民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

井上治代著『墓と家族の変容』 岩波書店 読了

2013-08-05 15:48:30 | 民俗学

 家族形態の変化が墓の形態を変化させるとは、当たり前ながら予想できることで、予想が当然のごとく思われていたでしょう。その予想を、アンケート調査や聞き取り調査によって実証したのが本書です。その結論をいってしまえば、戦後の墓祭祀は「家的先祖祭祀から近親追憶的祭祀への移行」という過程をたどり、墓地は継承を前提とする家墓から、脱家的墓として継承が可能な墓と継承が不要の墓とに変わってきているというのです。

現実の問題として、一人っ子同士の結婚や、女姉妹と男一人だけの兄弟姉妹との組み合わせの結婚はいくつもあり、天皇家ではありませんが誰がアトトリとなるかは、悩ましいはなしです。というより、アトトリなどということにこだわっていたら、これからは結婚できないでしょう。アトトリなどということを無視して結婚した場合、まずは姓をどうするかが問題になり、次は相続をどうするかが問題になります。そして最後に、墓をどうするか、もっといえば自分が死んだ後、どこの墓地に入るかが問われます。墓を守るまでは、夫と妻双方に同等にかかわるとしても、自分が死して後はどうなるのか。「家」が崩れて夫婦が中心となる双系家族に変わったとしても、父系単系相続を前提とした墓祭祀はかわっておらず、現実との間に矛盾が生ずる、井上はそこをついたのです。それにしても、夫とは別の永代供養墓を個人で購入した女性の話した、夫という人の身勝手さ理不尽さはすざましいものがあります。同じ男ながら、そんなことってありかよ、と思ってしまいます。

「義弟、小姑二人や職人を抱え、忙しいときには娘三人の子育てだけでも大変なのに、下の子をおぶって深夜二時頃まで仕事をしたこともあった。子どもが病気を患って大変な時期でも、夫がそばにいても子どもを車には乗せてはくれなかった。」「家の商売と三人の子どもの育児・家事をこなす私の知らないところで、やっと買った土地の売買が勝手に行われていた。私を一人前の人間としてみていない。夫は四五歳のとき脳溢血で倒れた。一命を取り止めたが後遺症が残った。それでも夫は仕事を続けた。しかし、家に生活費を入れなくなったので、しかたなく私は外で働いた。パンの耳を齧っておなかの足しにしたこともあった。倒れて十年が経った年、夫は五十六歳で死亡した。遊びと取引先にだまされてつくった借金が一千数百万円残った」

葬式と墓が今後どうなっていくのかが、今の自分に与えられた課題です。葬儀が近親追憶的祭祀に変わっているのは実感としてわかります。死者が安心して三途の川を渡って成仏できるように、といった要素は今の葬儀からは感じられませんし、お坊さんもそうした話はあまりしません。そのかわりに、孫などが亡くなった人の思い出を語る場面が多くなりました。死者ではなく、残された遺族のために葬式はあると一般に認められてきていると思います。これは、葬儀のプログラムの調整でどうでもなることです。問題は墓地です。これから墓地はどうなるのでしょう。そして、継承されることを前提に墓地を営み葬儀にかかわる寺方は、あまりにも変化する現実に無頓着です。


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1 コメント

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Unknown (久志本鉄也)
2013-08-07 00:25:16
ご存じだと思いますが、もう20年も前に書かれた森謙二さんの『墓と葬送の社会史』(講談社現代新書)を読んだとき、そこで紹介された年齢階梯制墓地・男女別墓・総墓制、分牌祭祀、企業墓・志縁墓などに驚かされました。しかし森さんの問題意識はそこから先の「これからの墓地」にありました。それから20年。井上さんの新著は、さらにその先の地平を切り拓いているのかな?
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