民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

盆と魂の交流と赤羽王郎

2013-08-19 17:57:35 | 教育

様々な人々に会って話して、今年の盆もあわただしく終わりました。その中でも、初任で担任したクラスの同級会と自分の小学校の同窓会が連日であったことが、印象的でしたし考えさせられることが多かったです。おまけに、同時に読んでいたのが、今井信雄『この道を往く 漂泊の教師 赤羽王郎』でしたから、尚更でした。

担任したクラスの同級会については書きましたので、同窓会について主に書きましょう。私のクラスは50名の級友がいました。50人もいたことを、改めて確認しました。そのうち半分くらいが出席しました。

「横に並んだ席になったときに、勉強を教えてもらってありがたかった」「体育館で親指のツメをはいでしまったとき、おんぶして保健室に連れて行ってくれてうれしかった」「勉強はきらいでやらなかったけど、いつも一緒に遊んでくれていい想い出が残ってる」「小学校の時から先生みたいで、先生になると思ってた」等々、気恥ずかしくなるような言葉を何人もがかけてくれました。小学校のころの自分は、運動が苦手なことに大変なコンプレックスがありました。その上、自閉症気味なところがあり、フランクに誰とも話すことができませんでした。勉強したのは、その反動のようなものでした。にもかかわらず、自分が思っている以上に周囲の友達は頼りにし、信頼していてくれたことが今回わかりました。今更何のお礼もできませんが、うれしくなりました。悲しいこともありました。小学校のころ一番仲がよかった友人が、3年ほど前に喉頭がんで亡くなってしまいました。夏休みに彼がたくさんのカブトムシをとって、私に届けてくれたことが今でも思い出されます。彼は、中央大で数学の先生をしていました。まさか、そんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、ショックをうけました。ところが、残された奥さんがうつ病を患って、後を追ってしまったというのです。高校生の息子さんがいたというのに、何とかならなかったものでしょうか。合掌

なつかしい人に会ったり、盆に帰った仏様の供養にでかけて縁者の方と思い出話をしたりしながら読んでいたのは、『この道を往く  漂泊の教師 赤羽王郎』でした。30年も前に刊行された本ですが、積読状態で、今回の蔵書整理の中で出てきたので読み始めました。白樺派教師の代表赤羽王郎については知っていましたが、なぜ遠く鹿児島まで行って教師をしたのか不思議に思っていましたが、今回ようやくわかりました。長野県の教育界に赤羽を迎えるほどの度量がなかったし、赤羽にも安定を嫌う漂泊の心性があったのです。赤羽は短期間の講師をくりかえしながら教師業をかろうじて続けていくのですが、先々で強烈な印象を児童生徒に残したようです。また、見せかけの権威や因習や常識を嫌い、常に本物を求めて取り繕うことを知りませんでした。それでトラブルとなり、直ぐ辞表提出をくりかえしたのですが、授業は子ども中心でグループ学習や探求型の指導をしたようです。戦前のことですから驚きですし、師範学校で学んだわけでもない、王郎流の学習指導が抜きんでていました。そうした王郎の指導は、鹿児島で多くの教員に伝授されました。しかし、あれほど帰郷を願った信州では、ついに陽の当たる日が訪れることはなかったのです。

純粋だけれども世渡りの下手な王郎を心配し、終生にわたって援助を惜しまない友人が何人かいました。中でも高津作吉が気になります。時間をみつけて調べてみようと思います。