民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

歴史認識とは何か

2013-08-27 10:28:16 | 歴史

ようやく落ち込みから回復しつつあります。一気に涼しくなったみたいですが、残暑はまだまだ続くようですから、ここからまた気を取り直さなくてはと思っています。

それにしても、この夏の近隣諸国との歴史認識をめぐるやりとりは、救いようがないところまできてしまったように思います。安部総理はこれまでの自民党の公式見解を翻し、本音を微妙に見せながら行動しています。しかもこの夏は、狡猾にもそれが本音であることをどうしても表に出さないで、村山談話、河野談話を継承すると嘘をつきながら、先の戦争が侵略戦争であるとはどうしても認めようとしませんでした。にもかかわらず、いつでも外交の門戸は開いているにもかかわらず、応じて来ない相手国が悪いのだといいます。この人にとっての国益とは何でしょうか。東西冷戦に便乗して戦犯処刑を免れたおじいさんを復権し、その戦前からの思いを貫徹することにあるようですから、私たちの国益とは大きな乖離があります。帝国主義による侵略は日本ばかりでなく当時の先進諸国がとった政策だから、何も日本だけが悪いわけではないし、それらの諸国からとやかくいわれる筋合いはないというなら、戦後社会のストーリーを構築したアメリカと本気になって論争する気があるのでしょうか。韓国・中国には高飛車に出るが、アメリカには平身低頭するという姿は、国際的にもほめられたものではありません。

靖国神社の遊就館を見たことがありますか。あそこの展示は、先の戦争は祖国防衛の止むに已まれぬものであり、周辺諸国を侵略しようとするどころか、救おうとするものであったとの理念に基づいたものです。あの展示をしながら、靖国は戦争で犠牲になった人々を祀るもので、お参りするのに周辺諸国からとやかく言われるのは内政干渉だとは、とてもいえるものではありません。国会議員はよほど理解力の劣った人々か、先の戦争で日本が行った行為が本当に残虐なものであることを知っているからからこそ、どうしてもそれを事実と認めたくないかのどちらかでしょう。南京で虐殺されたのが何万人かの数の違いなど論点にならず、数は違っていても軍隊が民間人を殺害したことは事実として認めざるをえないのです。殴ったほうは忘れても殴られたほうは一生どころか、何世代にもわたって忘れません。恥知らずな政治家を戴いていることが恥ずかしいです。