民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

ハレとケと教員の不祥事ー山口昌男コレクションを読むー

2013-08-09 16:48:45 | 民俗学

山口昌男が亡くなってしまいましたが、彼のエッセンスを集めたような文庫が編まれました。学生時代、山口昌男が次々に発表する著書は刺激的で、いつも楽しみに読みました。中でも『文化と両義性』は、これを使って何かできるかもしれないと、ワクワクしたのを覚えています。と同時に、この博覧強記と創造力には歯が立たないと感じたのも事実です。話題が西へ東へと軽やかに跳び、跳んだところで深く掘り下げ、どうしてこんなに幅広く読書ができるのだろうと思いました。今回文庫が出版されましたので、改めて読み直している次第です。そしてまた、構造主義的思考に浸っているのです。

たとえば「文化と狂気」。人は狂気を囲い込むことで、正常を正常たらしめ日常の秩序を保っています。ですが、我等の内側に狂気はないのか。祭りの熱狂、中座の神降ろし、ユタの神がかり、いずれも向こうの世界に当事者は一旦行って、帰ってくるのです。日々の繰り返しの日常を日常たらしめるため、簡単に言えば、鬱陶しい日々を時には忘れるため、ハレ=祭りの熱狂=混沌が必要なのです。杓子定規な日常を強制されるばかりでは、個人的に狂ってしまう者が現れても不思議ではありません。一人だけで向こうの世界に勝手に行ってしまえば、犯罪か発狂かといわれます。集団であるいは社会のシステムとして規範を一時的に崩せば、それがルールになります。今の社会に、ハメをはずすことを公に認められた時間が少なすぎるのではないでしょうか。規範をいったん解体することで、文化を再構築し活力を呼び覚ます。学校という場所は、ますます規範にとらわれがんじがらめになっています。そして、ますます規範を厳しくすることで、不祥事をなくそう・不祥事がなくなると行政は考えているようです。それ、本気で思っているんでしょうか。いたちごっこで、どんどん首にしていったら現役で勤める先生はいなくなるかもしれません。つまり、厳罰化では不祥事はなくならないと思います。規範を強化されればされるほど、日常は活力をなくし狂気に走る者がでてくるのが道理です。無礼講で酒をのむことを奨励するわけではありませんが、一時的な混沌、熱狂を意図的に設定することが、構造論的に言えば不祥事をなくすための手立てだと考えますが、頭の固い行政にこんな話をしても、きっと通じないでしょうね。