民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

学問と生き方

2013-08-21 15:30:49 | その他

ゆうべ何気なくテレビをつけると、BSで島田裕巳と井上治代が出演して、墓のあり方についてインタビューに答えていた。二人とも、墓についても個別化が進み、家族や個人の考え方が多様化する中で、様々な形態が考えられてきており、それぞれが認められるべきだというような話をされた。そして最後に、これからはどうなっていくだろうか答えてくれという問いかけに対して、島田は「0」というキーワードで答え、井上は「自然」と「継承」というキーワードでこたえた。島田のいう0とは、骨の始末もなにもなくなって焼いたらそれで何もなくお終いとなっていくだろうといい、井上は人間も自然の1部としてそこに帰っていくだろうし、継承を前提とする墓はなくなっていくだろうというようなまとめを述べた。島田の、ゼロという答えにはアナウンサーもいささかムッとして、自分が亡くなったらどうしてもらいたいですかと、島田は自分自身としてはどうしてもらいたいと考えているのかと問うた。すると、腰の抜けるような答えが返された。「私には何の考えもありません。どうせ死んでしまっているのだから、子どもの思うとおりにやってもらえばいい。昔どおりに丁寧にといえばそれでもいい。自分の考えをいったところで、どうせその通りにはならないのだから」これってなんだろう。墓などいらない。葬式など資本主義の論理で、業者や寺がもうけるのにやっているものだから意味がない、と述べておきながら、自分についてはどうでも好きに葬ってもらえばそれでいいと平然と述べる。自分の学問と自分の生き方とは違います、といったある研究者の発言を聞いたことがあるが、それでいいのだろうか。確かに職業として学問をするということはある。だからといって、自分の生き方と自分の研究とは全く別のものだといえるのだろうか。そもそも該当する学問、特に人文科学へのモチベーションや問題意識は、直接的か間接的かはあるにしても、日常の自分の生き方の中から発見されるものだと思われる。島田というひとはオウム事件の時、オウムの擁護にまわった人である。時流にのらず、世間の風向きで何も考えず批判にまわった人よりましだという評価もあるだろうが、オウムの場合常識的判断のほうが勝っていたのだ。宗教学者として訳知り顔で述べた言葉は、どれだけ彼の心の言葉だったのだろうか。