これではムラが崩れてしまうと危機感をもった人々で、芸能部という舞を舞いたいという人を募って神楽を復活させ、現在に至っているのだそうです。そうして何とか伝承をつないでいますが、人口減少にははどめがかからず、ムラの外へ出た住民、ムラにできたどんぐり向方小・中・高の児童生徒、先生方、村外でネットなどを通じて祭りを知り舞いたいと通ってくる人などに支えられて継続しています。ちなみに、舞う人の中には宮人は一人もいないそうですし、宮人の人も高齢で祭りの場への参加もままならないそうです。また、お宮までくることは可能であっても、神ときれてしまった神楽は本当の神楽ではないと、誇り高い宮人はお宮に近づかない、そんなことも思ったりします。

 何しろ神聖な舞堂には、祭りの間女性が立ち入ることを禁じ、男性であっても関係者以外、舞が終わって火伏をするまで立ち入ることを禁じ釜の火に当たることも許されません。今年、笛の吹き手は高校1年生の女性が務めていました。向方在住の子で、家族皆が祭りの役割を務めていてくれるのだそうです。一人で祭りの間中、笛ふきをしていました。ところが、写真を見てもらえばわかりますが、彼女も舞堂には足を踏み入れず、控えの間(女宮人部屋)で吹いていました。

 

 

 一度途絶えて芸能として復活した舞ですから、遠山や新野の祭りのように神の雰囲気を感じたり厳粛さに打たれるといった場面はなかったように思います。だからこそ復活できたのでしょう。しかし、そうなったときに神楽の意味とは何なのでしょう。神楽が芸能になって、歌舞伎を見るように神楽を見るといえばいいでしょうか。舞の中ほど過ぎになって、宮総代の一人のおじいさんが、舞堂の前ににじりより、我慢ができないように太古のリズムに合わせて上体で舞っていたのが印象的でした。